ライフ・ハラスメント
たってぃ/増森海晶
実際こうなったら地獄なお話
あと、もう少しだけ生きたい。
老婆は途切れそうな意識を、切実な願いでもって、命をつなぎとめる。
ある国立病院の一室。
体中がたくさんのチューブに繋がれた老婆を、老婆の家族たちが見守っている。
「おばあちゃん、死なないで」
「そうだよ。死んじゃいやだよ!」
大勢の家族たちが老婆の別れを惜しんでいる。
かろうじて生きている老婆もそうだ。
あと、もう少しだけ生きたい。
と、老婆のシワシワの手を取るひ孫の、若く艶やかな肌の感触を感じながら強く願う。
「先生、お母さんは?」
「今夜が峠でしょう」
「そんな!」
まるで型にはまったやり取り、台本でも存在しているのかと思えるほど、この病室では家族の調和が保たれていた。
生きると死ぬ。
若さと老い。
静と動。
去る者と残される者。
相反する者が混在して、一つのドラマとして現実に落とし込まれている場面。
ただ、老婆の心の在り方は違った。
「おばあちゃん、おばあちゃん」
家族の悲痛な声に、自分は死ぬのだと安堵する。
老婆はいわゆる逃げ切り世代だった。
日本はまだ好景気で、仕事はお茶くみをするだけで手取り30万もらえた。会社の旅行はいつも海外で、結婚するときは寿退社。専業主婦でも、近くに実家があり、お手伝いさんの手を使って子供たちを育て上げて、その傍らで、パートと縁のない優雅な生活を送っていた。
しかも、まだ年金制度がまだ正常だったことで、老後の生活に困らず、夫の遺産で老人ホームに入り、この病院で手厚いケアを受けていた。
だから、この老婆には不景気にあえぐ孫世代の苦しみとは無縁であり、次の世代を産める余裕のない現状に、暗澹としつつも、どこか他人事である。
老婆は別れを惜しむ家族を見て、自分はまだ運が良いことを実感し、生きる悦びと、死へと向かう解放感で胸がいっぱいだった。
「あぁ、なんて、なんて幸せなんだろう。もう少し、生きたいねぇ」
――ドっ!
と、弱々しく言葉を紡ぐ老婆の言葉に、家族たちの
家族は老婆を勘違いする。老婆も勘違いするように言葉を選ぶ。
その心根には、老婆の死を悲しんでくれる愛情への喜びがあった。
家族の不幸とは無縁でいられる幸運の確認があった。
これからどんどん、沈没していくように滅んでいく日本に縛られて、老婆が臨終であることで、やっと仕事を休める孫たちの姿。
老婆の瞳に辛うじて映る家族たちは、不景気で擦り切れて疲れ果て、生きる喜びとは無縁な、どこか薄汚れた野良犬を連想させた。何人か顔色が悪いのは、満足にお金も時間も取れずに、病院に行けないからだと聞いている。しかも、三食食事をとることも至難らしい。
あぁ、よかった。と、老婆は家族の愚痴を聞いて、いつも悦に入っていた。
自分はとても幸福であり、不景気と心中するなんてまっぴらごめんなのだ。
だから、今死ねるのは嬉しい。
だけど、あともう少し、もう少し生きたい。
家族を使って、幸福な自分にぎりぎりまで浸りたいのだ。
「あぁ、神様。あと、もう少し、もう少し、生かしてください」
――こうして、老婆の意識は途切れた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
のだが。
「なにが! 何が起こっているの!」
老婆はベッドから上体を起こして取り乱す。
意識を取り戻した彼女が見たもの。
医者のやり切った顔と、老婆の生還に歓喜する家族たち。
「あと少し、処置が遅れていたら取り返しがつきませんでした。まさか、ぎりぎりで法案が成立するなんて運が良いですよ」
と。医者が茶目っ気たっぷりに片目をつぶる。
「おばあちゃん、キレイ!」
「肌つやつや。羨ましい」
「よかった。お母さんが生きたいって言っていたから、神様が願いを叶えてくれたんだよ!」
「…………」
老婆はなにも言えずに、体を震わせていた。
こんな滅茶苦茶なことが、起こるはずなんてないと思っていた。
まるで
「現在、日本の人口の三割以上が高齢者ですが、これで高齢化に歯止めがかかるどころか、日本は新しい時代に入るでしょう。これからおばあちゃんは、今の時代で生活できるように研修してもらい、政府があっせんする職場に就労してもらいます。大丈夫です、最低の手取りは10万ですが、三食食事付きの寮生活ですよ。まぁ、ルームシェアですが」
「すごいね! 三食だよ。ものすごく優遇されているじゃん!」
「よかったね! おばあちゃん」
「生きていて良かったね」
よくない。ぜんぜん、よくないっ!
最低でも30万欲しい。ルームシェなんていやだ。個室が良い!
それ以前に、こんな地獄で働くなんて冗談じゃない!
――わっ。と、老婆は泣き出した。
家族は歓喜の涙だと勘違いして医者に感謝の言葉を送り、医者も満足げな笑顔で老婆だった女性を見る。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
20××年。高齢化による国家存亡の危機により、若返りによる再生医療法案――リバイブ法が成立する。
これによって少数の若者が大勢の老人を支える、日本の人口ピラミッドは一旦リセットされて、かつての老人たちは若者となって日本を支える
【了】
ライフ・ハラスメント たってぃ/増森海晶 @taxtutexi
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