夢葬

朝羽岬

夢葬

 今、巷でちょっとした話題になっている本がある。ワイドショーで取り沙汰されたその本は、ファーストフード店に立ち寄っても、電車に乗っていても、道で歩いていたって、どこか1組は話題にしている有り様で。


 そんな世間の様子をあなたは、小馬鹿にしていたのではなかったの?


 くだらないと言ったその口で、評価を一転させてしまったあなたの話。日常会話が途切れた時に、あなたが挟んだ非日常な会話。


 たしか、あなたが手を軽く握るようにして語ったのは、こんな話。





 滑車がレールの繋ぎ目を踏む度、軋んだ音を立てる。段差を越える度、あなたの首を前後左右に小さく揺らす。気忙しく繰り返されるそれは、不思議と穏やかな眠気をもたらす。とても大きな揺り籠。


 僅かばかり混雑した人の群れ。その雑踏は、心地良くあなたの耳に届く。ラジオより、テレビより、よほど体の良い子守唄。


 まぶたは軽くはない。思考も明確ではない。


 先生の話題。上司の話題。友達の話題。親の話題。子供の話題。ドラマの話題。本の話題……読んだことはなくても、あなたは内容を聞きかじって知っていた。世間を騒がせているそれに、冷ややかな視線をくれていたこともあった。


 いよいよ、目を開けていられなくなる。


 話題が本の内容に移行し始めたところで、あなたは『まどろみ』という睡魔に捕らわれた。





 顔から水面に上がるように、あなたの意識は急浮上する。首の後ろに、だるさと僅かな痛みを覚えながら、現と幻の境をしばらく漂う。


 しかし、車内に流れたアナウンスで、一気に覚醒した。あなたは慌てて立ち上がり、人をかき分け、開いたドアの合い間から外へと飛び出す。


 あなたの足は、濃い灰色のコンクリートの上に着地したはずだった。


 あなたの背後で、両開きのドアが空気の抜けるような音と共に閉まる気配がしたはずだった。


 それでは、この白はいったい何だというのだろう。


 あなたの視界に入るところ、向ける向き、その全てが白い。壁と天井と床を区分けする境が、何も無い。あなたの足元には、影も無い。赤道直下では見られる現象だが、あなたの頭の真上に光源らしきものなど見当たらない。


 平面的に見えるそこで、恐る恐る1歩を踏み出そうとする。難なく足が、あなたの体よりも前に下りた。とりあえず、奥行きはあるらしかった。


 明る過ぎる世界で、あなたは暗闇の中を彷徨うかのように、手で周辺を探らせて障害物の有無を確認しながら、ゆっくりと歩き出そうとした。


 その時、あなたの片手に、何かが握られていることに気が付いた。恐る恐る開くと、小さな鍵が一つ。仕方なく、あなたはそれを握り直し、片手で辺りを探らせながら、足を引き摺るようにして、半歩にも満たない歩幅で進む。


 疲れは無い。ただ、長い間歩いたという認識のみが、あなたの頭の中に生まれる。


 まばゆい光が、遥かに高いところを流れていったのは、その時だった。


 足を止めると、また一つ。見上げて、また一つ。


 真白い世界よりまだ明るいそれは、鳥のようにあなたには見えた。目で鳥を追っていくと、先までは白かった世界に闇が生じている。たとえ暗くとも、何かが現れたことに変わりはない。


 あなたが考えようとせずとも、足は自然と暗がりの中へと向いていた。


 白から黒へのグラデーション。鳥のように見えていた光は、暗がりの中では流れ星に姿を変える。


 星は遠くを落ちていったかと思うと、あなたの肩を掠めていく。まとう淡い光が指の間を抜けても、体感温度は変化しない。ただ、頭の中に蘇る何かがあった。暗闇に重なって見えるそれは、瞬く間に消えていき、あなたは正体を掴むことができない。


