幸福の魔王『るし・ふぁー』 短編版

くるくる

本編



 吾輩は魔王である。


 名前は――


「るし・ふぁー!」


 元気いっぱいに宣ったのは、10歳にも満たない姿の少女だった。


 少女が鋭い爪先を動かすと、赤黒色の禍々しい文字が宙に刻まれる。


 『るし・ふぁー』


 丸っこい文字だった。


 その文字を仰ぎ見ながら、吾輩はためらいがちに口を開いた。


「邪神様……これはいったい?」


「かわいいでしょ!」


 褒めて! とばかりに、邪神様は祭壇で胸を張った。


 その眼前にひざまずいている吾輩は、何も応えることができなかった。


 呆然と、邪神様の笑顔と、『るし・ふぁー』を交互に見つめていた。


 その様子が不満だったのだろう。邪神様は唇を尖らせると、人差し指をピンッと伸ばした。


「えいっ!」


 指先で円弧を描き、吾輩の額を指し示す。


 すると、『るし・ふぁー』が、ふよふよと動き始めた。


 蝶々のように、迫ってくる。


 吾輩の額に衝突し――


「ぐッ!?」


 灼熱感。


 表面的な痛みではない。


 身体の髄を、赤熱した鉄に貫かれたかのような、耐えがたい感覚。


 必死で意識を保っていたが――


 ぷつん。


 頭蓋の奥で、間の抜けた音が鳴ったのを最後に、視界が暗転した。


 

