第五夜:汝、風のごとく。

第一幕 着流しの彼

 蝉が鳴き狂う歩道を抜けて階段を登り、更地に足を踏み入れる。

 どこか砂っぽい風が蓮夜の髪を揺らして去れば、わずかに木々の青い匂いが鼻に残った。


 一昨日、この場所でガシャを退治した時の禍々しい雰囲気はもうどこにもない。あるのは夏特融の差し込むような暑さだけだった。

 蓮夜は抱えるようにして持ってきた花束を、もう一度抱えなおす。更地を一直線に突っ切って、正面の大きな木の根元にある慰霊碑の前まで歩けば、そこは木々が覆い茂っているおかげで日陰になり、少しばかりヒンヤリとしていた。

 ガシャと一戦交えている時こそ気がつかなかったが、この更地には慰霊碑というものが一応存在はしている。だが、と言ってしまってもおかしくない程度に廃れてしまっていた。

「……本当は、もっと早くこうしておくべきだったんだよね、人間は」

 戦没者の共同墓地だったと、あの日出会った彼――サネミは言っていた。理不尽な命の取り合いで、何億という人が望まない死を選ばされた時代があった。それを忘れて、現代の人々はのうのうと生きている。この慰霊碑が忘れ去られたことこそが悪くもその証拠だと蓮夜は唇を嚙みしめた。

 抱えていた花束を、慰霊碑の前にそっと下ろす。花の種類なんか蓮夜にはわからないから、花屋さんにお願いしてお墓に供えてもおかしくない花束を作ってもらった。これで、少しでも亡き人々の魂が穏やかになればいいと、しゃがみ込んでそっと手を合わせて目を閉じる。

 そよそよと吹く風が、木々を揺らして音を立てた。

 ふと、すぐ隣に気配を感じて目を開ける。

 下げた視界の隅に、見覚えのある軍靴が写り込んだ。

「やぁ、また会いましたな」

「サネミ!」

 軍靴をなぞるようにして視線を上げれば、優しそうなサネミの顔が見えた。一昨日と何一つ変わらない軍服に軍帽、腰には日本刀のようなものまで携えている。

 サネミは蓮夜のすぐ隣にしゃがむと、今しがた蓮夜が供え置いた花束を眺めた。

「わざわざ買ってきてくれたのですか」

 優しい人ですな、と微笑みつつ言う。

「本当はもう少し豪華なのを買いたかったんだけど……お金の上限で作ってもらったらこれが限界だったんだ」

 面目ないという風に頭を下げれば、サネミはゆるゆると首を左右に振った。

「こういうのは蓮夜、気持ちの問題ですからな。花を供えてくれたという事実だけでも十分彼らは喜んでくれますよ」

「そうかな、そうだといいな……」

「はい」

 そのまま暫く慰霊碑の前でじっと花束を見ていたが、やがて遠くから正午を告げる防災無線が流れて来た。叶叶市の防災無線は正午と午後五時に童謡を流すようになっている。

「もうお昼かぁ」

 立ち上がって言えば、サネミもつられるようにして立ち上がった。

「して、今日はもうお帰りですかな?」

「ううん、今日はまだこの後行くところがあって」

 買い物を頼まれているんだと言いながら、ポケットの中に忍ばせておいたメモ書きを広げて見せる。満春が背中の痣の件で泊まりに来ているもんだから、珍しく祖母が張り切っているのだ。女の子というのはやはり可愛いらしい。色々なものを食べさせてあげようと食材のお使いを頼まれて何気なく外に出たが、花束を買う際に何気なしにメモを開いて仰天した。普段買い物をする何倍もの量が書かれていたからだ。

