第4話

「……肩、大丈夫ですか」

「うん、慣れてるから、平気だよ」


 柔道場から十分に遠ざかった後、怒りのオーラがおさまった久美子ちゃんが心配そうに僕を見上げてきた。僕が笑顔を見せても、やはり彼女の顔は晴れない。

 彼女の耳にも悪いので、もう僕は支えて貰っていない。だが久美子ちゃんはまるで歩きはじめた赤子を見守る親のごとく、僕の側から離れようとしなかった。


「……これが、あの医院が馴染みになってる理由。昔野球やっててね、これでもエースだったんだ。けど、夏の予選の前に肩を壊して……治りきらないうちに予選で投げたら、しまいに脱臼癖がついて、完全にリタイア。今じゃ肩の外れやすいただの学生だよ」

「……そんな」

「気にしないで。僕はリタイアしたことも――そもそも肩を壊したことも、自分で選んでやったことだから。そりゃ少しは後悔もあるけど、嫌な思い出じゃあない」


 久美子ちゃんの神妙な視線が僕を捉えている。目を合わせるのも恥ずかしいので、僕は前を向いたまま、続けた。


「だから、君も、自分で選んで何でもやってみればいいし、やめてみればいい。望まない結果になったとしても、自分でやったことなら、諦めもつくし良い思い出になるよ。君ぐらいの歳だとお父さんは絶対的に逆らえない存在に見えるかもしれないけど、あれだけ強いなら大丈夫、面と向かって対抗してみればいい。

 それに、学校の先生でも飯野先生でも、僕でもいいから、何かあったらすぐに相談してくれればいいよ」

「……はい」


 久美子ちゃんは街灯の隙間の暗がりで少しだけ涙を零したようだったが、すぐに袖でごしごしと拭い、元気な顔を僕に見せた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


「もう少し牛歩で帰って来ればいいものを」

「うっふっふー。これで週末の合コン代が出るわ」

「出費相応の実りのあるコンパになるといいがね」

「うるさいわねー」


 目の前を万札が横切っていく。


 診療時間をゆうに過ぎても、未だ明かりを湛える飯野整形外科医院の診察室にて。

 どうやら僕の帰還までの時間を賭けていたらしい。『一時間以内』に美波さんが、『一時間以上』に先生がBETしていたようだ。残念ながら45分で僕は医院まで戻ってきた。

 患者を差し置いて堂々と金銭の授受をする医療関係者に、上半身裸で寒気がしてきた僕は右肩を示す。


「早く戻して欲しいんですが……」

「はいはい」


 美波さんのポケットに吸い込まれて行く紙幣を名残惜しそうに見送ってから、飯野先生が僕の腕を取り、いとも簡単に肩を嵌め直す。


「――っ」


 痛みもともかく、この骨が元に戻るときの何とも言えない気持ち悪い感覚は、何度やっても慣れない。肘や指が支障なく動くことを飯野先生が確認した後、美波さんが湿布を貼り、ぺちんと叩いた。


「た、叩かないで下さいよ」

「いいじゃない戻ってるんだから」


 湿布が剥がれないようテープで固定してもらっている間、僕は先生にことのあらましを説明した。背負い投げが決まったところまで話すと、先生も美波さんも安堵したのか表情を和らげる。


「――それで、気は済んだのかね」


 首を巡らせ、僕の後ろに座っている久美子ちゃんをみやる先生。


「あ、あの、終わりました、か……?」


 後ろを向いていた久美子ちゃんが、ちらりと僕の方を窺う。だが、僕がまだ服を着ていないことに気付き、あっという間にそっぽを向いた。


「かんわいい……」


 初々しい反応に、美波さんがほっぺを抑えて何やら悶絶する。


「これが本来あるべき反応だな。君が何十年前に置いてきたか覚えているかね」


 僕が服を着るのを手伝ってくれた先生の顔に、美波さんが無言で三角巾を投げつけた。幸いダメージは無かったらしく、何も動じずに僕の腕を固定にかかる飯野先生。


「終わったよ」


 右腕を吊り下げ、肩を固定するよう反対側まで布をまわししっかりとくくりつけた後、僕が声をかけると、久美子ちゃんはようやく恐る恐ると言った様子で振り向いた。


「あの、父が本当にすみません……」


 大仰な三角巾で事態を悟ったのか、久美子ちゃんが泣きそうな顔になる。


「いいよ、こうなるかもしれないって分かってて僕が自分で行ったんだから。どうしても、一言言ってやりたかったんだ」


 最初から美波さんでも先生でも、警察でも、とにかく大人を引き連れて正々堂々と対処することもできたし、それが最善手だったろう。でも、子供の将来について、夢について、無責任に大人に抗弁することができるのは、きっとまだ子供の域に片足を残している僕だけだった。


 膝の黒猫がもぞもぞと彼女の腕に頬ずりをしている。まるで最初からこうあるべきだったと思えるほど、猫はすっぽりと久美子ちゃんの膝におさまっている。


「その猫は僕が預かるよ。もしお父さんとうまく仲直りできて、猫を飼う許可が出たら引き取りにおいで」

「はい」


 久美子ちゃんは愛おしそうに猫の首筋を撫でた。その小さな手が成人男性を軽々と投げ飛ばしたとは、実際に見た後でも不思議なくらいだ。

 少しの沈黙の後、久美子ちゃんが顔を上げる。


「柔道、もう少し続けてみます」

「そうか、そうか」


 飯野医師が頷くと、久美子ちゃんはすっきりした顔で続けた。


「自分より大きな人を投げるときの楽しさ、忘れてました。選手になれなくても、将来、あたしみたいに楽しさを忘れちゃう子が居ないように先生とかトレーナーになってもいいし、それに……」

「それに?」


 すると久美子ちゃんは相づちを打った僕を見上げ、何故か頬を赤らめる。


「好きな人が危ないときに、守ってあげたいし……」

「!?」


 その言葉が細い声で綴られた瞬間、飯野医師の冷ややかな目と美波さんの肘が僕の脇腹に突き刺さる。


「セーショーネンホゴイクセージョーレー!!」

「痛、ちょ、やめて下さいよ美波さん……ッ」


 独り身の美波さんの怨念と、僅かに目尻を赤くしてはにかむ久美子ちゃんと、まるで最初から分かっていたかのような達観した飯野先生の眼差しを受けながら、僕は反応に困る。

 もちろん好意を持たれることは喜ばしいのだけれど、ここで率直に喜んだらよからぬ認定を受けかねないし、かといって困ったら久美子ちゃんが泣き出しかねない。実に難しい立場におかれてしまった。


 そうしてがたがたとやっていると、やがて久美子ちゃんの膝で黒猫があくびをして、呆れたように眼を細めて顎を下ろし、眠ってしまった。

 天井から僕らを見下ろしている、日頃は清潔感溢れどこか冷たさすら感じる診察室の白い明かりが、このときばかりは不思議と暖かさを伴っているような気がした。

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