 ――



 まぶたを開けると、絹糸と金糸で彩られた天蓋が見えた。


 視線を動かし、足元へ声をかける。


「……吾輩は、どれくらい眠っていたのだ?」


 突然声をかけられて驚いたのだろう。ガタッと音を鳴らして、金髪の夢魔が椅子から立ち上がった。


 大きな目を見開いていたが……腰の翼をはためかせて、寝台の近くまで飛んでくる。


「魔王るし・ふぁー様……お目覚めになったのですね!」


 瞳を潤ませながら、歓喜に満ちた声でそう言った。


「……リリス。今、なんと言った?」


「へ? そ、その、お目覚めになられて――」


「その前だ」


 声に混じる怒気を感じてだろう。リリスは困惑した表情を浮かべ……。


「魔王るし・ふぁー様、と」


 寝台脇の机で、花瓶が割れた。


 床に水が滴り、赤色の花が水溜まりの上に散乱する。


 身体を起こした吾輩は、リリスを睨み付けた。


「貴様!! 吾輩を愚弄するのか!?」


「め、滅相もございませんッ!!」


 ブルブル震えながら、リリスは平伏する。


「であれば、なぜ吾輩をその名で呼ぶ?」


「それは……」


 緊迫した空気の中、扉を叩く軽やかな音が響いた。


「……入れ」


 返事をすると、ゆっくりと扉が開いた。


 入ってきたのは、白髪の青年。


 竜人のゲオルの見た目は、人間とほとんど変わらない。


 耳の下に鱗があったりするが、幻惑魔術を使えば完全に隠蔽することができる。


 そのため諜報を得意としており……現在も人類の国で『ある』調査をしているはずだ。


 なぜ、ここにいるのか? 吾輩の混乱をよそに、ゲオルは寝台脇までやって来て、その場にひざまずいた。


「魔王るし・ふぁー様。お目覚めになられると信じておりました」


「……ゲオル」


 リリスに対しては、怒りで我を忘れてしまったが……ゲオルが淡々と『その名』を呼んだことで、吾輩の頭は冷えていた。


「なぜ……吾輩を、その名で呼ぶのだ? 何か理由があるのだろう?」


 「これを」と言って、ゲオルは紙束を手渡してきた。


 どうやら、王国の機密文書のようだ。異界より召喚された勇者について書かれている。


 聖剣を使役することに成功し、本格的に魔王るし・ふぁーの討伐に――


「なんだ、これは……!?」


 何度読んでも、『るし・ふぁー』と書かれている。


「その文書だけではございません」


 ゲオルの声に、吾輩は視線を上げた。


 沈痛な面持ちでゲオルは続ける。


「あらゆる文書に同じ御名前が刻まれております。その事実を確認した私は、一刻も早くご報告せねばならないと考え、帰還いたしました」


 なん……だと。


 この、忌々しい名が……。


 文書に刻まれている『るし・ふぁー』を睨み付け、それが何を意味するのか、吾輩は思考を巡らせた。


「……まさか、世界に『この名』が刻まれているのか!?」


 信じがたいことだが、そうとしか考えられない。


 この名は、邪神様が付けられたものだ。邪神様の御力であれば、尋常ならざる現象が起こっても不思議なことでは……。


 そこまで考えた時、吾輩はあることに思い至った。


「もしや、ゲオルらが吾輩を『その名』で呼ぶのは、そう呼ばざるを得ないから、なのか?」


 否定してほしかった。


 だが……ゲオルは重々しく頷いた。


「はい。どれだけ耐えようとしても、耐えられないのです。お倒れになっている間に、どうにかしてこの呪縛から逃れようとしたのですが……」


「お前の表情を見る限り、結果は芳しくなかったようだな」


「……はい」


 頭痛を感じ額を押さえる。


 その時ふと、床に平伏したままのリリスが目に付いた。


「――ああ、リリス。すまない。吾輩が悪かった」


 寝台から立ち上がって、リリスの傍に向かう。肩に両手を添えてやると、ようやく顔をあげた。


「いえっ、全て私が悪いのです!」


「いいのだ、リリス。事情を聞かずに怒りを向けてしまった吾輩が悪いのだ」


 リリスを立たせ、ゲオルに目を向ける。


「ゲオルよ、報告に感謝する。――して、邪神様がどこにいらっしゃるか、知っているか?」


 

 ――



 吾輩は1ヶ月もの間、眠っていたらしい。


 廊下を歩いていると、心配してくれていた部下たちが、目に涙を浮かべながら話しかけてくる。


 気持ちはもちろん嬉しいが……今は急いでいる。


 そういうわけで、ゲオルに幻惑魔術をかけてもらった。


 これで、吾輩たちの姿を認識することはできない。


 食堂に着き、邪神様の姿を探すと……。


「こちらはどうですか? ヤモリの塩焼きです! カリッとしてて美味しいですよ!」


 右隣に座る魔女が、黒い塊を邪神様に渡そうとしている。


 それを邪魔するように、左隣の夢魔が、白く輝く謎の物体を差し出した。


「そんな不気味なものより、こちらを召し上がってください! 人間の精から作った団子です。元気いっぱいになりますよ!」


「ちょっと! 邪神様にそんな汚らわしいものを食べさせようとしないでよ!」


 嫌悪感丸出しで言ったのは、周りに立っていた別の魔女だった。


 それに応えて、煽情的な衣装をまとった夢魔が、流し目を向ける。


「汚らわしいとは聞き捨てられませんねぇ……これは、私たちが手ずから集めてきた新鮮なものですよぉ? 陰気臭い部屋の隅っこから取ってきた、そっちの黒いものの方が、よっぽど危なそうですけどぉ?」