 そしてそれは幽霊であるサネミから見てもかなりの量に映ったらしい。少し屈んでメモを見つめる目をぱちくりと瞬かせた。

「お客さんが来ててね、それもあって量がいつもの何倍もあるんだ」

「ふむ……これはこれは。持ち帰るにしても、中々に骨が折れそうですな」

「だよね、僕もそう思う」

「今日、ロクロウは?」

「留守番させてる。連れまわすといちいち五月蠅いんだ」

「左様でしたか。ふーむ……激戦地だった南方ですら、やぶだしの際は二人一組だったと言いますからなぁ」

 顎に手を当てながら言うサネミの言葉には、正直はてなマークを浮かべてしまったが、要するに「大変そう」だと言いたいのだろう。そう勝手に解釈しておく。

「女の子だし、そんなにたくさん食べないと思うんだけど……でもばあちゃんからしたら女の子の孫が出来たみたいで、多分可愛いんだと思うんだ」

 僕の同級生なんだけどね、と注釈を入れると、ほぅとサネミが相槌を打つ。

「可愛いものを愛でてしまうのは、人の性ですからな」

「そういうもの?」

「そういうものです」

 嬉しそうに頷くサネミを見つつ小首を傾げれば、何か閃いたというように彼が「では」と声をあげた。

「私が買い出しに同伴しましょう。二人で持てば持ち帰れない量でもないようです」

「え⁉ いや悪いよ! タクシーでも拾えば問題ないし」

「遠慮なさらずに。一昨日のお礼の一部だと思っていただけると幸いです」

 お礼の一部という言い方をしたということは、この買い物同伴程度では返しきれないほどの恩を感じているということなのだろうか。蓮夜からすれば、六怪異の一つを討伐するのは避けて通れない道だったからして、必然だったのだ。サネミにそこまで恩を感じられるのはどこかむず痒い。

「うーん」

「ね? 私も気分転換になります」

 そういう言い方をされると弱い。どこか楽しみにしているサネミを横目に、無碍に断るのも何か違うかと思い始める。

「えっと、じゃあ……お願いしようかな」

「はい、喜んで」

「あ、でも、霊体だと荷物持てないよね? それにサネミは移動できるの……?」

 大切な事を失念していた。当たり前のように会話をしていたから意識が向いていなかったが、サネミはれっきとした幽霊なのだ。普通の人には見えないどころか、この世に存在しているものには触れるのも難しいはずだ。となれば、荷物を持つ持たない以前の問題だ。そもそもこの更地から出ることは出来るのだろうか。

 

 だが蓮夜の心配をよそに、サネミはなんてことないように笑って言った。

「それに関しては問題ありませんな。私は浮遊霊ですし、実際この更地に居座っているわけでもありません。幽霊歴が長いですから、質量もある程度調整できるのです」

「え?」

 途端、地面から吹き上がるようにして優しい風が二人の間に生まれた。砂埃が目に入るかと危惧した蓮夜が一瞬だけ目を閉じたその瞬間、何やら気配がなったのを感じた。

 風はすぐに収まる。

 そっと目を開けば、目の前のサネミと目が合った。

「……え」

 そしてその姿に、思わず目を丸くする。

 サネミは姿かたちこそ先ほどと何も変わらないが、その気配は生きている人間とそう違いないほどの濃さだった。

 思わず手を伸ばしてサネミの手に触れてみる。通り抜けるはずの皮膚に、

「驚いた……サネミ、実体化出来るんだ」

「はい、実は。霊気の濃い場所に行ってそれをため込んでおけば、少々ですが実体化することは可能です。場所に縛られない浮遊霊の特権ですな」

「そういえばロクロウが……怨代地蔵から離れるのにも霊気が必要だし、実体化するのにも霊気が必要だって言ってた気がする」

「彼の場合は浮遊霊ではなく、怨代地蔵というものから生まれたという前提がありますからな。地縛霊と同じで、余程の力を使わないと遠くへすら行けなかったはずです」

「わぁ……じゃあロクロウがあんなに僕と契約したがったのは、ある意味自由への執念だ」

「執念ですな」

 ふふっと笑うサネミを見れば、もう本当に生きている人間にしか見えない。ただちょっと軍服のコスプレをした変わり者の人間……そう思えてしまうくらいには完璧にそこに在るのだ。

 なんてことを考えて、ハッとする。

 人の見えるようになったのならば、その服装がまずい。現代は今でこそサブカルチャーの影響でコスプレと言う分野があるが、こんなありふれた日常の昼下がりに、軍服の男が街中を闊歩して不審に思われないかと言われると、答えはノーだ。何かイベントがあるなら話は別だが、あいにくそんなものはない。

「えーと、服装って替えること……出来る?」

 失礼に当たらないようにと、なるべく下手に出て様子を伺うように問いかけてみる。

「おや? この格好はお気に召しませんかな?」

「いや、そうじゃなくて……うーん、TPOというか……」

「てぃーぴーおー?」

「えーっと、時と場所と場合によってそれに合った格好をするというか……」

「横文字は苦手ですが、なんとなく言いたいことはわかりました。要するにこの服装じゃ現代日本だと目立ちすぎる、ということですな」

 うんうんと頷くサネミの物分かりの良さに若干ほっとする。ロクロウに同じような事を言おうものならば絶対に倍になって文句が返ってくる。人柄……いや、霊柄の良さの違いか。

「では軍服はやめておきますかな」

「あ、着替えられる?」

「はい、少々お待ちを」

 幽霊に着替えの概念なんかないような気がするが、出来るというのだから可能なのだろう。サネミは蓮夜から二・三歩距離を取ってから、勢いよくその場で後ろへくるりと宙返りをしてみせた。バク宙なんかできるんだ、と言う感想が出る前に、着地したサネミの格好に「あ、」と声が出た。

