第10話 春だよ!悪夢のシャトルラン(後)

 先ほどシャトルランも悪くないと言ったな。あれは嘘だ。やはりシャトルランは悪である。前のスクリーンを見るに今は50回を少し過ぎたあたりだが、すでに脚に疲労がたまってきている。数度荒い呼吸をして息を整えると、現実逃避のための思考を始めた。


 右には水銀さんがかなり息を荒くしながら走っている。走りやすいようにと結ばれたであろうポニーテールが地面を踏みしめるたびに揺れる様は、俺にかまうよう命じてくるときの愛猫のしっぽを想起させた。ダイフク——愛猫の名前だ——は元気にしているだろうか。帰ったら存分に吸わせていただきたい。そういえば、猫吸いはいつから始まったのだろうか。個人的には猫吸いを最初にやった人とそれを広めた人は数学界におけるガウスと同レベルの偉人であると思う。


『な、なぁアイツを吸わせてくれよ。それだけで幸福になれるんだ。ちょっとだけ、ほんの数秒だけでもいいからさぁ』


…猫吸いを求める様をこう書くとあたかも危ない草を求めているように思える。やっぱり偏向報道って怖いな。


 そんなことを考えて気を紛らわせていたが、どうやらそれも限界が近いらしい。そろそろ脚にたまった乳酸の量も多くなってきたころだ。しっかりと気を保っていないと足がもつれて転んでしまいそうになる。加えて、呼吸も随分と荒くなって飲み込んだ唾が喉の痛みを引き起こす。咳き込んで俯いていた顔を上げると、すでに走り終えた水銀さんがペアを組んでいるらしき人と話しているのが見えた。遠目では良く分からなかったが、彼女らの方に近づくにつれ曖昧な輪郭は次第に線を結び、果てにはそれが元名さんであることに気が付いた。彼女もこちらに気が付いたのか軽く首を曲げて会釈をする。同じような真似をすると、シャトルランのレベルが上がる音が響いた。

 気付けば、走った回数は70回をすでに超えていたらしい。スクリーンにでかでか映っている数字は73。あと3回走り切ればシャトルランの点数が1点上昇する。


 そうとなれば話は早い。あと3回を走り切ればよいのだから、もう後のことを考える必要はない。俺は残り少ない力を振り絞って精一杯地面を蹴る。75回目のターン、あとはこの20mを抜ければ全てが終わる。大きく息を吸い、全身全霊で駆け抜け、ついに76回目のラインを踏んだ。安堵感と疲労から倒れるように地面に座り込む。


「お疲れ~」

「お疲れ様」

「ああ、ほんと、つかるるてもしそ(疲れすぎてもう死にそう)」

「噛みすぎて何言ってんのかわかんねぇよ。ってか暑いだろ。ほら、扇子」

「ありがとう」


 扇子を受け取り、首元から服の下の空気を循環させるように風を送る。扇子には青い花と同じく青い蝶が描かれており、それだけでも清涼感を感じられた。彼曰くこの扇子は彼が中学生のころに家族との旅行先で作ったものらしい。流石に模様の見本的なものが用意されていたとは思うが、それでもこの上手さの絵を描けたのには感嘆した。


 それはさておき、わざわざこのような状況を見越して扇子を持ってくるあたり、彼はやはり先々のことが考えられる人間なのだろう。旧クラスの誰かが戸崎のことを「気遣いの鬼」と呼称していたのにも納得がいく。


 気づいたころには走者は独りしか残っていなかった。他クラスの生徒であるため、走っている彼の名前は存じ上げなかったが、適当に「がんばれ~」とだけ言っておいた。


 130回を過ぎたころ、とうとうその走者も力尽き、シャトルランをする人の交代の合図が響いた。それを聞いた戸崎は立ち上がり、軽くアキレス腱を伸ばし始める。


「それじゃあ、走ってくるよ」

「おう、頑張れ」

「私も応援してるよ」


 俺と水銀さんがそれぞれ激励すると、戸崎は顔を引き締めて深呼吸をし、構えをとった。


 刹那の後、後半の始まりを告げる三音が響いた。とはいえ、3桁を超えるまでは彼にとっては前哨戦ぜんしょうせんに過ぎない。わざわざマメに記録用紙にチェックを入れる必要もないだろう。


 扇子を持つ右手も疲れ、扇ぐのをやめた頃。話し声が聞こえて左を向くと、水銀さんのペアの人はもう終わりにして休憩をとっているようだった。どうやら彼女も運動はあまり得意な方ではないようだ。


「あのさ、」


 持て余した暇を潰そうと、隣の水銀さんに話しかけた。ただ、肝心の話題を全く考えていなかった。


 戸崎とは手をつないだりしたのか、デートはどこに行ったのか、告白はどちらからしたのか。そんな疑問なら脳裏には浮かぶが、そのどれもがこの現状に、あるいは俺と彼女の関係に相応しくないように思えた。


「今日の昼、どこかに行ってたみたいだけど何かあったの?」


 必死に記憶をさかのぼり、疑問を見つけて投げかけた。


「あぁ、6月の半ばに体育祭が控えてるでしょ?今日はその実行委員の打ち合わせがあったの」


 体育祭実行委員。俺はその役職にあまりいい印象を抱いていない。なぜならば、昨年度のクラスで体育祭実行委員をやっていた芝光は、体育祭までの日を追うごとに忙しくなっており、一週間前ともなると憔悴しょうすいしきって今にも倒れそうな様子で学校に来ていたからだ。その様はまるでy=tanh(x)のグラフのように…いや、この例えは友人に話しても理解されないだろうな。


「なるほどな。…それにしても、体実とか、部長の仕事とか、いろいろと忙しいだろ。ちゃんと俺とか他の人に適宜手伝ってもらえよ」

「うん。ありがと。」


 彼女は一瞬だけ俺の方を見て微笑んだがすぐに視線を戸崎に戻した。「がんばれ~」と応援した彼女の声が届いたのか、戸崎はこちらに向かって大きく手を振った。回数はもう100回を超えており、残り少ないだろう気力をそんなことに使うのはどうかとも思ったが、でも、それが戸崎勇祐という男なのだろう。


「がんばれ」


 対岸へ走る彼の背中に小さく、そう投げかけた。俺の声が彼のもとに届いたのか、それを確かめるすべを俺は持っていなかった。

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夜明け前には白百合と C2N2 @Cyan-ctonto

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