第2話

「満員電車で引っかけたりしてこういう怪我をする子は少なくないが……皆びっくりしてすぐに病院に駆け込むよ。よくもまあ血が止まるまで耐えたもんだ」

「ごめんなさい」


「儂に謝るところではないよ。自分の身体は大事にしなさい」

「……ごめんなさい」


 僕は女の子を連れて近所の馴染みの医院を訪れていた。真っ白な強い光の下だと、彼女の耳の痛々しい様子がより鮮明に見えた。

 今は隠居寸前の白髪豊かな医師、飯野先生が、女の子の耳を縫い合わせている。


 ぷつりぷつりと耳たぶに針が刺さり糸が通り抜けていく様を見ていられなくなり、僕は付添人にも関わらず、カウンターの向こう、待合室の方に目を移す。

 ガラスのドアの内側に、黒猫を抱いた看護師が『本日の診療は終了しました』という立て看板を出しているところだった。


 僕は問診票に綴られていた文字を思い出す。女の子の名は、山井久美子。14歳で、隣の区画に住んでいるようだ。


「ところで、君は柔道か何か格闘技でもやっているのかい?」

「えっ……あ、はい。柔道です」


 唐突な質問で、僕の意識も診察室に戻される。


「柔道耳というほどじゃあないが、右の軟骨が少し歪んでいるか。厳しい訓練でもしているのかね」

「……」

「これ、動くんでない」

「ご、ごめんなさい」


 俯こうとした久美子ちゃんを叱責する飯野医師。


「では、この傷も何か柔道に関係しているんだね」

「………………、はい」


 麻酔無しで縫合に耐えていた彼女は、しかしその言葉で沈痛な表情を見せた。そして辛そうな顔で、ぽつりぽつりと語り始める。


「あたしの、お父さんが柔道教室の先生をしてます。あたしは生まれてからずっと、柔道をしてます。勝つのが当たり前、負けるのは恥、目指すは日本代表だって」

「……」


 黙って聞いていると、店ならぬ医院じまいを済ませた看護師の美波さんが戻ってきた。はすっぱという単語を体現したような妙齢の女性で、診療室に野良猫を持ち込んだ挙げ句、縫合を終えて消毒まで済んだところを確認すると久美子ちゃんの膝に猫をおろす。

 人に慣れた黒猫は、少し身じろぎをしただけで久美子ちゃんの膝にすっぽりと座り込んだ。


「小学校のときは結構一番にもなれたんです。でも中学になって、新しく始める子で強い子とかも出てきて……負けることも多くなりました。あたし、どうしてもパワーが足りなくて、押し負けてちゃって……」


 彼女は小柄でしかも軽そうだ。いくら柔よく剛を制すといえど、同じ技量のある人間同士ならば膂力のある方が勝るのもおかしくはない。


「柔道、もう嫌になったんです。練習もきついし。でもお父さんはあたしが一言でもそんなこと言ったら、すごく怒ってそれ以上話を聞いてくれなくて……ずっと、やめられないままで」


 言いながら、久美子ちゃんは膝の猫をぎゅうと抱いた。


 一生懸命やったこと、努力に対する労りは何も無く、勝利は当たり前なのだから褒める必要はなく、負けることに対しては厳しく叱責する――きっと、そんな残酷な教育方針なのだろう。想像するだけで僕の心まで痛くなってしまう。


「この前、教室に通っている知り合いの男の子が、ピアスをつけてきました。そしたらお父さんが凄く怒って、お前なんか破門だって言って、その子を追い出したんです。練習のときは外すからって言っても全然駄目で、その子の荷物を全部持って外に投げちゃった」

「……それで、君も?」


 だんだん、彼女の事情が把握できてきた。僕の言葉に、久美子ちゃんはゆっくりと頷く。


「ピアスをすれば、柔道がやめられると思ったんです。だから、穴をあける機械を買って、自分で開けて、ピアスをしてお父さんの前に行きました」


 そこから先は容易に想像できて、聞きたく無かった。けれど、久美子ちゃんは細い声で続ける。


「そうしたら、お父さんが、鬼みたいな顔して、あたしの耳から……ピアスを」


 切った張ったなど日常茶飯事のはずの飯野医師までもが痛ましい表情を見せる。美波さんなど顔を青くしてピアスをしている自分の耳をおさえていた。


「出て行け――って。柔道をしないあたしには家にいる価値は無いって。凄く恐くて、痛くて……あたしは道場から逃げました。気付けば、お兄さん……ええと、勇さんに声をかけられたあの公園に居ました。あたしが一人で居ると、この子が近くに来てくれて、あたしと同じように耳が切れてて……一緒だなって」


「……それは、辛かったろう」

「!」


 飯野先生が、ぽんぽんと優しく久美子ちゃんの頭を撫でた。

 それを切欠として、久美子ちゃんの目に涙が溜まっていく。やがてそれは決壊し、ぽろぽろと頬を滑り落ちていった。


 そして、久美子ちゃんは嗚咽を隠そうとせず、まるで赤子のように声を上げて泣いた。涙が止めどなく零れ、鳴き声が診察室に満ちる。これまで堪えていたものが全て溢れてしまったのだろう。


 小さな滴を受けた黒猫が、不思議そうな顔で久美子ちゃんを見上げていた。

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