婚約破棄の件は承知しました。ところで、一つよろしいでしょうか

変態ドラゴン

婚約破棄

「ナスターシャ、お前との婚約を破棄する!」


 フェアフィールド伯爵家の令嬢ナスターシャは、憂鬱なため息を人目も憚らずに紅のルージュを塗った唇から漏らした。

 豊穣の土地として縁起の良い貴色の栗と繁栄の緑に彩られた目を細める。


 彼女の視線の先にいるのは、婚約者のいる身でありながら異性を侍らすオーギュスト王太子殿下。

 ナスターシャの婚約者として王命が下ったのは三年前である。


 家同士の利害が一致した末に結ばれた契約だ。

 当事者の感情など考慮されるはずもなく、放蕩癖のある男を将来の配偶者に据えられたナスターシャの三年間の苦労など誰もが気にしなかった。

 それどころか、サロンでナスターシャへの誹謗中傷で盛り上がる始末。その場に本人がいようとお構いなしの横暴ぶりであり、その主導はオーギュスト本人であるから、ナスターシャにはどうしようもなかった。

 女としての魅力に欠けている、次期王妃に相応しくない、あんな女はさっさと修道女にでもなればよいものを、いや愛妾としてならばあの豊満な身体は楽しめそうだ、正妻には据えたくない。


 三年間、ナスターシャは屈辱に耐えてきた。

 耐える以外の選択肢がなかった。


 貴族にとって生まれた家と親から与えられた身分は絶対だ。

 令嬢は少しでも良い条件で嫁いで当主に恩を返すのが当たり前。グレニアの歴史ある法律によって明記されている義務の一つだ。


 その法律は、貴族の当主たちの談合によって決められる。

 家の為、国の為、より良き社会のために、そして“円滑に”統治を進める為の権力集約と後ろ盾が込められている。


「殿下の放蕩癖は最後まで直りませんでしたわね」


 扇の下で愚痴るナスターシャの言葉は、会場での嘲笑に掻き消える。

 その瞳の奥に潜めた憎悪の炎を、その場にいる誰も見抜く事はできなかった。


 フェアフィールド伯爵家は、百年に渡って辺境の地を守護してきた名家の一つである。

 常に王家への忠誠と防衛の維持を高水準で内外へ示す為、苛烈なまでの軍事行動が何年にも渡って行われてきた。

 ナスターシャの婚姻相手に王家の問題児が充てがわれたのも、積み重なった防衛費を王家から貰い受けつつ忠誠を示し、増長する他の貴族に対して牽制する為だ。


 王家には逆らうな。

 何を言われても笑って受け流せ。

 頭の栄養を胸に取られた女は、そうやって夫を立てるものだ。


 ナスターシャは愚直に家命に従った。

 初恋の思い人が姉と婚約し、不倫する様を見せられても、『お前は望まれて生まれた優秀な姉と違って火遊びのついでにできてしまった子だ。その身体で王太子の慈悲でも乞うて来い』と笑いながら伯爵夫人に伝えられても。

 陰で侍女たちが己を嘲っていると笑っていても。


 ナスターシャはひたすら待ち続けた。

 いつかこの苦難と屈辱が終わると信じて、じっと苦難を耐え忍んできた。

 そして、それはついに報われた。

 思いもがけない形で、これ以上にないほどの素晴らしいタイミング。

 あまりの幸運にナスターシャは震えた。


「正当な事由なくして婚約破棄は叶いませんわ。その暴挙に至った経緯をお聞きしても?」


 緩みそうになる口角をギュッと引き締め、念の為に扇で隠し続ける。

 きっと周りからは屈辱に耐え忍び、今後に不安を覚えながらも気丈に振る舞う令嬢のように見えている事だろう。その方が後々の噂話のタネになると貴族たちが好奇の視線を向けている事を、ナスターシャはよく知っていた。


「俺の妻となる女は常に流行に敏感でなくてはならない。サロンを牽引するのは王妃の役目だ。時代遅れの首まで詰めたドレスなど、恥を晒しているも同然!」


 ナスターシャは笑みを崩さない。

 いや、むしろわざと引き攣った笑みを聴衆に見せた。


「オーギュスト殿下、お言葉ですが肌を晒すなと命を下したのはあなたの父親であらせられる国王陛下ならびに王妃殿下でございます。ドレスの流行は王家が主導するから、王妃教育の事だけに注力せよとの仰せでした」