「うん? 聞き間違えかな? 私たちの部屋のことを……陰気臭い、と言ったように聞こえたんだけど?」


「あっ、ごめんなさい、間違えましたぁ……お部屋ではなく、魔女さんたち本人が陰気臭いって言いたかったんですよぉ」


 魔女と夢魔の軍団に挟まれて、邪神様はおどおどしていた。


「け、けんかはダメ! みんな落ち着くの!」


 ……吾輩は苦笑しながら、リリスにひそひそ声で話しかけた。


「何度も注意しているにも関わらず、やはり魔女たちとは仲良くできないのだな?」


「す、すみません」


「いや、それはこの際よいのだ。むしろ、相変わらずで安心感を覚えたほどだからな。……ところで、やけに邪神様と仲が良さそう――」


 視線を感じ、吾輩は口を噤んだ。


 ……赤い瞳が、こちらを見ている。


「るし・ふぁー!!」


 椅子から立ち上がって、邪神様がトテテと食堂を駆けてきた。


「よかった! ずっと心配してたの!」


 勢いそのまま抱き着いてくる。


 吾輩は身をのけ反らせながら、周囲へ目を向けた。


 「魔王るし・ふぁー様だ!?」「お目覚めになっていらしたのね!!」そんな声が、所々から聞こえてくる。


 吾輩は……唇を湿らせて、


「邪神様」


 頭3つ分下から、キョトンとした顔で見上げてくる。


「大変失礼なことだと承知しているのですが、どうしても、邪神様にお願いしたいことがあるのです」


「わたしに、お願い?」


「はい。……邪神様からいただいた名なのですが、別のものに変えていただけないかと」


「えっ」


 邪神……様は大きなお目々を見開いて、こてんと首を傾げた。


「……わたしの付けた名前、イヤだった?」


「いえ! 邪神様からいただいた名を嫌がることなどあり得ません! 素晴らしい名を付けていただき、大変感謝しております!」


「ほめてもらえて嬉しいの! るし・ふぁーが呼んでくれるまで、ずっとヒマだったから、がんばって考えてた名前なの!」


 キラキラした心の底からの笑顔で、邪神……はそう言った。


「……ご深慮された名だからこそ、これほど素晴らしいものになったのですね。そのような名をいただけるなんて、身に余る光栄でございますなぁ」


 歯の浮くような台詞を、邪神はにこにこしながら聞いている。


「ですが……少し威厳が足りないのでは、と。人類どもが恐れる名としては、少々方向が違うかもしれないと、愚考いたしまして」


「んー? ぐこう?」


「……もっと、聞いた者が恐怖に慄くような名がいいのではないかと、思いまして」


「こわい名前がいいってこと?」


「はい」


 吾輩が頷くと、邪神は不満気な顔をした。


「かわいいのに……」


「吾輩もそう思います。ですが、それは魔王の名に相応しくない!! ……と思うのです」


 吾輩は頬を引き攣らせながら、媚びるような声で言った。


「……別の名に、変えていただけないでしょうか?」



 ○○○



 薄暗い執務室で、吾輩は1人で仕事をしていた。


 窓の外は豪雨。時折雷も鳴っている。


 そんな中、扉を叩く音が聞こえた。


「入れ」


 羽ペンを置き、顔を上げると、ひとりでに扉が開くのが見えた。


 数拍の後、ゲオルの姿が現れる。


「誰にも見られずに来たか?」


「はい」


 吾輩は頷いてから、机の上で指を組んだ。


「……5日間、吾輩は耐えてきた。名を呼ばれるたびに馬鹿にされている気分になり、人類どもに笑われていることを想像するたびに腸が煮えくりかえり……そして、屈辱に歯を食いしばりながら、何度も、あの小娘に、頭を垂れてきた――」


