#15 魔法の解けたサンドラセバス 1
「……やはり、ハイヴェシア姫を何とかしないことには」
独り、呟く。
兄様の脚本の中で、最も不可解で強大な障害。この尊大なお姫様は物語の原点には登場しない。言い換えれば、この芝居の中でもっとも兄様のオリジナリティが込められている部分の筈なのだ。
しかし、王子様が身分のある者である以上、政略結婚の婚約者の存在自体は決して不自然ではない。そのせいか、彼女は王子を縛っていたしがらみや運命を表わした存在のようにも思える。
王子は周囲から決められた婚約者である姫を振り切り、たった一夜出会っただけの名前も知らない女性を望んで城下へと向かう……恋心の賛美。そんな要素も当然含んでいるように思えるが……
ドロシーさんの演じる姫の存在はあまりに大きく、王子がサンドラセバスを選んだという程度では退いてはくれそうにない。勿論、メノウ家の養女という低い立場のサンドラセバスが太刀打ちできる筈もない。姫と対等の力……身分や人脈や魅力を持っていなければ。
もっとも、本来サンドラセバスは貴族の生まれ。せめてそれを証明できれば、低い身分の出であることを揶揄されることもなく、王子周辺の繋がりも堅固なものになる筈なのだけど。
……煙を噴き燃える城を幻視し、私は頭を振ってそれを打ち払った。
[君は余計なことを考える]
それまで黙っていた悪魔が楽しそうに囁く。
[そもそも、どうしてハイヴェシア姫が障害になると考えるんだい? 元の物語には登場しない。劇中ではサンドラセバスと会うことすらない。王子に振られて、それでおしまいの役所じゃないか。当て馬以外の何だと言うんだい?]
「……そんな筈がないでしょ。あなたは角の分だけ動物並みに馬鹿で単純なの?」
兄様と同じ顔の悪魔を冷たい声でなじる。しかし悪魔は平然としたまま。
「兄様が、あのドロシーさんをただの当て馬なんかに使うわけがない」
[君は本当に余計なことを考える。“彼女”を強大な障害としたいのは、どうやら君の方みたいだ。……嫉妬に駆られれば女は疑り深くなるのだね]
「黙んなさい」
[考えなければいいのさ]
名案、とでも言いたげに両手を広げて言う。
[下手にハイヴェシア姫のその先を想像するから、彼女が立ちはだかる。とんでもなく強大に見える。物語は、王子がサンドラセバスを見つけて、そこで終わりだ。それでめでたしめでたしだった]
だから、サンドラセバスの幸せを望むなら、その先は考えてはいけないと、悪魔は言う。
「そんな筈がないでしょう。サンドラセバスは婚約者として王室に招かれれば、必ずハイヴェシア姫と出会うことになる」
[会っただけで、ハイヴェシア姫が彼女を目の敵にするとは限らないよ]
「それこそあり得ない。恋敵よ? 権力を武器に男を射止めようとした高慢で尊大な姫様が、何の権力もない端女同然の娘に負けたのよ? いい気味……じゃなくて……どれだけ大きな湖だって沈みきれないあのプライドは何処に消えたの? そんなしおらしい女? あの人の傲慢は、海だって飲み込めやしないわ」
[もうほとんど悪口になってるよ、リディア]
たしなめるように悪魔が言う。こういう時ばかり、表情は兄様に似ていて、思わずドキっとするも、すぐに胸の奥のもやもやと共に、不愉快なものに変わっていった。
「あなたは随分ハイヴェシア姫の肩を持つのね。……兄様と同じ顔で」
[誤解だよ]……兄様はそんな安っぽい台詞で言い訳しない。[違う見方を奨めてみたくなるだけさ]
「悲劇はあなたの大好物でしょうに」
[僕が本当に好きなのは君さ。リディア]
「え……」
再び、飛び跳ねるように大きく胸が高鳴る。
[悲劇になると分かっていてもハイヴェシア姫のことを考えずにはいられない、そんな君がとてもいとおしい]
「……浅はかね。それこそ誤解している」
首を振り、ため息。どきどきしてしまった自分が腹立たしい。
「悪魔に懐かれる理由なんかない。私は悲劇ではない幸せな結末を探しているのよ」
[あるといいね、そんな結末が]
皮肉めいたさわやかな笑顔で悪魔が言う。その顔が、「見つかりっこない」と言っている気がした。
舞台裏は、徐々に静かな緊張感に包まれつつあった。
異性の役を演じるピぃくんとロキの衣装チェックをドロシーさんが済ませると、いよいよ舞台裏から声が無くなった。
直前までの合わせ稽古での調子がよくないこともあり、雰囲気はいつにも増して重い。しかし主役のアンは片隅で何もない床を見つめたままぎゅっと掌を握り、そんな雰囲気すら気づけずにいるように見えた。
「アン」
声をかけたのはリトラ兄様。皆の視線が自然と二人に集まる。
「サンドラセバスは、君をモデルに書いた。彼女の過去も今も未来も、全てひっくるめて君だ。だから、変に気負う必要はない。普段ままの君でいい」
「は、はい……!」
それは、兄様にとっては緊張をほぐす為の励ましに違いなかったのだろうけど、兄様が脚本について説明を加えること自体珍しいことだから、なんだか逆効果にも思える。この緊張感の中、果たしてアンの耳に届いたのかどうか。
