本編
組み紐
水の音がする。海の底にいるような、波に誘われるような。ざあざあ、ざあざあ、という音もすれば、こぽこぽぷくぷくと泡沫の音も聞こえる。最近は特に酷い。
血の繋がらない母にそれを伝えると、彼女は顔を顰めながら注意してきた。
「気味の悪いこと言わないで。内陸なのに海の音が聞こえるわけないじゃない」
千代子は栃木に住んでいる。海など行ったこともない。そのうえ、母には千代子に聞こえる音が聞こえないらしい。あまり変なことを言っていると医者に連れて行かれそうになるので、千代子はそれ以上何も言わなかった。
食卓に母の作った夕食が置かれる。鉄鋼関係の会社に勤める生真面目な父は新聞を広げて、千代子たちとは一切会話を交わさない。食卓の横の台の上に置かれた新しい白黒テレビでは、昨年できたばかりの東京タワーの様子が放送されていた。
母はエプロンを解いて、小さな箱を千代子に渡してきた。
「お父さんが職場で頂いたんですって。太平洋側の海に近いところにある、
箱を開けると、色彩豊かな可愛らしい組み紐が並べられていた。美しく染め上げられた絹糸を組み糸として組み上げられたものだ。
千代子は父にお礼を言って組み紐を箱から取り出し、肩甲骨の辺りまである長い黒髪を結んだ。髪を伸ばしたのは母に言われたからだ。
スカート以外履けなくなったのも、常に紅を塗るようになったのも、何か買う時可愛い色の物を選ぶようになったのも、母に言われたから。
母は昔、この栃木に来る前、心の病にかかったことがある。
千代子のせいで海から化け物が迎えに来るとしきりに言い出し、千代子が言うことを聞かなければ半狂乱になった。
今は母も落ち着いたが、千代子はその時の名残で母に逆らえずにいる。
「これ、可愛いですね」
箱の中を眺めて言うと、千代子が可愛らしいものに興味を示したのが嬉しいのか、母は笑って手を叩いた。
「ええ、可愛いわ。今度それ付けて
茂とは父の仕事のツテで出会った今年四十五歳になる男だ。戦後に織物販売業で財を成した成金で、かなり年の離れた千代子のことを大層気に入っており、将来は結婚したいと申し出ている。千代子の母は、富のある茂に気に入られるためにまだ幼い千代子に女性らしさを日々強要していた。
千代子は、茂の千代子に向ける嫌らしい目付きや、同年代の男の子たちとは違うはりのない肌、紫っぽい歯肉の色、きつい香水で誤魔化した体臭が苦手だ。茂の顔を思い出しただけでぞわりと寒気がして、母に曖昧に笑い返してその話題から逃げるように汁物を啜った。
「そうだ、茂さんがお盆に別荘に誘ってくださっているのだけれど、別荘があるのは霧海村の隣町らしいわよ。ついでに霧海村まで茂さんと遊びに行くのはどうかしら」
「もうほぼ廃村だって聞いたけどなあ」
黙って魚の骨を取っていた父が、ここでようやく口を開く。
「でも、千代子は昔から海に行きたがっていたし」
「盆に海は行っちゃだめだろう」
「少し遠くから見るだけよ」
「俺は仕事だから行けんぞ」
「もう、分かってるわよ。私と千代子で行ってきますから」
父と母の間で勝手に話が進み、結局八月は霧海村とやらへ向かうことになった。
白黒のテレビから、ザザ……と嫌なノイズが走る。千代子は何だか落ち着かなくなってテレビの電源を消してしまった。
母はまだ嬉しそうだ。
「とびきり可愛くしていくのよ、千代子。新しいお洋服買ってあげる。千代子はお着物が似合うから、着物でもいいかもね」
逆らわなければ母は優しい。思い通りに事が進んでいる時は優しい。千代子は「はい。お母様」と笑顔を作った。
――水の音がする。さざめく波の音が遠くから聞こえる。水しぶきが跳ねる音が響き渡る。
嗚呼――帰りたい。水の音がうるさく聞こえる度に、千代子は行ったこともないはずの海への郷愁を覚えた。
:
そびえ立つ木々に囲まれた森の中。小川を流れる水音がかき消されるほど、セミの鳴き声がうるさかった。
茂の別荘がある町は栃木よりも暑い。ジリジリと太陽が照り付け、地面からの熱気を感じる。
広大な敷地では樹木がざわめき、蒸し暑い風が吹く。白い柱と赤い屋根を持つ別荘は、陽光を受けて輝き、熱気を吸い込んでいるようだった。ベランダには縞模様の日よけがあるがとても外に出る気にはなれない。
ぼんやり窓の外を眺めていると、ふとあるものに目を引かれた。
大きな山が見える。その上部に、強引に取り壊されたようないくつかの鳥居があった。
「あちらが霧海村ですか?」
無口な千代子から質問されたのが嬉しいのか、茂が身を乗り出して答える。
「千代子は目がいいね。そうだよ、あっちが霧海村だ」
「あの山の鳥居は何でしょうか」
「神社が密集しているところかな? 元々あそこには人魚の神様を祀っていたそうだよ。大昔、あそこに住んでいた神様を銀鱗島に移動させたせいで、霧海村は灯篭流しをして毎年神様に謝らなくてはならなくなった」
銀鱗島というのは、霧海村の向こうにある離島の名前だ。
「謝るのですか? 神様に?」
「そう、村の人間が神様を銀鱗島に運んでしばらくして、霧海村では謎の病が流行りだしたようでね。最初は、膝や足が震えて歩けなくなったり、尿失禁が起こったりするだけなんだけど……そのうち全身の筋力が低下していて動けなくなって、ほとんどの人が死に至ったらしい。祟りだと騒がれて一時期は大変だったようだよ」
「……人魚の神様は、島へ行くのが嫌だったのでしょうか」
「さあ。ただ、新しい神社の建設が途中で終わってしまったことが祟りの原因だったんじゃないかとは言われているね。本当はきちんと完成してから神様を移動させるべきところを、途中で移動させた上に、建設も終わらぬうちに戻ってきてしまったようで」
千代子は黙り込み、何故それほど大事な建設が頓挫したのだろうと考える。茂は千代子が怯えていると思ったのか、安心させるように優しく頭を撫でてきた。
「ふふ、怖がらせてしまったね。大丈夫だよ。神の祟りなんて非現実的で馬鹿らしい話だ。原因不明と言われた南部の病も、最近は工場廃液による水質汚染が原因ではないかと噂されているし。霧海村の流行り病も何かの汚染が原因だったのではないかな?」
千代子を見下ろす熱っぽい目も、その毛むくじゃらの太い指もおぞましい。娘でもおかしくないほど年の離れた子供を、何故そんな目で見ることができるのだろうと不思議で仕方ない。
帰りたくなってきた千代子の肩を茂が抱き寄せる。
母が商店街に出かけているうちに距離を詰められている気がして、千代子の口角は引きつるのだった。
人魚隠しし灯篭流し 淡雪みさ @awaawaawayuki
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