潮騒と月

@wakako_kyoto

潮騒と月

春の日差しが暖かい朝、相馬優子は横断歩道を渡った。

 優子は生まれてこの方、言葉を発したことがない。生まれてから今日まで、いわゆる「全緘黙(ぜんかんもく)」であった。

 優子は朝いつもの時間に家を出て、横断歩道を渡り、バスに乗り、勤務地である市役所へ向かう。優子は市役所で、障碍者雇用として働いている。

 職場へ着き、職員とすれ違うたびに微笑みながら何度も会釈し、そして席に着く。

 優子の仕事内容は、主にデータ入力であった。ひたすらにエクセルに文字を打ち込んでいく作業である。

 優子は高校を出ていない。中学校を卒業後、分籍をすることで親と縁を切り、一人暮らしを始め、障碍者手帳を取得し、そして今日まで障碍者雇用で市役所に勤めている。

優子には欲がなかった。夢もなかった。なんなら生きることへの執着すらなかった。ただ毎日粛々とPCに向かい、仕事して、定時で退社して、バスに乗り、スーパーでその日の夕飯の材料を少し買い、そこからは歩いて帰る。二十一年間、まるで修道士のように、質素な暮らしを続けていた。

朝起きて、バスに乗って、仕事して、退社して、ごはんを食べて、お風呂に入って、寝て、起きて・・・を繰り返し、老い、そして死んでいくものだと優子は思っていた。そしてそのような平和で穏便な生活に、豊かだと感じていた。


土日は仕事が休みだった。土日、優子は決まって部屋の掃除をしたり、洗濯機で洗濯物を回したり、トイレットペーパーなどの日用品を買ってきたりしていた。

優子は化粧っ気がなかった。日焼け止めすら買ったことがない。おしゃれをする、という概念がないのか、もしくは、おしゃれの楽しみを知らなかった。

たまに本を読むこともあった。優子は決まって森田薫という女性作家の小説を読んでいた。

まるでパステルカラーのような恋愛を繊細に描写する森田薫の小説が、大好きだった。

しかしながら優子は恋愛をしたことがなかった。森田薫の小説に出てくる男性の登場人物にも、心は動かされなかった。

優子は森田薫の小説に魅了されながらも、どこか遠い人たちの、言葉を話せる人たちの物語だと思っていた。あるいは、親に愛されるとか、普通を生きるとか、そういった人々。

憧れというよりもどちらかというと、SFに近かった。自分の生きる世界ではありえない話。



 月曜日。優子はいつもと変わらない朝を過ごし、昼を過ごし、夜を過ごした。そして寝る前に、少しだけ、森田薫の小説をぱらりとめくった。

「チェロの音色、それはとても美しいものだった」

 そのページにはそう書いてあった。

 チェロ。

 楽器の名前、だったような気がする。優子はそう思った。しかしどんな音色をするのかもわからず、うとうとと眠りについた。

 火曜日。優子はいつもと変わらない朝を過ごし、昼を過ごした。そして、いつもと違う夜を過ごした。

 優子は、ネットカフェに入ったのである。自宅アパートにPCもなく、スマートフォンも持たない(この時代だが、固定電話だけは引いてある)生活をしているので、インターネットの世界に行くときは、ネットカフェに行くしか他はないのである。

 手続きを済ませた優子は個室に入り、画面の電源を付けた。そして、動画配信サイトを開き、「チェロ 演奏」と検索をかけ、ヘッドホンを着けた。

 じんわりと芯に響く音色だった。タイトルを見てみると、「エリック・サティ ジムノペディ 第一番」と書かれていた。

 森田薫と同じ音色を聴いていることが嬉しかった。そして、チェロの音色に出会えたことも、優子にとって幸せだと感じた。


水曜日。優子は、なんとスマートフォンを契約したのである。そしてイヤホンも購入し、帰宅した。

 自宅アパートで、チェロが奏でるジムノペディを何度も何度も、聴き浸った。


優子は、同世代の「普通の人々」がどんな生活をしているのか、知らないわけではなかった。子どものときは親に愛されて、高校にも通わせてもらって、習い事までさせてもらって。大人になってからも帰る場所があって、恋愛して結婚して子を産んで育てて。

子は自立するまで、強みや長所を形作っていく「生きていくための輪郭」というものを、親から授けられて初めてこの社会という市場、土俵で戦っていけるんだろうとは思っていた。しかし自分はそのような輪郭をもたない透明な存在として今日まで生きてきた。

だから優子は中学校を卒業して二十一年間、そういう恋愛市場や恋愛の土俵に顔は出さなかった。それらは、「向こう側の人々」のするSFなんだと、自分に言い聞かせていた。


木曜日。ジムノペディをチェロで演奏する人物の名前は、山口湊音(みなと)というらしかった。

自分よりもおおよそ一回りも年下であることに驚いた。

ウィキペディアを見てみると、彼は、東京の藝術大学を卒業後、ドイツの大学院へ留学し、現在は世界的に活躍しているらしい。そして定期的に日本へ帰国し、コンサートを行っていると。