 その時、執務室を青白い光が照らした。


 少し遅れて、雷鳴が轟く。


「……もう限界だ。耐えられぬ。口で言って聞かぬのなら、力でもって従わせるほかあるまい」



 ――



 召喚の間で待っていると、軋む音を立てながら扉が開いた。


「るし・ふぁー?」


 不安そうな声で言って、邪神は小走りでこちらへとやってきた。


 吾輩の服の袖を指先で摘まみ、キョロキョロと周りへ目を向けている。


「……1人で来られましたか?」


「うん。1人で来てって、ゲオルに言われたから。お城の奥の方にあるから、うす暗くて少し怖かったの」


 そう。召喚の間は魔王城の最奥にある。加えて、ゲオルが幻惑魔術をかけているから、何が起ころうとも、外部からは悟られない。


「邪神様をここにお呼びしたのは、お頼みしたいことがあったからです」


 真摯な声で続ける。


「吾輩の名を、考え直していただけないでしょうか?」


 瞬間、邪神は分かりやすく不機嫌になった。


「むー、何度も言ってるの! かわいくていい名前だと思うの!」


「何度も申し上げていますが、魔王の名前は可愛らしいものではなく、畏怖の対象となるべきものだと思うのです」


「かわいいほうがいいの!」


 何度も繰り返してきた問答。いつもなら、ここで引き下がるのだが……今回ばかりは、そうもいかない。


「邪神様」


 低い声で呼ぶと、邪神はピクリと肩を震わせた。兎のように赤い瞳で、吾輩の顔を見上げてくる。


「痛い目に合いたくなければ、吾輩のお願いを聞いていただけないでしょうか?」


「……るし・ふぁー?」


 袖を掴んでくる小さな手を、吾輩は力任せに振り払った。


 距離を取り、魔力のこもった手のひらを邪神へ向ける。


万雷の槍ライトニング・マクス


 数百の雷で敵を貫く魔術だが、吾輩とて邪神を痛めつけたいわけではない。


 軽く痺れる程度に威力を抑えて発動した……はずだった。


「い、いたいのっ!?」


 何か棒状のものが、大量に邪神に向けて射出されていた。


 身を屈める邪神に当たったそれらは、黒曜石の床をこちらまで転がってきた。


 指先で拾い上げる。


 ……なんだ、これは?


 木の枝?


 軽く力を込めると、容易に折れた。


 内部には黒いものが詰まっていて……ほのかに甘い香りがする。


「わっ! これ、おいしい!」


 弾んだ声が、召喚の間に響いた。


 目を向けると、邪神はしゃがんだ姿勢のまま、木の枝を食べていた。


 ……吾輩も、手に持っていたそれに齧り付いてみる。


 甘い。


 これは……焼き菓子? だが――


 混乱しつつ、自分の手のひらを見つめる。


 吾輩が、魔術でこれを生成したのか?


 まさか。そんな馬鹿な。


 吾輩は慌てて頭を振った。


 何が起こったのか分からないが、この程度のことで動揺してはいけない。


 再度、邪神へ手のひらを向ける。


 原因は分からないが、ただの攻撃魔術だと、正常に発動しないかもしれない。別系統の魔術がいいだろう。


三頭犬召喚サモン・ケルベロス


 異界の怪物を現界させる魔術だ。


 三頭犬は3つの頭を持つ犬型の怪物。厳つい見た目をしているので、怖がって吾輩の言うことを聞くだろう……という魂胆だったのだが。


 なぜか、そこには片手で楽に抱え上げられるほどの小犬がいた。


「キャンッ!!」


 尻尾をフリフリさせ、嬉しそうに邪神の元へと走っていく。


「きゃっ!? くすぐったい!!」


 小犬に頬を舐められて、邪神は嬉しそうに笑っている。


 ……あの小犬はなんだ。


 子犬と契約を交わした記憶はないが……どこから召喚されたのだ?


 意味が分からない。


 膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、邪神に目を向ける。


 やはり、単に子犬と戯れているだけで、何かの術を使っているようには見えないが。


 ……まさか。


 ふと、嫌な考えが頭を過ぎった。


 ……これも『るし・ふぁー』のせいか?


 雷が焼き菓子に、三頭犬が小犬に――全ての魔術が、そうだとしたら?