「お前は口を開けば父上と母上の話ばかり! 権力者に媚びを売りたがるなど浅ましい!」


 早い話が、王太子妃にカリスマ性があると扱いに面倒だから日陰の雑草のように大人しくしておけという牽制だ。

 その牽制を息子たるオーギュスト本人が拒否感を示している通り、国王と王子には政治に対する温度感が違う。それも致命的なほどに。


 己の振る舞いを棚に上げ、傍らに侍る令嬢の腰を抱く。


「それにお前の悪行は部下たちから報告を受けている! 我が王家に忠誠を誓い、何年も俺を支えてくれた幼馴染を不当に虐げていたな!」


 耳障りなオーギュストの声が会場に響く。

 どうしてこの男の声はここまで人を不愉快にさせるのだろうとナスターシャは不思議に思うほどであった。


「オーギュスト様……!」


 嫋やかにオーギュストの胸元にしなだれかかる令嬢の顔には見覚えがある。

 彼の幼馴染を自称する黒髪の元平民だ。

 類い稀な魔力を持つからと後継に恵まれなかった子爵の養女となり、年頃となった殿下に“食われた”。それからはまるで始めから貴族であったかのように振る舞い、ちょくちょく殿下と人目も憚らずに親しく会話する様子を周囲に見せつけていた。


 婚約した当日に嫌味を飛ばしてきたから、ナスターシャはよく覚えていた。

 初対面での印象は、狡猾な女狐。

 目的の為なら、どんな悪どい事も労力も躊躇わない。

 貴族に夢を抱いて成り上がる平民の間ではよくある野心の持ち主だ。


 嫌がらせなどした事もないが、証拠のでっち上げなど社交界ではよくある事だ。

 疑わしきは壊れるまで叩け、壊れたらそれに落ち度があったという事。それが貴族の暗黙の了解。

 その結果や被害を受けた相手の気持ちなど考えもしない。


「我が妻に相応しいのは、時代遅れなお前ではなく、俺の愛するリリアンだ!」

「オーギュストさま……!」


 目の前で繰り広げられる婚約破棄と壮大なラブロマンスにナスターシャは思わず笑みを深めた。

 もうそろそろタネ明かしをしてもいいだろう。

 紅の唇を開いて、静かに問いかけた。


「婚約破棄の件は承知しました。ところで、一つよろしいでしょうか?」

「お前の味方などこの場にはいない。諦めて罪を認めるなら、令嬢の身分を剥奪するだけで許してやる」


 王妃教育の一環として何度も鞭で教え込まれたカーテシーと呼ばれる淑女の礼を一つ。

 ちょこんとドレスを摘んで恭しく頭を下げて、もう一度だけ頼み込む。


「グレニア国の偉大なる王家のオーギュスト様、最後にこの場にいる皆さまにお伝えしたい事があるのです。発言の許可をいただきたく」

「ふん、この場において無実を訴えるつもりか。既に証人と証拠は揃えてある。この期に及んでどのような言い訳をしても無駄だが、最後に弁明する機会は与えてやろう」

「殿下の慈悲に感謝申し上げます」


 ────本当に、あなたが愚かで良かった。


 喉元まで飛び出しかけた言葉をぐっと堪え、代わりにナスターシャは満面の笑みで、タネを明かす。


「半年前、フェアフィールド伯爵家の血を引く法律上“正当な”者は蜂起した傭兵団により私的な処刑に遭いました。よってグレニア国の定める貴族法に則り、フェアフィールド伯爵家は断絶いたしました事をここに宣言いたします」


 それまでクスクスと笑っていた貴族たちが、顔を青褪めさせてシンと静まり返った。


 辺境を守護する貴族の断絶が何を意味するかは、政治に関心がある者ならば否が応でも理解してしまう。

 国防の要が崩れる事は、国境が曖昧になる事を意味し、さらには国の崩壊を招きかねない。


 理解が追いつかないオーギュストは、水を打ったように静まり返った空気の異変を感じ取り、額から顎にかけて冷や汗を垂らした。

 グレニアの歴史を紐解いても、伯爵の位を王から賜った一族が断絶した事はありえなかった。拮抗した名家の緩やかな対立を王家が取り持つ事で栄えてきた国であるからこそ、辺境の要であったフェアフィールド家の断絶は『起きてはならない事態』であるのだ。


