第3話

 甘い香り。

 私は、無意識の内にその味を想像する。

 それはきっと舌先にトロリと落ちる。

 じわりと染み込みように甘い。

 飲み込めば、きっと私は満たされる。

 御饌みけはすぐ傍らにある。

 私がここで心づいたその時から、常に目の前に捧げられている。

 灰色の樹で組み上げた机に、赤く枯れた杉葉を敷きつめた上に据えられた、黒い、 脆そうな土師はじ

 そのうちに御饌は注がれている。

 波々というわけでなく、ごく僅かということでもなく、掌にちょうど収まるほどの土師はじの器に、程よい量注がれている。

 甘い。

 どこまでも甘い香り。

 指先が土師に触れる。

 やっぱり、どこか脆そうなざらついた感触。

 いずれは注がれた御饌みけに溶かされて、砕けてしまいそう。

 そうなる、前に。

 は、と心付いて土師を投げる。

 土師の器は音もたてずに砕け散った。

 甘い香りがいっそう強くたつ。

 私は今、無意識のうちに御饌を口にしようとした。

 喉が渇く。

 腹が鳴る。

 もはや長らえるべき命を持たない身体が御饌みけを求める。

 土師の器の感触の残る指先を見る。

 白い、青いほどに白い指は、すでに輪郭を滲ませているように思える。

 身体は、食したものでできている。

 では、すでに生きるための食を必要としない私は、いずれは消えてしまうのだろうか。

 甘い、黄泉の御饌みけの香り。

 無意識にも口にしてしまいそうになった魅惑の香り。

 危うく振り払ったあの御饌みけが失われてしまった事に、私は安堵よりも強い失望を感じてさえもいるのだ。

 汝兄なせよ。

 来るなら疾く来よ。

 私が汝兄なせと同じものである内に。

 私が汝兄なせの妻であれる間に。



 私達は目合まぐわった。

 私の成り合わぬところ、腹に広がる洞は子を育むための場所だった。

 最初の子は、流し捨てた。

 その子にはが足りていなかった。

 褻の足らぬ子を流し捨てることは仕方がなかったが、ひどく悲しい気持ちになった。

 ただ天地の間に成ったのとは違う、私の命を継いで生まれたまさに「吾子あこ」と呼ぶべき子。

 私は、吾子あこを失う事が、悲しい事であるのを知った。

 私達はそれからも幾度も目合まぐわい、私は幾度も子を生んだ。

 身体の成り余れる汝兄なせの腹には、吾子あこを育む洞がなかった。

 吾子あこを生むたびに世界は満たされ豊かになる。

 国は広がり、吾子あこらにはそれぞれに司るべきものがあった。

 それは国土そのものであり、風であり、海であり、川であり、山であった。

 あるいは野を司り、樹木を司り、食を司る。

 愛しい、愛しい、愛しい、吾子たち。

 国は豊かに美しくなり、は満ちて命を地に溢れさせた。

 私は子を生んで、生んで、生んで。

 ついに最後の子を生んだ。

 

 


 

 

 




 

 

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