 ……吾輩は再び、震える手のひらを持ち上げた。


 使用するのは、吾輩が持つ最上の魔術。


漆黒の業焔ヘル・フレイム


 もちろん、邪神に向けることはしない。


 数多転がっている焼き菓子を対象に発動する。


 すると――


 焼き菓子の傍に、赤色の花が咲いた。


 青、黄、白、桃。


 色とりどりの花が咲き乱れ、みるみるうちに漆黒の床を塗り替えていく。


 数拍もしないうちに、召喚の間は花々に満たされてしまった。


 どこからやって来たのか、黄色の蝶々が花の間をひらひらと飛んでいる。


 吾輩は、花畑の上に崩折れた。


 想像は確信へと変わっていた。


「……るし・ふぁー、大丈夫?」


 いつの間にか、すぐそばに邪神が座っていた。


 左手に子犬を抱え、右手には棒付き飴を握っている。


 どこからそんなものを取り出したのかと思い、視線を巡らせてみると……何のことはない。そこかしこに生えている。


 吾輩の咲かせた花はただの花ではなく、飴細工でできていた。


「甘いものを食べたら、元気が出るの!」


 笑顔で飴を差し出してくる。


 無言で受け取り、口の中に突っ込んだ。


「……甘い」


 ペロペロと飴を舐めながら、ヒラヒラと飛ぶ蝶々を眺める。


 室内のはずなのだが、どこかから爽やかな風が吹いてくる。


 小鳥のさえずりや川のせせらぎまで、聞こえてくる気がする。


 完全に意味不明だが、もはやどうでもいい気分だった。



 ○○○



「るし・ふぁー」


 不安げな面持ちで、邪神様は吾輩の名を呼んだ。


 吾輩と邪神様がいるのは、謁見の間だ。


 吾輩たちの他には誰もいない。


 薄暗い中、腰を落として邪神様の瞳をのぞき込む。


「大丈夫です。必ず生きて戻ります」


「……約束だよ?」


「はい。約束です」


 思えば、邪神様と出会った日から半年が過ぎようとしている。


 最初の頃は色々あったが……今では、邪神様は大切な存在のひとりだ。


 悲しませないためにも、勝たなくてはいけない。


 吾輩は笑顔を浮かべながら、邪神様の肩を軽く押した。


「そろそろ勇者が来ます。邪神様は、リリスたちの元で待っていてください」


「……うん。待ってる」


 名残惜しそうに吾輩を見つめてから、邪神様は背中を向けた。


 ててて、と小走りで角の向こうへ消えるのを見送り、ゆっくりと立ち上がる。


「……さて」


 マントを翻し、堂々たる歩みで玉座へ向かう。


 金銀宝石で彩られた、お世辞にも座り心地がいいとは言えない玉座。


 そこに座ると、ガランとした謁見の間が眼前に広がる。


 ここが、勇者と魔王の決戦の地だ。


 この場所で、吾輩のみの力で、勇者に打ち勝たねばならない。


「ふぅ……」


 細く息を吐いて、意識を集中させる。


 大丈夫だ。やれることは全てやった。


 あとは、力を全て出し切るだけだ。




 それから、四半刻ほど経ったころ。


「……来たか」


 奥に見える巨大な扉が、ひとりでに動き始めた。


 扉と扉の隙間から、3人の人間が姿を表す。


 黒髪黒目の平凡な容姿をした青年。


 白い神官服で身を包んだ金髪碧眼の女性。


 とんがり帽子の下から紫色の瞳を覗かせている女性。


 彼らが警戒しつつ謁見の間に入ってくるのを待って、吾輩は口を開いた。


「よく来たな勇者よ。吾輩は、魔王るし・ふぁー。貴様らに絶望をもたらす者の名だ……よく覚えておくといい」


 声を張り上げたわけではないが、巨大な謁見の間に、吾輩の声は大きく木霊した。


 その迫力に勇者たちは少し怯んだようだった。


 しかし――


「るし・ふぁーのやってきたことを許すわけにはいかない! 俺が、この手で倒す!」


 勇者が剣を引き抜いた。


「ふん、やれるものなら、やってみるがいい」


 低く笑いながら、吾輩は手のひらを持ち上げた。


「初めから、全力で行かせてもらうぞ」


 渾身の魔力を込めると、手のひらからどす黒い霧が吹き出した。


無限跳獣召喚サモン・ラビット・マクス


 雲海のように広がる霧から、膨大な数の兎が出現する。


「ダイキ。私の後ろに」


 魔術師は冷静に言うと、身体の正面に杖を構えた。


多重氷壁アイスウォール・マルチ


 魔術師の正面に氷壁が出現する。


 ……ふむ。情報通り、中々の練度だな。


 だが――


 ニヤリと笑った吾輩は、指先を軽く折り曲げた。


 それに応じて、兎たちは直角に進路を変える。


 その先にいるのは、純白の神官服に身を包んだ少女。


「――っ!!」


 吾輩の狙いに気付いた魔術師が、壁を広げようとしているが――もう遅い。


「あ……」


 身動き1つ取れないまま、聖女は兎の波に飲み込まれた。


 魔術師は深い後悔のにじむ顔で兎の山を見やり……唇を噛んでいる。


 その後ろで、勇者は困惑の表情を浮かべていた。


「スノー、どうしたんだ? 聖女に攻撃魔術は無効なんだろ?」


「……違う。そうじゃない」


 勇者は余計に困惑した面持ちを浮かべ……黒い瞳を聖女の方へと向けた。


 兎の山が徐々に小さくなり、聖女の姿が現れる。


「えっ、なんで……?」


 聖女は床に座り込んでいた。


 もこもこの兎たちに取り囲まれ、これ以上ないほどに幸せそうな表情を浮かべている。


「言ったであろう、初めから全力で行くと。初めから――つまり、貴様らが魔王城にたどり着く遥か前から、吾輩は準備を進めていたのだ」


 笑いを堪え、玉座から3人のことを睥睨する。


「聖女は動物好きだそうだな? 特に兎には目がないとか。自宅では5匹の兎を飼っていることも知っているぞ。なんなら、その5匹の名前もな」


 魔術師が気味悪そうな表情を浮かべ、1歩後退るのが見えたが、気にすることはない。そもそも、この情報は吾輩ではなくゲオルが集めたものだしな。


「魔王城への旅は長く辛かったであろう。獰猛な魔物ならいざ知らず、可愛らしい獣などいるはずもない。――さて。自らの身にまとわりつく兎たちを、聖女が拒めるかどうか……これは、見物だな」