 衝撃が落ち着く間も与えず、ナスターシャはぷちぷちとドレスの釦を外す。


 貞淑を求められる貴族の娘にあるまじき蛮行を咎めようと口を開いた夫人や当主が固まる。


 ナスターシャの細く白い首には、いくつもの歯型が刻まれていた。

 治りかけのものもあれば、最近になって付けられた血の滲むものもある。


 次にスカートの裾を捲れば、太腿の内側という皮膚の薄いところには、薄暗いシャンデリアの光が届かずとも存在を主張する夥しい数の鬱血痕。

 それが示す醜いまでの男の独占欲の証を見て、貞淑であれと教えられてきた箱入り娘の令嬢が悲鳴を上げる。


「オーギュスト殿下、ご覧の通り私の体はもはや純潔ではありません。半年前の傭兵団蜂起の際、その指揮を執っていたお方によって“女にしていただいたのです”」


 オーギュストの赤から青に変わりゆく顔色を見て、ざまあみろとナスターシャはほくそ笑む。

 この男は、釣った魚に餌はやらないが、逃げようとすれば烈火の如く怒る。曰く、男のプライドがうんたらかんたら。

 ようはフラれたという事実に己の男としての素質を疑われたくないのだ。

 特に遊びで捨てた令嬢が自分よりも劣っていると確信していた男と幸せな結婚をしたと聞いた時の狂乱っぷりは凄まじいものだった。


 捨てた婚約者がとっくに他の男の物になっていたと知った彼がどんな胸中であるかは考えるまでもなく。

 こういう事件を寝取りといい、脳が破壊されると独特の表現を令息たちがしていたとメイドが歓談していた事をナスターシャは思い出す。


 言葉を失い、絶句するオーギュストの顔は、これまでの誹謗中傷と暴言を差し引いて許しを与えても良いぐらいにはナスターシャの溜飲を下げた。

 それが幸か不幸かはオーギュストの知る由もない。


「な、あ、そ、な……は? なんだ? 何が起こって?」


 もはや意味のある言葉を発せなくなったオーギュストの顔を、ナスターシャは冷ややかな目で見る。

 もう愛想を振り撒く意味も、従順に従う理由もなかった。


「その顔を見られて満足しました。イグニス様、もう好きにしていいですよ」

「分かった」


 ナスターシャの言葉に応えた聞き覚えのない声にオーギュストが目を見開く。


「ぐあっ!」


 オーギュストの背中に突き立てられたのは、辺境の地で幾度も国防の為にと振るわれた傭兵の剣。

 この日のために仕立てられたであろう王太子の白ベストは、染み出した血を鮮やかに彩った。


 貴族にとって護衛や使用人とは人の形をした道具に過ぎない。

 人間である事を忘れ、興味を抱かない事が多い。

 女に脳のリソースをほとんど奪われているオーギュストにとって、護衛の騎士は令嬢の視線を奪う敵であれどその顔にまで注意を向ける事はない。

 ましてや顔を隠す兜が視認性を著しく下げている。


 傭兵が騎士に扮すると聞いた時、ナスターシャは上手く行くはずもないと呆れていた。しかし、目の前で上手く物事が転がってしまった現実に目眩すら覚えている。


「な、何が……っ!」


 それが、オーギュスト殿下の最期の言葉だった。

 剣を捻った拍子にごぼりと口から血を噴き出し、床に倒れて茶会のために誂えられたカーペットを汚していく。

 護衛の入れ替わりにも気が付かなかった王子は、その短い生を終えた。


 一国の王太子を殺した騎士、それに扮した傭兵は兜を脱ぎ捨てる。

