神隠しの始まり





 夕方になっても町は蒸し暑かった。母と茂と近くを流れる川で釣りをして遊んだ千代子は、一日太陽の下にいたことで疲れ果て、別荘に戻ってすぐ風呂に浸かって川の匂いを消した。


 別荘にはいくつか部屋があり、千代子は母と一緒の部屋で眠ることになっている。

 茂の機嫌を取りながら、あと何泊かすれば自分の家へ帰れるはずだ。そう思いながら早々に布団に入った千代子の隣で、母が何故か荷物を纏め始めていた。


「お母様……?」


 千代子はこんな時間にどこへ行くのかと不審に思って上体を起こす。


「千代子、お母さん帰るから。盆が終わったら、茂さんと一緒に帰ってくるのよ」


 母は不気味なほどの笑顔を浮かべて言った。

 その何かに取り憑かれたかのような、人が変わったような笑顔は、栃木に引っ越す以前の母を思い出させる。


「最初は痛いと思うけれど、逃げたらだめよ」


 立ち上がる母の鞄は軽そうで、最初から何泊もするつもりはなかったことが分かる。千代子は咄嗟に母の服の裾を掴む。


「お母様も一緒に泊まるのではないのですか?」

「あのね、千代子。千代子は早く茂さんのものにならなくてはいけないの。そのために、お母さんがここにいたら邪魔でしょう」


 〝茂さんのものに〟――その意味を遅れて理解した千代子は絶句した。

 続けて、母が青い顔で意味の分からないことをブツブツと呟く。


「もう、もう、だめなの。お母さん一人では耐えられない。だって何度も迎えに来るのよ、海から。千代子のために引っ越したのに、それでも来るの。もう、もう、だめよ。このままじゃお父さんが……お母さんまで殺されてしまう」


 千代子は思わず掴んでいた裾を離した。いつもの母とは様子が違う。


 ――何かに怯えている?


 千代子がその異様さに圧倒されて何も言えずにいるうちに、母は部屋から出ていってしまった。しばらく呆然としていた千代子ははっとして、慌てて自分も荷物を纏めようとする。


「ま……待ってください!」


 しがみついた千代子の手は振り払われた。


「また……また呼んでるわ」


 母は虚空を見つめながら呟く。



「――〝こをかえせ〟と呼んでくる」



 千代子など見えていないかのような怯えた顔で、母は出ていってしまう。


 千代子と両親の間に血の繋がりはない。千代子は彼女たちに拾われた戦争孤児だ。空襲でまだ赤子だった実子を亡くした彼女たちの心の穴を埋めるように、都合よく現れた親なき子である。しかし血縁がないからといって母と父が千代子を他人として扱ったことはない。


 それが、茂が現れた辺りから、母の様子はまたおかしくなっていった。



 母を追いかけようと部屋の扉を開けた時、目の前に茂が立っていた。今、千代子の部屋に入ろうとしていたのだ。千代子はぞっとして身を震わせる。


「どこへ行くのかな?」

「お……お母さんが帰るって……」

「千代子はここにいないと駄目じゃないか」


 にたり。嫌らしい笑みを浮かべる、父と同じくらい年の離れた男。

 身の危険を察知して逃げようとした千代子の二の腕を茂が掴んだ。


 茂は強引に布団へ押しやった。


「やだ、やだやだやだやだっやめてください!!」


 千代子がどれだけ叫んでも茂がやめることはなかった。

 最初こそ激しく抵抗したものの、力で敵わない恐怖でだんだん手足は動かなくなり、最後には諦めが残った。


 千代子にとっては大きな出来事だった。しかし茂の方は何事もなかったかのように背を向け、呆然とする千代子の隣でいびきをかき始めた。

 千代子の胸に、空っぽの心だけが残った。




 鞄に入っていた服を被って別荘を抜け出し、無我夢中で走り続けた。

 裸足のまま土と草の上を走った。足の裏から血が出てきても、不思議と痛みは感じなかった。


 潮の香りがする。顔を上げると目の前に海が広がっていた。いつの間にか霧海村の浜辺までやってきていたらしい。



 初めて見る海だ。

 波が押し寄せる。

 何度も何度も。


 波打ち際を見つめているうちに、不思議な高揚感を覚えた。一歩一歩と海に近付く。


 遠くに銀鱗島が見えた。

 人など住んでいない島だと聞いたのに、ちらちらと小さな灯りが揺れている。その灯りに誘われるように、海に足を浸からせる。


 その瞬間、全てを捨てたい衝動に駆られた。


(……もういいや)


 おぞましい記憶が頭の中で繰り返される。

 母は千代子のことを道具としか見ていないのかもしれない。もう栃木の家には帰れない。帰りたくない。


 体が水に沈むごとに、まるで故郷に帰ってきたかのような心地よさがあった。



 水の音はもう聞こえない。




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