三 祈りの実態

 二年前。

 由美が仕事場に来て言った。

 エロジジイが、近所だからと言って、追いかけてきて、断る由美を無理に車に乗せて仕事場まで送ったと言うのだ。誘いに乗って車に乗る由美もどうかしてる。

 その後真夜中に、エロジジイは、

「これから行くからやらせろ」

 なんてセクハラ電話をかけてきた。

 それから何度も深夜に電話が来たが、電話には出なかった。

 警察に連絡したが対応した警官は、

「自分もしょっちゅう嫌がらせ電話をされてる。過去に逮捕したヤツからだが何もできないのだ」

 と言い、私の話を聞こうとせず、相手にもされなかった。


 しかたないので私は呪った。

 しかしながら呪いも祈りだ。相手を思う事だから、ある面、思いやりだ。恨まれるヤツほど長生きすると世間は言う。まさにこの理屈に当てはまる。

 そこで私は、

「くたばれエロジジイ!」

 と呪った。


 しかしはたと気づき、エロジジイが神としての修行を行うように祈った。

 こう言うと人は、

「なぜ、そんな高貴な祈りをしたのか?」

 と考えるだろう。そう考えるのは、世俗の慣習に毒された考えを鵜呑みにしている場合だ。

 さて、一般人が仏門に入り、雲水となって修行をする姿を見た事がある人は、修行がいかに大変かよくわかるだろう。日々考えて悩む方が、簡単にくたばるよりはるかに苦行だ。

 私は、エロジジイがそういう修行をするように祈った。


 祈りは思いを形にする事だ。口に出せば大気に疎密波の振動が伝わって聞こえる。その意味で形になる。文字に書けば見える。

 それに対し、思うのは自由だ。思いの中で何をしようと許される。そして、思いは形にならない。だから、思いは祈りにはならない。黙祷は祈りにならない。

 にも関わらず、世俗の慣習にどっぷり浸っている者たちは、思う事で、祈っている事になると思っている。大まちがいだ。

 だが、そんな事はどうでもいい。祈りの実態を説明しても、実行しようと考える者などいないからだ。

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