 鉄の兜がカーペットの上で跳ね、床のタイルを転がる音がホールに響く。

 貴族の一人が、王太子を死に至らしめた傭兵を指差して声高に叫んだ。


「ヒッ、あれはダークエルフじゃないか! 謀反だ! 国賊だ!」


 灰のように燻んだ肌、今かと燃え盛る時を待ち侘びる溶岩のような瞳と長く尖った耳。

 騎士が振るう肉厚な刃が特徴のグレートソードでさえ軽々と肩に担ぐ姿は「常勝不敗にしていかなる不利すら覆す」と吟遊詩人が奏でるのも納得するほどの威圧感がある。


 続々と騎士に扮していた傭兵が兜を脱ぎ、剣を鞘から抜いて青褪めた貴族たちに向けた。

 王太子の暗殺から立ち直った貴族たちが、我先に逃げようと怒鳴り散らしては身分をひけらかしていた。


 怒号と悲鳴が会場に響く。

 扉に向かおうとする貴族たちは、たたらを踏んで立ち止まる。

 外に通じる唯一の扉には、怒りの形相に満ちた義勇兵たちの姿があった。

 獣人、亜人、魔人……グレニア国内で地位が低く、正当な働きをしたとしても黙殺されてきた者たちだ。

 その中には、祖先や出身地を理由に冷遇されてきた人間もいる。


 数の差を前にして、己の血の貴さを叫んでいた貴族たちが口を噤んだ。

 それまでは、身分を笠に着て彼らの意見に耳を傾けることすらしなかった貴族が、己の命を守る為に初めて沈黙を選んだのだ。


「ダークエルフ、お前らは俺らをそう呼ぶが、それは間違いだ。先祖から名乗ってきた誇り高い族称がある。克灰塵アッシュワンだ。訂正しろ」


 イグニスを筆頭としたアッシュワンは、魔族の一種として、人間至上主義を掲げるグレニア国で迫害を受けている。

 その外観からダークエルフという蔑称で呼ばれているが、フェアフィールド伯爵家にとって被差別種族で構成された傭兵団ほど使いやすい駒はなかった。

 国民でなく、王から預かった兵でもない。人間よりも総じて魔力が多く魔法の知識を持ち、放っておけば増える消耗品として、長く使い潰してきた。


 流浪の民である彼らの目の前に金を、時には住居と土地を、要求以上の働きをすれば国民としての待遇を考えても良いと餌をちらつかせた。

 そうして無茶な作戦を強行させ、いざ不満が溜まれば、金と仕事に困っている平民や罪人の女たちを甘言を用いて“接待”させて手綱を握ってきた。


 フェアフィールド伯爵家の崩落が時間の問題であるとナスターシャが気づいてしまったのは、伯爵家と前線兵との温度差を慰問の際に目の当たりにした時だった。


 特に正規兵と傭兵の軋轢は凄まじく、身分差だけが暴動を押さえる要となっていた。

 総合的な数と経験でいえば、傭兵団に軍配が上がる事に誰もが思ってすらいなかったのだ。


 傭兵団は極めて紳士的に交渉を進めていた。

 正規軍には及ばずとも、危険と損失に見合うだけの正当な支払いの要求と地位の向上。つまりはそれなりの地位のある女を妻にしたいという、ありふれた要求だ。

 それをフェアフィールド伯爵家の当主は拒んだ。

『人よりも下等な生き物の分際で貴族に要求を突きつけるとは何事だ!』

 その一言が、彼らの逆鱗に触れたとも知らずに。


 アッシュワンの寿命は、人間よりも長い。

 宗教と伝統から輪廻転生を信じ、その記憶を受け継いで生まれる彼らにとって、フェアフィールド伯爵家の当主がその場でぶら下げた餌は子々孫々ならびに己の今後の為に必要なものだと思っていたからこそ、一時の不遇に耐え忍んできた。

