第9話 春だよ!悪夢のシャトルラン(前)

 時は流れて4月25日、新学期にも人々が慣れ始めてきた頃。それは、水銀さんと奏と一緒に昼食を摂っていたときのことだった。


「あれ?今日戸崎は?」

「ああ、あいつは何か今日部活関連の用事があるってさ。」

「なるほどね。そういえば、昨日化学部の新歓だったんでしょ?どんな感じだった?」

「どう、と言われても…ああ、新入生は割と増えたかな。確か、17人ぐらいで男女比6:4ほど。俺らの代が9人の7:2だからほぼ人数は倍だな。女子が思ったより多かった。」

「巽のイケメンっぷりに惚れた女の子たちが来たんじゃないの~?」

「お前は俺をなんだと思っているんだよ、奏…。というか、だったら男子の方が多くなるはずだろ。うちの顧問は可愛い可愛い琴ちゃん先生だし」

「お、その『琴ちゃん先生』って呼び方いいね。ボクも今度からそう呼ぼ~」

「あはは、それにしても20人弱なんてすごいね。美術部うちはまだ10人ぐらいしか入部してくれていないからさ~。」

「まぁこっちは授業の予備実験とかでそもそも実験室が使える日が少ないせいで活動頻度もそこまで高いわけじゃないし、兼部している人も多いから。それに、軽音部やダンス部みたいな一部の例外を除いたら大抵の文化部はそれぐらいの人数だと思う。多分、きっと、おそらくメイビー。」


 そんな感じで談笑していると、スマホに通知が来た。開いてみるとそこにあったのはクラスのグループに送られた一通の写真。そこに映るホワイトボード、それに書かれていた言葉とは、『2年 体育館集合』そしてその下に少し小さく書かれた『シャトルランをやります』の文字だった。


 一時は拒んだその意味を脳が理解すると同時に、俺の心に絶望の雨が降った。俺は、体力を要する運動があまり得意ではないのだ。


 そもそも、先月か先々月かまでは持久走をやっていたのにシャトルランもやるというのがおかしいのだ。たとえシャトルランがスポーツテストの一環だとしても、相場はどちらか一方に限定するものだろう。


「どうしたの、巽?箸止まってるけど」

「ちょっとこれ見てくれよ」

 そういって先の画像を奏らに見せる。すると奏は苦笑を浮かべながら、

「なるほど、確かに持久走のときとかも毎回息ゼーゼーになってたからね。」

 と言った。奏の言葉とおり、昨年度の持久走ではなかなかにひどい結果を出していた。20分走では7周ほどしか走れず、タイムアタックでは前の人と1分ほど開いて最後尾でテープを切った。今思えば、週3ほどで訪れるあの地獄のような体験をよくもまぁ耐えしのいだものだ。


「え~、私もうお弁当全部食べちゃったよ。痛くならないかな…」

「なんとかなるでしょ。多分」


 空になった弁当箱を袋にしまい、水筒のお茶を口に含むと、いつも通りの談笑タイムが再開した。


***


「いーち、にー、さーん、しー、」

「ごー、ろく、しち、はち、」


 やる気のない声と少し張った声とが入り交じり、体育館内に薄く反響する。通気性の悪く、外の気温よりも幾分か暑いように思える屋内は準備運動だけでも密かに汗を滲ませた。


「それじゃあ、シャトルランを始めます。二人組を作り、前半後半を決めて走る準備をしてください」

「た~つみ~、一緒にやろうぜ~」


 陽の気をまとった声に振り向くと戸崎がこちらに走り寄ってくるのが見えた。ジャージを脱ぎ半袖短パンの体操着姿になった彼はいかにも体育会系といった雰囲気を漂わせていた。そのうえ笑顔が爽やかで定期テストも学年一桁をたびたび獲るほどに長けているのだから神にでも愛されているのではと思う。彼の得意教科が文系よりなのが唯一の救いであろうか。


「オッケー。ところで、戸崎は今年は何周が目標なんだ?」

「去年がたしか120回?とかその辺だったはずだから今年は140が目標かな。」

「もっと目標は高く持とうぜ。そうだな、6.02×10^23回走ろう。そして授業を潰して俺の分の時間を潰してくれ」

「なんで1molなんだよ。というか音源もないし人間には不可能だろ…」


 戸崎が呆れたように笑いながら答える。それにつられて俺も笑う。ひとしきり波がおさまると思い出したかのように彼が尋ねてきた。


「巽は目標何回なんだ?」

「俺はシャトルランが苦手だからな。お前の半分、70回ぐらいいけたらいいと思う」

「なるほどな」


 そんなことを話していると黄色いコーンの前に着いた。男子用のレーンと女子用のレーンの境界を示すそれのもとまで何故彼が歩いたのか、その疑問を自分なりに解消するより早く解答は提示された。


「ゆー…戸崎くん、それに巽くんも。やっほー」

「ああ、やっほー」


 応答と納得を込めてそう返した。要するに、水銀さんの近くにいたいからわざわざこんなところまで来たということか。


「そろそろ始めるぞー、ラインは赤いのと青いのとどっちでもいいがあんまり片方に集中しないようにしろよー」

「やっべ、まだどっちが走るか決めてなかったな。巽はどっちがいい?」

「じゃあ俺が先走る方で」

「了解」


 そう告げると回数の記録用紙を彼に手渡し、記録する側の生徒から離れた青いラインに立った。ふと左を見ると水銀さんが居た。こちらの視線に気が付いたのか彼女が胸の前で小さく手を振る。そんなことされたら好きになっちゃうだろ。…もうなってたわ。


 にやけてしまいそうな口をどうにか抑えると、平静を装いつつ俺も小さく手を振り返した。——シャトルランも、案外悪くないかもな。

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