 まどろっこしい感覚を、数度繰り返す。それでも尚、歩は緩まない。こんな闇の中では、鍵穴など見付かるはずもなかったので。


 遥か彼方まで続くかと思われたその前方の両側に、壁がそびえ立っていることに気が付いたのは、どれくらい近付いてからだったろう。更に近付き、あなたはそれが壁ではなく、引き出しが連なっているのだということを知る。あなたが立つより下から、目で見える以上に高い上空まで。何段も何列も、引き出しの群れはあった。


 あなたが何をするでもなく、独りでに一つの引き出した開いた。途端に、一つの景色が浮かび上がる。


 走り回る子供。遊具。校庭。校舎。時間を区切る鐘の音。


 小学校だと認識した瞬間、それは霧散する。


 あなたは、しばらく呆然とたたずんでいたが、やがて歩き出した。爪の先さえ触れなくとも、下から上から次々と引き出しは開き、閉じていく。飛び出す度、あなたは網膜ではないところで様々な人の顔を見た。


 親の顔。親戚の顔。友人の顔。あなた自身の顔。


 うっとうしく思えるほど頻繁に引き出しは開いていたが、奥に進むと徐々に止んでくる。やがて、それは完全に閉まったままのものが並ぶようになった。


 微かな期待を抱いて探したが、それでも鍵穴は見付からなかった。


 あなたの目には、引き出しの代わりに本棚が見えるようになった。様々な色、違う厚みの背表紙が整然と、だが所々では乱雑に並べられている。その中の1冊を取ってみると、中は虫食いだらけで見れたものではない。


 それでもめくっていくと、紙の上に何かが浮かび上がった。目を凝らして見てみると、あなたの家の中の様子が移ろいでいく。途切れ途切れの映像は、あるところを境に見えなくなってしまった。


 あなたは本を戻して、上を仰ぎ見る。今まで見てきたものの正体を掴むことができたような気がした。一つ解せないのは、鍵の存在だけだ。


 あなたが本棚でできた通路を抜けると、広場に出た。迷い込んだ時と同じように、真っ白い世界。その中で静かに、その動作は繰り返されていた。影が落ちては光の玉となり、拡散され消えていく。


 奇妙であり、綺麗である。延々と繰り返される光景に、あなたは近付いた。


 落ちていたのは、先ほど棚に並んでいた本と同じようなものだった。それが地面と思わしいところに落ちた時、淡い光を発する。薄い花びらとなった光は、舞いながらどこかへと溶けて消えていく。


 それは、まさに『昇華』する、ということだった。


 あなたは長い間、その様子をじっと見届けていたが、落ちてくる本の中身が垣間見えた時、思わず手を伸ばしていた。儚く消えてしまって欲しくないものだった。


 しかし、指の先すら届くことなく、それは地に落ち、花びらへと姿を変えてしまった。あなたには失望と、奇妙な期待とをもたらした。


 嫌悪を抱いているもの、醜悪だと思われるもの。本棚まで取りに戻ろうと、あなたが踵を返そうとした時、何かが視界の隅を掠めた。この世界で、さんざん探した鍵穴だった。


 手に持った鍵を差し込むため、あなたは必死で手を伸ばした。





 意識が覚醒する。


 人のざわめき。滑車の音。あなたが見る景色は、目を閉じる前と少し違ってはいるものの、あまり変化の無い世界。そこは、電車の中だった。


 本の話は終わったのか、今は誰もが違う話題で盛り上がっている。


 軽いだるさと、首の筋の痛みを感じる。あなたは軽く伸びをして、軽く握ったままの手を見下ろした。


 握っていた鍵の重さが、そこにはまだ残されている。





 軽く握られた、あなたの手。その傍らで、本の帯と同じ文句が踊る。


『不可思議な世界で起こる、記憶の葬儀』


 否、見回せば街中のあちらこちらに溢れている。


『あなたの一番良い思い出と、一番辛い思い出は、どこかに封印されている』


 あなたは、その手に残る感触を、いつまで覚えているだろう。

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夢葬 朝羽岬 @toratoraneko

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