 その報酬の支払いだけでなく、度重なる約束の反故は、燻っていたグレニア国への反感と共鳴してかつてない大規模な暴動を引き起こした。

 防衛のための増税、軍を維持するための徴兵制度、さらには軍の不祥事と火種は瞬く間に燃え上がった。


 フェアフィールド伯爵家の当主を交渉の場で斬り殺したイグニスは、その圧倒的なカリスマと実力で種族の垣根を越えて支持を獲得したのだ。


「さて、ようやく静かになったな。ところで、スターシャ、この女はどうする?」

「リリアンの魔力は厄介です。イグニス様の今後の為にも殺しておいた方がよいかと」

「おう」


 リリアンが悲鳴をあげながらその細い指先を剣に向けるより早く、イグニスの拳が令嬢の顔に叩き込まれた。

 白兵戦において、距離の優位性を失った魔術師が勝利するのはまず難しい。

 魔力を練り上げ、術式を構築して対象を指定する魔法はどうしても時間が掛かる。


 ナスターシャは執拗に顔面を殴打されるリリアンの姿を見ながら、暴動が蜂起した時の事を思い出していた。


 それまで権威を振り翳していた父が剣の前に無力に倒れ、威張り散らしていた軍の騎士や兵士たちが為す術もなく守るべき主を見捨てて屋敷から逃げていく様を見た。

 次期当主たる姉の夫はたまたま外交で不在だったが、屋敷で不倫に勤しんでいた姉は暴動から逃れる事はできず、一時間に渡る命乞いの末に首を縄で括られた。

 屋敷のメイド、侍従たちもが標的となる中で、ナスターシャだけは誰からも剣を向けられなかった。


 不遇の扱いを受ける婚約者、オーギュストの蛮行に心を痛めながらも正規軍と傭兵団の区別なく慰問を行っていた、心優しき哀れな姫君ナスターシャ。

 奇しくも伯爵家での扱いの悪さが、ナスターシャの命を守り、それが貴族としての後ろ盾を失ったナスターシャに暴徒たちから与えられた新しい役割だった。


 特に暴動を指揮したイグニスのナスターシャに対する心酔ぶりは常軌を逸するどころか、もはや狂気の域にまで突入していた。

 ナスターシャをスターシャと呼び、まるで恋人かのように振る舞う男は、傭兵団と暴徒を纏め上げる手腕を持つ。民衆は、ナスターシャとイグニスが結びつく事を強く切望していた。それが、新しい時代と統治を齎すと疑わない。

 それを知ってナスターシャは、全てを利用する事を思いついた。

 忌み嫌われた女としての己を使い、復讐を企てた。


 グレニアとフェアフィールド伯爵家の破滅。

 それこそが、ナスターシャが幼い頃から胸に抱いてきた願いだった。その果てに自身の破滅がある事を承知で。


 ところが、どうだろうか。

 目の前で刃向かった貴族や残っていた護衛たちの返り血を浴びたイグニスは、弾けるような笑顔でたまたま近くにいて反撃を狙っていた貴族を斬り捨てながら、意気揚々とナスターシャに近づく。


「スターシャ、婚約者気取りの王子を殺したぞ。これで俺たちの恋路を阻むものはないな」


 部下の傭兵に貴族の首を渡し、血塗れの手でポケットを漁って小箱を取り出す。

 舞踏会のホールに響く命乞いと断末魔を背景曲としながら、惨憺たる有り様と化した茶会で求婚されるのは、きっとこれから滅びゆく長い歴史を誇ってきたグレニアでも私ぐらいのものでしょう、とナスターシャは諦めの境地で眺める。


 夢や愛情に溢れる家庭を憧れた事はあった。

 燃え盛るような恋や熱烈に愛を乞われるという体験も。

 あらゆる全てが叶いつつあるというのに、ナスターシャはひたすらに困惑する。

 思い描いていたものと明らかに違う。

 だが、たしかに欲しかったものではあるのだ。


「スターシャ、結婚しよう。俺たちで真の平等で自由な国を作っていこう。俺たちならできる」


 イグニスの狂気的な色を孕んだ瞳は、片膝を突いている姿勢で求婚の返事を待っているが、その鋭い視線は肯定以外の返事を許さない。


 きっと彼にとって、会場を逃げ惑う貴族への怨恨はあれど、ナスターシャに向ける執着よりも優先度が低いのだろう。

 でなければ、凄惨な景色と化した舞踏会の場で、捕らえた貴族や獲った首の身元をすぐにでも確認していたはずだ。


 ナスターシャにはイグニスが理解できない。

 何が彼を己に執着させ、ここまでの狂気を育ませたのか。

 だが、ナスターシャには些事である。

 伯爵家が断絶したその瞬間、ナスターシャはイグニスに取引を持ちかけた。


『この身だけを望むなら、今すぐにでもドレスを剥いで欲のままに振る舞えば良いでしょう。ですが、この心をも望むのであれば、グレニアの王太子オーギュストの死を求めます。国の終焉こそが私の求める事なのです』