なんというおぼっちゃまなのだろうと思った。でも音楽家はみんなこういう世界で戦っているのだろうか、とも思った。


金曜日。優子は、山口湊音のほかの動画も検索した。「ドビュッシー 交響詩 海」という動画を聴いてみることにした。

どうやら湊音はチェリストとしてオーケストラに参加しているのだろう、彼のアカウントから公開されているが、演奏者一人ひとりの顔は小さくてわからない。

ぼんやりした音色で始まったかと思うと、またなんだかぼんやりした音色が重なり、よくわからないけれど、いろんな楽器の音がする。どの音色がどの楽器で演奏されているのかわからないけど、次々とメロディーが他の楽器に渡されていき、そしてだんだんと演奏が大きくなっていく。

どの音色が山口湊音の音色なんだろう。

そういえば「湊音」の「湊」って、海に関連する漢字だな、と優子は思った。


優子は、限界集落の山奥の、ぽつんと建っている小さな家屋に生まれた。そして、その家屋の近くにある小さな小学校に通っていた。

ある日、国語の授業で、「海」という漢字を習った。しかし、優子は海を見たことがなかった。ゆえに、その漢字が何を意味しているのか、わからなかった。


そんなことを思い出しながら、ドビュッシーの海を聴いていた。

優子は、いつか海が見たいと思った。


 その日から、優子は少しずつ音楽を聴くようになり、また少しずつ、音楽について知るようになった。

 ドビュッシー。フランス人作曲家。印象派。

 あの「交響詩 海」のぼんやりとした冒頭の情景は、印象派だからなのか、それとも違うのか。どうなんだろう。

 ブラームス。ドイツ人作曲家。ロマン派。

 この髭もじゃのごっついオジサマが、ロマンチックだからロマン派なのだろうか、それともそうじゃないのか。

 ヘンデル。国際派の作曲家。バロック。

 バロックって、絵画や建築の世界でも使われる言葉かもしれない。バロックの音楽と絵画と建築には、何か共通点があるのだろうか、ないのだろうか。

これまで音楽とは無縁だった優子にとって、音楽の世界はわからないことだらけだった。それでも優子は、くらいついた。

そして就寝時間になると、優子は決まって山口湊音のジムノペディで眠りにつくのであった。


 二年の月日が経った。優子は、毎週末図書館に通い、音楽、絵画、建築、デザインなど、あらゆる分野を学んだ。

 優子は、日記をつけるようになった。それは、音楽を聴いた感想を自分の言葉で綴っていくノートだった。

 その日の夜、優子はブラームスを聴いていた。


 ブラームス チェロ・ソナタ 第一番 第一楽章

重厚で荘厳な音色から始まる。艶やかでいて、そして力強さも感じられる。

低音から高音に駆け上がっていくときのほとばしる激しさには、演奏者の息遣いが感じられる。

ずうっとチェロの音色を聴いていると、途中、演奏者の息を吸う音も聞こえることも相まって、チェロの音色なのか、いや、はたまた演奏者の歌声なんじゃないかと思えてくるような演奏である。

