第3話

「勇君。私も行こうか? 大人が行った方がいいと思うけど」

「いえ、大丈夫です。その代わり、猫と荷物、預かっといて貰えませんか」

「それはいいけど。裏口はまだ開けとくからね。警察沙汰になりそうならちゃっちゃと逃げなさいよ。なんなら最初から連れてってもいいくらいなんだから」

「はは、分かりました」


「あ、あの……お金、後で必ず払います」

「いいのいいの。勇君につけとくから」


「……バイト代が入ってからでいいですか」

「ええ、20日よね」

「……よくご存じで」


 美波さんに見送られ、僕と久美子ちゃんは飯野整形外科医院を後にした。時刻は19時30分。もうすっかり暗くて寒い。


 僕が何度気にするなと言っても、久美子ちゃんはお金のことを気にして困り顔を解こうとはしなかった。

 並んで歩くと彼女は本当に小柄で、まだ小学生といっても差し支えないほどの華奢な体格だった。アスファルトを踏む足音も、とても軽く小さい。


 僕は、彼女の帰宅に付き添うことになっていた。すっかり意気投合している猫については彼女の家で飼うか、駄目なら僕の家で引き取ることにした。あの状況の後で今更公園に放つことなどできるはずもない。


 今、彼女の手には抗生物質の薬の入った小さなビニール袋がある。傷が膿まないようにと持たされたものだ。それを申し訳なさそうに見下ろしながら、久美子ちゃんはとぼとぼと歩いて居る。


「お金のことは気にしないでいいよ、もし払って貰えそうならお父さんから払ってもらえばいいし、駄目そうなら僕が出しとくから」

「……はい」


 僕らはそのまま言葉すくなに、市道を隔てた隣町まで歩いた。

 風も出てきて寒さが堪えたが、血に濡れたワンピースを纏い泣き腫らした顔で縫われたばかりの耳に手をやる中学生の女の子の横で、弱音を吐くわけにはいかなかった。


 大学と下宿の往復しかしていないので、近所とはいえ見知らぬ町は新鮮だった。思ったよりも近くにホームセンターがあったのは良い発見だった。これでもし猫が粗相しても色々買い換えることができる――とまで考えたところで、捕らぬ狸ならぬ『飼わぬ猫の粗相算用』をしていたことに気づく。


 そうして十分も歩いた頃、久美子ちゃんの家、そして柔道場に辿り着く。

 母親は居ないらしく、父と娘の二人暮らしをしているそうだ。

 柔道場が併設されているということで広い敷地と日本家屋のようなものを想像していたのだが、実際は普通の鉄筋の一軒家と、プレハブで作った体育館のような建物が隣接している。壁には柔道教室という看板がかかっていた。堅苦しい字体で時間と曜日だけが書かれている。


「……まだ道場に居るみたいです」


 柔道場の窓から明かりが漏れているのを指しながら、久美子ちゃんがおずおずと言った。その横顔には、緊張の色が現れている。

 僕も唾を飲み込み、居住まいを正す。


 そして僕は久美子ちゃんに連れられ、道場の入り口へと向かった。外に靴を置くようになっていて、古びた下駄箱とすのこがおいてあった。

 道場というものは、ただそれだけで何となく緊張してしまう。スチールのドアをゆっくりと開くと、中の眩い光が漏れだしてくる。

 僕が中を見ようとするよりも先に、怒号が飛び出してきた。


「久美子!!」

「――っ」


 低く強く、肺に響く声だった。途端に横の久美子ちゃんが身を竦める。そして間を置かずにずんずんと重い足音がした。やがて光が遮られ、大柄な男性が目の前に現れる。


「何だ、この男は!」


 紹介されずとも知れた。この剛毅な男性が久美子ちゃんの父親なのだろう。


「お父さん、あのね――」

「お前が、久美子にピアスのことをそそのかしたのか!」


 愛娘の言葉すら遮り、彼は僕を睨み付け、怒鳴りつけてきた。怒りが完全に僕の方に向いている。


「よくも久美子をたぶらかしたなッ。お前のせいで久美子の夢が、メダルが――」


 聞いていられなかった。僕も対抗し、声を張り上げる。


「それは、あなたの夢でしょう? 失礼ですが多分あなたの叶わなかった夢なんでしょう? それを子供に押しつけて自分の思い通りにさせていただけじゃないんですか」

「何だとっ」


「でも、思い通りに育てたところで、夢が叶わなかったらどうするんですか? 次の子供を作るんですか? そしたら久美子ちゃんはもう用済みになるんですか?」

「お前――っ」


 鼻白む彼に向かって、僕は断罪するかのように、声を突き付ける。


「親がするべきなのは、子供が自分で見つけた夢を応援することです。自分の夢を押しつけることではありませんよ」

「な……生意気な口を叩くな!!」


 やがて彼の顔は真っ赤になり、般若のごとく目を怒らせ、僕に迫ってきた。そして彼は僕の手を掴んで引き寄せた。恐らく投げ飛ばすつもりなのだろう。


 だが。その前に、内部でごりっと嫌な音がして、僕の腕はあらぬ方向にねじれた。


「――がっ……」


 彼が驚いて手を解放したので、僕は身体を折り、蹲る。

 肩の関節が外れたのだ。


 だらりと垂れ下がった右腕は、もはや僕の思い通りには動かなかった。遅れて痛みを感じ始め、冷や汗が噴き出す。それでも僕が顔を上げて抗弁しようとした、そのとき。


 僕の横を一陣の風が通りすぎた。


 小さなそれはあっという間に彼の間合いに入り、襟を取り、重心を奪い――


「――!」


 唖然としている僕の目の前で、100キロはあろうかという成人男性が綺麗に宙を舞った。


 僕は、『柔よく剛を制す』をまさに目の当たりにした。


 僕の他にも唖然としている人物が居た。投げられた本人――久美子ちゃんの父親だ。柔道の先生だというのに受け身すら取れなかったのだろう。コンクリートの上に大の字でのびてしまっている。


 一通りの騒ぎが治まった後、唯一、この場での勝者として王者のごとく立っていたのは、小柄な女の子一人だけだった。教科書に載せてもよいほど綺麗な背負い投げを披露した女の子――久美子ちゃんは、仁王立ちで父親を見下ろした。

 そして凛とした声で告げる。


「分かった。もういい。あたしが一生懸命練習すればいいんでしょ。他の人にまで迷惑かけないで。傷が治ったらまた柔道できるらしいから安心して。

 ――でもね、一つだけ言わせて」


 久美子ちゃんはすうっと息を吸い、父親の怒声もかくやというくらいの大声を爆発させた。


「お父さんなんか、大ッ嫌い!」


 清々しい声だった。そこに陰鬱とした感情は無く、まるで試合前に気合いを入れるかけ声のようだった。


「く、久美子……」


 動揺しきった顔でよろよろと起き上がる父親を無視して、久美子ちゃんが僕の方に駆け寄ってきた。そして左側から支えてくれる。


「勇さん、病院に戻ろ」

「うん。ありがとう」


 投げ技のあたりで吹っ切れたのだろう。久美子ちゃんは来たときとはまるで違う、溌剌とした顔をしていた。


「それじゃ、失礼します。久美子ちゃんは後でちゃんと送り届けますので……それまで頭を冷やしておいて下さい」


 そう言い残し、僕は心配そうに横にくっついてくる久美子ちゃんに支えられながら、柔道場から立ち去った。

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