第2話

 気配を感じた。

 いや、気配は常に感じている。

 この常世、根の国、黄泉へと引き寄せられたその時から。

 これはきっと黄泉大神よもつおおかみの気配だ。

 黄泉大神はずっと私の事を見ている。

 この、というものの涸れた国を統べる神は無口だ。

 永劫の静寂しじまのような沈黙は、生なきものの言葉のごとく、根の国を満たしている。

 いや、もしかしたら。

 私には聞こえないだけで、ここには死者の言葉が溢れているのかもしれない。

 甘い香り。

 私を魅惑する常世の御饌。

 あれを口にすれば、私にも聞こえるようになるのだろうか。

 だが、ならない。

 それは、なるまい。

 私のつま

 愛しい汝兄なせの君。

 あの方が私を諦めるわけがない。

 黄泉比良坂よもつひらさかを越え。

 きたなきものを踏み分けて。

 褻涸けがれの危険を冒しても。

 あの方は必ず私を連れ戻しに来る。

 ならば、せめてその時まで、私は汝兄と同じものでありたい。

 恋しい、愛しい、私のつま

 恋うるとは乞うる。

 なり成りて成り合わぬところをさしふさぐ、私の汝兄の君。

 甘い香り。

 既に命なき腹をキュウとひきしぼるその香り。

 焼け付くような渇きが身体を蝕んでゆく。

 どうか早く。

 一刻も早く。

 身体というものを作るのは、この口から得たものだけ。

 ならば。

 私があの方と、同じものでできている内に。

 ああ、香りがする。

 芳しい、甘い香りが。

 花とも、蜜とも、果物とも違う。

 甘い甘いその香り。

 この常世の身体を作る御饌みけ

 そういえば、私は天から地上に降りた折、最初に何を口にしたのだったか。



 さり、さり、さり

 浮橋から降り立った白い島は、歩くと幽き音がした。

 さり、さり、さり

 足下を埋める白い砂に指を触れ、口に含む。

 からい。

 島は塩を多くふくんでいた。

 「からいな。」

 見れば汝兄なせも指を口に含んでいる。

 私と同じように、砂を嘗めてみたらしい。

 「だが清らかだ。清らかな命の味だ。あまねくをゆきわたらせるからさだ。」

 私は笑む。

 汝兄なせと同じことを感じていたので。

「これよりの涸るる時は、この塩をして清めよう。」

 それは、そういうことになった。

 島の中央と思しき場所に、瓊矛ぬぼこを突き立てる。

 ざくりと音をたてて、瓊矛ぬぼこの穂先は砂に沈み、儚い雫の重なりを強く固い地へと変える。

 瓊矛ぬぼこの長柄も形をかえ、天へと届く柱となった。

 柱を挟んで私達は立った。

 ひと嘗めの塩は私達を、地上へと結びつけた。

 私達はもうただ天に成りませる神ではなく、もっと命というものに近い、いうなればの存在へと近づいていた。

 私達が生む命は、ただ成りませるものではなく、もっとに満ちたものでなければならない。

 自らの身体を探る。

 今まで、気にしたこともなかったのだけれど、私には欠けたところがあった。

 足の間から腹の内にまで広がる洞。

 そこは虚ろでありながら、何かひどく命の予感に満ちている。

 「吾妹わぎもよ。」

 柱の向こうから汝兄なせが呼ばう。

 「汝の身体はどうなっていた。」

 「汝兄なせよ。」

 私もまた呼ばう

 「我が身には成り合わざるところがある。」

 汝兄なせが肯く。

 「我には成り余れるところがある。我の余れるところをもって、汝の成り合わぬところをさしふさいでみようと思うのだが。」

 良い考えだ。

 汝兄なせの言葉に私は肯く。

 ただ予感だけを湛えた洞。

 それだけではどうにもなるまいと私も思う。

 成り合わぬところと成り余るところがあるならば、合わせてみるというのは良い考えだ。

 私達はお互いに柱を巡る。

 目をみかわし、指を重ね、私は改めて汝兄なせを呼ばう。

 

 

 





 

 

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