 一瞬のうちに、彼の恰好は軍服ではなく青蘭色の着流しになっていた。腰にぶら下げていた刀もなく、軍帽ももちろんない。夏の暑さに浮いていた恰好は一気にこの季節相応のものへと移り変わる。足元の草履が涼しげだ。

「どうでしょう?」

「へぇ! 着流しかぁ」

 正直なところ、洋服で生活する人の方が圧倒的に多い現代では、着流しでも若干目立つ。おまけにサネミはかなり顔が良いから、まるでどこかのモデルを連れて歩いているような雰囲気になってしまいそうだ。

 だがせっかくこちらの意見を汲んでくれたのだから、これ以上我儘を言うのも気が引ける。

「ちょっと目立つけど今夏だし、逆に風情があっていいかもね」

「生前はこういった私服が多かったものですから」

 生前の私服という言葉に、彼が本当に昔を生きていた魂なのだということを再認識する。着流しを私服として着ていた時代はいつ頃だっけ、と頭を回転させてみるも、残念な事に蓮夜の日本史の知識ではこれと言った回答が浮かんでこない。昭和……大正、いいや、明治頃だろうか。

「サネミって、丁髷ちょんまげの侍って見た事ある?」

 と、変な質問をしてしまう。ダイレクトに質問するのもどうかと思い、遠回しに探ってみようかと思って出た言葉がこれだ。恥ずかしくなって、つい顔を伏せる。

 だがそんな蓮夜のことは特に気にしていないようで、「ふむ」とサネミは顎に手を当てるようにして唸った。

「丁髷ですか……私が生きていた時は既に廃刀令が出て侍は廃れていましたし、さすがに生では見た事がありませんな」

「……生では?」

「ええ、死んだあとなら。何人か未だに知った顔もおりますゆえ」

「あー……なるほど」

 仰天発言に、思わずどう返していいか困ってしまう。すぐ失念してしまうが相手は幽霊だ。確かに言われてみれば、蓮夜自身も侍の幽霊を目撃したことは何度かある。となれば、百年以上もこの世を彷徨っているであろう彼らは、幽霊同士で見知った関係になることもあるのかもしれない。

 普段考えもしない事を考えすぎて、ちょっとばかり頭痛がしてくる。

「丁髷に興味があるのですか?」

「え? いやそういう訳じゃないんだけど。サネミの私服がそれだって言ったから、なんとなくどんな時代だったのかなって、気になって」

 それだけ、と言えば、サネミが珍しく黙り込んだ。やはり生前の事には触れられたくないのかもしれないと慌てる蓮夜の頭に、サネミの手が伸びて来る。

 ふわりと、太陽を吸って暑くなった頭を、サネミの手が優しく撫でた。

「そうですなぁ……私が生きていた時代は、今に比べると何もない時代でした。文明開化後の日本は徐々に外の国の文化を取り入れていき、上の階級の人々はこぞって洋服を身に着け始めたものです。どちらかと言えば、庶民が着流しなんかの和服を守って着ていたという印象が強いですな」

「そうなんだ……」

「ええ。それに反して軍服はかっちりした洋式のものでしたから、最初こそ着慣れませんでしたが今となっては。慣れとは恐ろしいもので」

 ゆるゆると小さく首を振って、サネミはどこか困ったように微笑んだ。文明開化後の日本……洋服に移り変わる人々の姿、そして軍服……。サネミが生きていた時代がなんとなく浮かんでくるが、なぜだろう、同時にやるせない気持ちも湧き上がってきた。

 ふと、彼と最初に会った時の言葉を思い出す。


 ――……私も生きている時、自ら戦に赴いていた。しかし病によって戦地から離脱し、戦地で友と死ぬことは出来ませんでした。


 ――私は裏切り者です。


 自らを裏切り者だと言った彼は、戦争に行っていたのだ。歴史を見ても、ひと昔前の日本人は現代の日本人に比べて愛国心が強く、戦って死ぬという事をどこか名誉のあることだと捉えている。それは間違っていないかもしれない。だが、戦地で死ねなかったおのれ、今の今までこうして彷徨っているのがサネミという魂なのだとしたら、いつかは彼も救われて欲しいと思ってしまう。


「似合ってるよ、とっても」

「ふふ、ありがとうございます」

 少しばかりお辞儀をして律儀に礼を述べたサネミの髪を、砂を含んだ風が吹き抜ける。霊体の時には見られない、彼の髪の靡きにその目を止めてしまう。

 綺麗だな、と思った。

 太陽を受けても赤茶にならないほどの黒髪が、白皙の顔に映える。

「さて、炎天下長話もなんですし、そろそろ買い物とやらに行きましょうか」

「うん、そうだね」

 付き合ってくれてありがとう、と笑って言えば、彼もまたどこか嬉しそうに笑った。

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