「卑怯だぞ!!」


 勇者が叫ぶ。


 その声を聞いて、吾輩は堪らえ切れずに笑いを漏らしてしまった。


「……卑怯などと、幼稚なことを言うではない。勝つためならば、吾輩は何でも――」


加速氷剣アイスナイフ・アクス


 短刀の形状をした氷が、頭目掛けて飛んできた。


 首を捻る。


 カカカッ、と玉座に刺さる音が間近に聞こえた。


「ダイキ、るし・ふぁーの言葉に乗せられちゃ駄目」


「……あ、ああ。そうだな」


 熱を冷まされた勇者は、吾輩へと剣の切っ先を向けた。


 ……聖剣エクスカリバー。


 あれに首を搔き切られる悪夢を、何度見たことか……。


 切っ先の輝きを目に捉えながら、吾輩は緊張を腹の奥へと飲み込んだ。


 代わりに、堂々たる笑みを浮かべ、玉座からゆっくりと立ち上がる。


「……スノー・ヴィオレット。もちろん、貴様についても調べているぞ」


 勇者と違い、吾輩との会話に付き合うつもりはないらしい。


 氷のような表情を浮かべながら、怒涛の勢いで攻撃魔術を放ってくる。


 それらを全て受け止めつつ、魔術師の脳髄へ言葉を注ぎ入れる。


「聖女と違い、貴様に大きな弱点は見当たらなかった。幼少の頃から、魔術の深淵を追い求めてきたその生き様、吾輩は嫌いではないぞ?」


「……うるさい」


「ほう? 吾輩が……聖女と同じことを言うのが、それほど不快か?」


 魔術師の目が、大きく見開かれるのが見えた。


 それは、吾輩が彼女の心の内を言い当てたから――だけではない。


「スノー、また怖い顔をしていますよ?」


 魔術師のすぐ近くまで迫っていた聖女は、柔らかな表情でそう言った。


「……え? アリ、シア?」


 両腕で兎を抱きしめ、場違いなことを言う聖女の姿に、魔術師は完全に混乱しているようだった。


 そんな様子に構わず、聖女はノンビリとした口調で、


「ねえ、スノー。この子、ショコラにそっくりだと思わないですか? クリっとした目元の辺りなんて特に」


「……そんなことより、ダイキに支援魔術をッ」


 勇者も慌てた調子で言葉を重ねた。


「アリシアっ! 頼む! やっぱり、支援無しだと戦いに付いていけない! ありったけをかけてくれ!」


 2人に怒鳴られた聖女は……ぷくーっと頬を膨らませた。


「そんなこと、だなんて酷いです! 2人とも、兎ちゃんたちにもっと敬意を払ってください!」


 そう言って、聖女は兎たちがたくさんいる原っぱへ戻ってしまった。


「……は?」


 室内に原っぱが出現しているのを見て、勇者はぽかんと口を開けている。


 だが、さすがは勇者と言うべきか、状況への適応が早い。疑問を脇に起き、問題の打開に動きはじめる。


「アリシア! ごめん! たしかにその子、かわいいと思うよ!」


 声をかけられた聖女は、ちらりと上目遣いで勇者を見た。


「ほんとうに、そう思いますか?」


「本気も本気、大真面目だよ! 俺が嘘をついたことなんて無いだろ?」


「そうでもないと思いますけれど……分かりました。そこまで言うなら、試してあげます」


