手術室にて

紫陽花 雨希

手術室にて

 私は手術室にいた。清潔な青いガウンと手袋で体を覆って、両手を胸の前で組んで、五時間立ちっぱなしで足の裏がジンジンと痛むのを感じながら、意識を半分失いそうになっていた。

 私は外科医志望ではない。研修医の必修カリキュラムに含まれているから、一か月間だけ履修しているだけだ。正直、興味はあまりない。それでも、手術中はひどく緊張して交感神経が昂る。居眠りする余裕なんてない。しかし、今日はいつもより手術時間が長引き、しかも精神的なストレスが強いせいで、頭が真っ白になりかけている。

 上司に事情を説明すればきっと、今回は術野に入らなくても良いと言われただろう。けれど、どうしても言い出せなかった。まさか、患者が自分のパートナーだなんて、言えるわけがなかった。

 自殺未遂ではないか、という話だった。ビルの屋上から落下したらしい。どうして、と思った。彼女はずっと、いつ死んでもおかしくないような精神状態だった。分かっていた。それでも、生きてくれると思っていた。私を残して逝ったりしないと、本気で信じていた。

 危うい瞬間は何度もあった。そのたびに、私は必死で彼女の手を握った。昔は一人で落ちてゆこうとしていた彼女が、いつからか私に頼ろうとしてくれるようになった。私の手を握り返して、逆に引っ張り上げてくれていた。

 ……それは、錯覚だったのかもしれない。


 夕暮れの、淡いピンクと水色の水彩絵の具を水でぼやかしたような空に、小さな雲が一つだけ浮かんでいた。病院の渡り廊下で私の少し前を歩いていた彼女が、「あっ」と声を弾ませて空を指さしたのだ。絵本の中のような景色だった。ふわふわと柔らかそうな雲をながめている彼女に、私はスマホのカメラを向けた。シャッターを切ろうとした瞬間、彼女がこちらに振り向いた。その表情は、笑顔とも泣き顔ともつかない切なさが滲んでいた。

「僕、他人に写真を撮られるのが嫌いだったんだ」

「ごめんなさい。かわいいから、つい」

 彼女がへにゃりと微笑んだ。

「君になら、良いんだよ」

 私は言葉に詰まった。ごくりと唾をのんでから、

「どうしてですか?」

と問い返す。私にはこういう所がある。――彼女から想いを受け取るのをためらってしまう。彼女は私のことが大好きで、今もきっと私を肯定しようとしてくれているのだと思う。自分にとって私が特別であると、言ってくれるだろう。それを切に期待して、嬉しくてたまらなくて、そんな自分が後ろめたく恥ずかしくて、一歩後ろに下がりたくなる。

 そんな私に向かって、彼女はそっと手を差し伸べる。

「君が、僕の存在を肯定してくれるから。君に生きていても良いと肯定してもらえるから、僕は生きてられるんだ」

 ふっと、口元が自然にほころびるのを感じた。

「お互い様ですね」


 長時間の手術が終わり、彼女を集中治療室へと運んでいる途中で、私は思わず問いかけていた。

「まさか、私に生を肯定してもらうために飛び降りたなんて、そんなことしないですよね」

 聞こえるはずもないのに。

 そんなこと、聞きたくないのに。

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