また同じリズムを繰り返すシーンがあるので、トランス状態にも似た陶酔の美しさすらある。


優子はそう、ノートに綴り、そして山口湊音のジムノペディを聴き、眠りにつくのであった。


 翌日の夜は、ショパンを聴いた。

 ショパン スケルツォ 第二番 変ロ短調

激情の和音から始まり、艶やかで力強いメロディに移っていく。そしてその後、情景が一変する。

憂いの帯びた静寂のメロディと、ドラマチックでいて華やかなメロディとが交互に彩られていく。

まるでゴッホの渦の筆致のような、生命の奥底から吹きあがってくるマグマのような凄まじさが押し寄せてくるような演奏。

そしてまた、ジムノペディで就寝した。


その翌日はベートーヴェンを聴いた。


ベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ 第二番 第一楽章

軽やかで可愛らしい旋律から始まる。細やかな音色の動きが楽しい作品。

まるで菜の花の上で舞う蝶のような、蝶たちがささやきあっているような演奏。

ヴァイオリニストの奏でるヴァイオリンの弦と弓が、リアルに擦れる絶妙な音まで聴こえてきて、嬉しくなる。


そうノートに綴り、そしてまたジムノペディで一日を終わらせた。


山口湊音が来月帰国することを、優子は彼の動画配信サイトの投稿で知った。そして、ソロコンサートを開催することも。

 これは、行くべき、と優子は直感した。

 優子はすぐさま、スマートフォンからチケットを購入した。そして思った。オシャレをしてコンサートに行きたいと。


 土曜日、優子は駅前の通りを歩いた。しかし、高級そうなブティックばかりで優子は居心地が悪くなり、早足で通りを向けた。そして、道端で立ち尽くしてしまった。

 ふと、視界の端に美容院の看板が見えた。優子は、美容院に入ることにした。

 美容院のドアを開けると、いらっしゃいませ~という元気な声が聞こえてきた。

「ご予約ですか?」美容師の一人が優子のそばへ行き、そう尋ねた。優子は首を横に振った。そして、リュックサックからスマートフォンを取り出し、筆談アプリを軌道させた。

 私は言葉が話せません。聞き取ることはできます。予約はしていません。髪を切りそろえてほしいです。優子は指で次々になぐり書きしていった。

 優子に話しかけてきた男性美容師は笑顔で、大丈夫ですよ、今少し混んでいるので、待合でお待ちください、と言い、優子を待合ソファまで案内してくれた。

 優子はソファに座った。と同時に、向かいに雑誌ラックがあるのを見つけた。

 読んでいいのかな・・・そう不安になりながらも、優子は一冊のファッション雑誌をそっと取り出し、ページをめくってみた。

 そこに載っていたモデルはみな、可愛らしいファッションをして、キラキラ輝いていた。

 優子は、黙々とページをめくっていった。

 ワンピース、カーディガン、パンプス。

優子はその言葉たちを脳内で反芻した。

ワンピース、カーディガン、パンプス。


「相馬さん、お待たせしました。」先ほどの男性美容師が声をかけてくれた。

 優子は、職場で他の職員に微笑むような要領でその美容師に微笑み、セットチェアへ移動した。

「おまかせで大丈夫ですか?」そう尋ねられ、優子は鏡越しに目を合わせ、頷いた。

「可愛くしときますね」そういってその美容師は優子の髪をとき始めた。

二十分ほどして、カットが終わった。

「せっかくですし、髪、染めてみませんか?」その美容師は笑顔でさらりとそう言った。

優子は髪を染めたことがなかった。

今日まで、ゴワゴワで太くてかたくて量の多い漆黒の髪と共に生きてきた。

染めて、もっとキレイになれるなら、そう思った優子は、再び鏡越しに美容師と目を合わせ、頷いた。

「わっかりました~」美容師はそう言うと、その場を離れた。染料混ぜてきますね、と付け足して。

優子はドキドキした。何色になるのだろう、不安と、そして期待に包まれた。

先ほどの美容師が戻ってきた。

「染めていきますね~」と言いながら、ペタペタと染料を優子の髪に塗り始めた。

そして塗り終わったあと、「時間置きますね。お茶にします?コーヒーにします?」と美容師は、いつもの流れ作業の一環としてであろう、優子に問うてきた。しかし優子は話すことができないので、首を横に振った。

男性美容師は少しニコリと笑い、「とっておきのハーブティーを淹れてきますね~」と言って再びその場を去った。

そして美容師は、温かいハーブティーを優子の前に置いた。ふわっと草原の香りがした。

「ちょっと色味を見ますね~」そう言って美容師は優子の髪を触った。

「ちょっと赤みが強く出やすいタイプの髪質ですね~」

それから優子はシャンプーし、今度はブルー系の染料を再び髪に塗られ、時間を置き、二度目のシャンプーをした。

「うん、いい色になりましたね」美容師はそう言って、ドライヤーで優子の髪を乾かし始めた。

そして優子はお会計を済ませ、その美容院を出た。全身が軽くなったような気持ちになった。

担当してくれた美容師に、とても感謝した。


ワンピース、カーディガン、パンプス。

そう、ワンピース、カーディガン、パンプスを買いに行くんだ。

優子はのしのし歩き、ショッピングモールへ向かった。

ショッピングモールには、優子の手の届きそうな値ごろ感のお洋服が販売されている店舗がいくつかあった。

初夏にふさわしいようなシャーベットグリーンのワンピースが目に留まった。

優子はそのワンピースを着て山口湊音のコンサートを聴きに行く情景を想像した。

良いかも。

優子は試着もせずにそのワンピースをカゴに入れ、ついでにトルソーに着せられていたオフホワイトのカーディガンと同じものもカゴに入れた。

あとはパンプスだけだった。

しかし優子が気になったのはパンプスではなかった。

ブラウンのオックスフォードシューズだった。

素敵、優子は素直にそう思った。

そうして優子は一つのお店でワンピース、カーディガン、そしてオックスフォードシューズを購入した。


その日の夜、優子は海へ向かった。

優子は、浜辺に寝そべった。

夕日は沈んでしまった。優子の目の前に広がるのは、大きな夜空、そして、鋭利に輝く上弦の月の姿だった。

山口湊音のチェロの弦もあんな形をしているのかな・・・

こんなにも美しい情景が、この世にあったなんて。

優子は、潮騒の音色に耳を澄ませた。そして目を閉じた。心の中で、山口湊音の奏でるジムノペディが流れていた。

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