スモールガール、ストロングガール

もしくろ

第1話

 窓を開けただけで、外を歩くだけで、金木犀の香りがする季節になった。


 冬の暖房の設定温度よりはまだずっと暖かいはずなのに、夏に慣れた身体では肌寒く感じるのは不思議なものだ。僕は半袖で出てきたことを後悔しながら、薄暮の中を近所のスーパーまで歩いた。


 道行く人は長袖ばかり、上着を着ている人もちらほら。せめてパーカーくらい羽織ってくればよかったな――そんなことを考えながら、ひときわ金木犀の強く香る公園の横を通り過ぎたとき。


 僕は、一人の女の子を見つけた。


 夕方とはいえもう暗くなるのが早く、やんちゃ盛りの子供達は既に引き上げた後のようだ。青色のワンピースを着たその子だけが一人、僕に背を向け、佇んでいた。

 おかっぱの髪が僅かに揺れている。中学生くらいだろうか。迷子でも無さそうなので、それほど気になる光景というわけでもなかった。


 僕は横目で公園を見やりながらも、そのまま通り過ぎてスーパーへと向かった。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 時限セール待ちのたくましい主婦達の合間をかいくぐってどうにか買い物を終え、僕は来た道を戻る。

 気温はどんどん下がり、半袖であることを本格的に後悔し始める。自然と早足になりながら、僕は公園の横に差し掛かった。


 何気なく中を覗いてみると、やはり少女が居た。背を向けていたのは同じだったのだが、今度は座り込んでいる。流石に、様子がおかしい。


「……仕方ない」


 ただの杞憂に終わり不審者扱いされる覚悟もした上で、僕はフェンスを跨ぎ越え、公園に入った。


 ボール遊びなどができるようにでもしているのか、公園は中央部を大きな更地にしている。端の方に鉄棒やブランコが据えられていた。女の子は、その真ん中で、砂利の上に尻をつけて、膝を抱えて座っているようだった。

 僕は驚かさないように砂利を僅かに蹴って足音を立てながら女の子に近付いた。数メートルというところで、もたげていた頭が起きる。


 僕は回り込み、覗き込んだ。そして声をかけるまでもなく、理由を知る。


 にゃ。


 少女の足に寄り添っていた黒猫が、僕の姿を認め、緑色の目を光らせながら細く鳴いた。


「ええと……どうしたの」


 猫と戯れていただけだったという可能性が非常に高くなってくるが、念のためにそう言ってみると、女の子はゆっくりと顔を上げた。


 まん丸な目をした、小柄な少女だった。彼女は僕を上から下まで見た後、ふいと視線を手元に落とす。そして右側に伏せている猫を、するすると撫でた。

 猫は気持ちよさそうに眼を細める。艶やかな黒い毛が街灯の光を反射し、まるでビロードのように煌めいた。


 返事が無く立ち尽くす僕の目の前で、女の子はゆっくりと猫を撫で続けた。ご満悦の猫がごろんとひっくり返ってお腹を見せたところで、彼女はようやくぽつりと呟いた。


「この子、耳が欠けてるの」


 言われたとおり、よく見てみると、黒猫の右の耳の先が無かった。まるで陶器が欠けたかのように、そこだけが窪み地肌の色が見えている。傷ではないので痛々しさは無いものの、事情を知らない人間からすると心配になるのは仕方ないものだ。


「ああ……確か、避妊手術をした印じゃないかな」

「そうなんだ」

「捕まえて病院で手術して、こうやって避妊済みの印をつけてまた放すらしいよ」


 女の子の手が、恐る恐るといった様子で猫の下腹部に伸びる。手術の痕でも見つけたのか、彼女は小さく首を横に振って、俯いた。


「……飼ってあげればいいのに」

「まあ、難しい事情が色々あるんだろうね。人間のエリアで暮らす限りは」


 大人の事情を子供に説明するときは、気を遣ってしまう。僕自身はしないよりはした方がいいとは思っているのだけど、とくに動物絡みだと感情的になる子も多いし、この状況では適当に濁すことしかできなかった。


「耳を切るだけ切って、外に放り出して、あとは勝手に生きろ、なんて。自分勝手すぎるよ」


 僕が返事できずにいると、女の子はやがてゆっくりと顔を上げ、おかっぱの髪をかきあげた。硬直する僕の眼下に、彼女の右耳が現れる。


「――!!」


 瞬間、僕は絶句する。

 スーパーの買い物袋を取り落としそうになり、がさがさと音がした。猫が欠けた耳をぴんと立てる。


「あたしも同じこと、されたから」


 薄暮の中でもそれは鮮やかな色彩を伴って、はっきりと僕の目に写った。

 その耳朶は血で赤く染まって、そして下部がぱっくりと裂けていた。血は止まっているが、赤黒く固まったそれがどれだけのダメージだったかを如実に物語っている。

 見ているだけで苦痛を味わうことができるような痛々しい傷だった。見れば、青いワンピースの襟も血で赤黒くなっている。

 

「もう帰ってこなくていい、って」


 髪を下ろした少女は、再び下を向く。そして猫を再びなで回す。

 僕は居ても立ってもいられなくなった。


 寒さで早く家に帰りたかったことなどすっかり忘れ、僕は彼女に手を差し伸べた。

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