 その条件を聞いたイグニスの浮かべた笑みは、王妃教育で鍛えられたナスターシャの心を激しく揺さぶるほどに獰猛であった。


「……イグニス様、私はあの日から貴族の娘ではなくなりました。以前にもお話しした通り、正当なフェアフィールド伯爵家の血筋を引いた者でもないのです。これから国を滅ぼし、相応しい身分を得る貴方にとって、この身はきっと何の役にも立たないでしょう」


 会場を制圧した傭兵や義勇兵が「ナスターシャ」と叫ぶ。

 今のナスターシャは彼らの望む清廉潔白で不遇な身でありながらも国民を憂う姫君の姿だ。


「構わない」


 たった一言。

 ナスターシャの謙遜を鋭く切り捨てた。


「貴族としての身分など、始めからどうでもいい。俺が求めているのは、スターシャ、君だ。君が欲しい。君の全てを今度こそ手に入れたい」


 緩やかな衰退を辿るだけだったフェアフィールド伯爵家に引導を渡したイグニスという男が、その程度の言葉で大人しく諦めて引き下がるはずかないという事をナスターシャは知っている。

 暴動が起きた時から、彼女の運命は決まっていた。


 復讐を難なく成功させられたのも、イグニスの力があってこそだと、ナスターシャは知っている。

 そして、手に入れる為には、その手法が最も確実だとイグニスが考えたからこそ、ナスターシャは生きる目標を完遂させた。


 次世代を担うべきだった後継を失った貴族たちは、これから舞い込んできた後継者になる為のチャンスを物にしようと画策を巡らせるだろう。

 それがグレニアという国の終焉を早めるとも知らずに。


 イグニスの冷酷さを間近で見たナスターシャは思う。

 ここで拒めば、文字通り彼は私を殺して永遠に所有しようとするだろう、と。


「こんな私でよければ、イグニス様を支えさせてくださいませ」


 通常、婚約指輪は右手の薬指に嵌める。結婚式の際に左手に結婚指輪を嵌めるのだ。

 ナスターシャが右手でなく左手を差し出したのは、そうした方が“見栄え”がいいから。あくまでパフォーマンスの一環である。

 躊躇なく左の薬指に指輪を嵌めたイグニスは、うっとりとした顔で見上げる。


「共に歩もう、スターシャ。例え肉体が朽ち果てて、記憶が無くなろうとも、俺たちは二人で一つだ。また君と巡り会えた事を神々に感謝する」


 拍手喝采の中、目の前に立つナスターシャの耳にだけは、彼の続けた言葉が届く。


「国一つを滅ぼすだけで君が手に入るなんて、まるで夢のようだ。もし離れ離れになる事態が訪れたら、その時は輪廻に身を委ねよう」


 世の中には知らない方が良い事もある。

 きっと彼の発言の真意もその類だろうと己に言い聞かせるしか、心の平穏を保つ方法を知らなかった。

 流れ落ちる冷や汗を無視して、ナスターシャはイグニスの大きくて剣タコのある手に指を絡めながら苦笑いとも愛想笑いとも言い切れない、曖昧な微笑みを浮かべた。


「イグニス様、共にグレニア国を滅ぼしましょう。この国は、余りにも長く続き過ぎました」

「それがスターシャの望みなら、全力でそれを叶えよう。だから……」

「ええ、この国が滅んだ後は全てをあなたに捧げます」


 目を細めてはにかみ笑うイグニスの顔にナスターシャはこそばゆいものを胸の奥に覚える。

 首の歯型や鬱血痕はイグニスが付けたものであるが、その時の彼の興奮ぶりと長時間に渡る葛藤は、ナスターシャに向ける感情の深さと執着の恐ろしさを如実に語っていた。

 それが愛なのかナスターシャには分からない。

 それでも、その狂気を受け入れる事に不思議と抵抗はなかった。きっと地獄を終わらせてくれたのは、紛れもなく彼の執着があったからこそだ。


 返り血を浴び、婚約を交わした夫妻は会場を制圧した傭兵や義勇兵に手を挙げて応える。

 それこそが、グレニアの終焉の始まりだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

婚約破棄の件は承知しました。ところで、一つよろしいでしょうか 変態ドラゴン @stomachache

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