 目付きを鋭くした聖女は、たくさんいる兎たちから、2匹の茶色い兎を呼び寄せた。


 両手に抱え、青い瞳で勇者を貫く。


「私が先ほど2人に紹介したのは、どの子だと思いますか?」


「……」


 勇者の顔には、分からない、と大きく書いてあった。


 額に汗を浮かべ、目を左右に泳がせ……左側の兎を指差した。


「左、左だと思う!」


「その心は?」


「え? ああ、えっと……右は、ちょっと大きすぎるかなぁと思って」


 聖女は顔をくもらせ、ぽつりと言った。


「さようなら」


「――池の傍にいる子」


 魔術師の言葉に、背中を向けようとしていた聖女が止まった。


 魔術師は今も吾輩へと魔術を打ち込み続けている。


 顔をこちらに向けたまま、聖女へと話しかける。


「腕に持ってる子たちは、毛並みから色合いまで全く違う。ショコラに似てるのは、池の傍にいる子」


「……スノー!」


 瞳に光を戻した聖女は、感激した様子で走ってきた。


 魔術師に抱きつく。


「――ッ! 邪魔!」


「スノーなら分かってくれると思っていました!」


「……あれくらい、当たり前」


「スノーも一緒に、兎ちゃんたちと遊びましょう? 他にもたくさん、紹介したい子がいるんです!」


 魔術の勢いが目に見えて弱くなっている。


 ……もうひと押しだな。


 魔術を放ち、原っぱを拡張する。


 謁見の間が、牧歌的な風景に覆われた。


 心地よい日差しと、草の香りを含んだ穏やかな風。そして……人生で初めてできた、友と呼べる存在。


 全ての力によって、魔術師の鎧は溶け落ちた。


 ぎごち無い笑みを浮かべながら……聖女に手を引かれて、兎たちの園へと誘われていく。


 あとに1人残されたのは――


「勝敗は決したようだな。勇者よ、潔く吾輩の前に屈したらどうだ?」


「……まだ、俺は負けてない」


 勇者の目には、たしかに光が灯っている。


「ふむ。そう思うのであれば、かかってくるがよい」


「死ねぇぇぇッ!!」


 裂帛の気合がこもった一撃。


 しかし……それは、もはや恐れるものではなかった。


 指先で剣を摘み取り、間近から勇者に語りかける。


「勇者よ。貴様についても調べているぞ」


 勇者の顔が絶望に染まるのを楽しんで、吾輩は空いている手に魔力を込めた。


粘体創造クリエイト・スライム


 青色の粘体が、勇者の首より下を包み込む。


「湯加減はどうだ?」


「……くッ! こんなものに俺は負けないぞ!」


 必死に自らを奮い立たせているようだが、先ほどまでの気合は感じられない。


 吾輩は唇の端で笑い、粘体に指先を突き立てた。


微細泡沫マイクロ・バブル



 ――



 こうして、勇者は魔王に破れてしまった。


 もはや立ち塞がる存在はなく、世界は魔王の手に落ちた。


 もふもふの小動物、色とりどりの甘いお菓子、暖かいお日様に覆われた世界で……いつしか人々は、魔王をこう呼ぶようになった。


 幸福の魔王『るし・ふぁー』と。





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