……私は徐々に不安に襲われる。傍らの悪魔がにやにやと笑っている。
すると、ロキが隣のピぃ君の耳に囁くような仕草を作って言う。
「普段のままの君でいいそうだよ」
「普段……って」スカートを持ち上げ困惑するピぃくん。「僕にそれを言ったらおかしいだろ」
誰ともなく、クスクス笑いが起きた。
ピぃくんは今回もまた、綺麗に女装している。喋りさえしなければ……いや、こんな声の女の子がいたっておかしくはないから、初対面ならまず騙しきれる程の完成度である。
「いやいや、いつもながら可憐だよ」
確かに、言っちゃ何だが、お芝居においては普段のままのピぃくんには違いない。私は大いに頷いた。
「ロキに言われたくない。お前だってスカートじゃないか」
それもまたそうなのだ。今の彼は、ピぃくんと同様女性用のドレスを着ていた。これもいつもの風景。
ロキは今回、メノウ家の継母役と王子の側近役で二役である。脇役ばかりだが出番は多く、そのため衣装の早替えの為の仕掛けがスカートの中に詰まっているそうだ。どうなっているのかは不明。
「いつもみたいにクレーネさんが作ったんだろ? どうなってるんだ?」
クレーネさんは、……例えばゼペットさんが劇場付きの大道具係なのに対し、クレーネさんは同じく劇場付きの衣装係の女性だ。舞台用の特別な衣装はみんなこの人ひとりの作である。
例えばサンドラセバスの、一瞬で豪華なドレスに変わる仕掛けも彼女が作ってくれた。となると、ロキの衣装も早着替えができるように、彼女が考えてくれたに違いない。
ロキは得意げに言う。
「このスカートの中には男が詰まっているのさ」
彼がそう言うと、すさまじい勢いでハイヴェシア姫の扇が、ロキの頭のカツラをはじき飛ばした。
「ああ、なんてことを! 僕の女の部分が!」やはりわざとなのだろう。
「いい加減黙らないと、あなたのその“男”の部分を処刑するわよ」
ハイヴェシア姫の演技でドロシーさんが冷たく言い放つ。
「いや、いろいろすまん。勘弁してやってくれ」
謝ったのは、何故かゾロ。見ればピぃくんと兄様もまた申し訳なさそうに俯いてしまった。ロキだけは、反省しているのかしてないのか(多分してない)、相変わらずにこにこと笑っている。
見れば、アンもクスクス笑っていた。このやりとりで緊張が少しだけほぐれたようだ。
ロキは、こうしてしばし騒動を起こす。私たち[珊瑚占い]は、それに幾度も救われてきたような気がする。
………しかしながら、この日のアンの演技は酷いままだった。
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サンドラセバスは動揺していた。
自分の本当の両親のことなどこれまで一度も考えた事もなかったのに、唯一とも言える友人にそのことを指摘されたからである。
「両親も見守ってくれている筈よ」
それはきっと他愛のない幻想に違いない。しかし、素直にその幻想を喜ぶことはできなかった。こうして本当の両親に想いを馳せることは、今の両親……大恩あるメノウ家の人達への不実となるのではないか。そんな後ろめたさが、彼女を動揺させていた。
「気にする必要はないのに」友人が囁く。
「気にする必要はないんだよ」
見えない悪魔がサンドラセバスに囁く。
「メノウ家が君に優しかったことなどあったかい? 血の繋がった親というのはね、いつだって我が子のことが心配なものさ。だから、君が大恩あると言っていたここの家人に苛められているのを、黙って見ているなんてできない。本当の親は、必ず助けてくれる」
それがどう聞こえたのか、サンドラセバスは困惑し俯いてしまった。
その後も、仕事には集中できなかった。いくつものミスをしては、妹様や御義母様に嫌味を言われ、ついには晩ご飯が抜きになった。
(……私は、恵まれていないのかしら?)
その疑問が頭をよぎる。本当の両親というものの存在を知ってしまっただけなのに、サンドラセバスは自分が酷く惨めな気分になった。
これでは与えられた仕事に集中できない。彼女は気持ちを切り替えるよう努め、数日後にはすっかり忘れることができた。
お城で舞踏会が開かれる夜のこと。
継母や義妹たちが着飾ってお城へと出かけ、サンドラセバスは屋敷に一人。家中の掃除を命じられており、急いでやってもみんなが帰るまでに間に合うかという仕事量なのに、サンドラセバスはなおもぼぅとすることが多くなっていた。
義妹様に、大切なブローチを取られてしまったのである。
「似合わないブローチをしているのね。あなたみたいな端女にこんなものは必要無いでしょう?」
義理とは言え姉を指して端女は酷いと想うが、確かにこの屋敷でずっと煤や灰にまみれているサンドラセバスにはもったいない物に違いない。あれは、この屋敷に来る以前から持っていた物だと聞いている。
友人の話以来、両親の形見ではないかと考えたりもした。それを、義妹様に取られたのである。彼女に取られた物が返ってくる見込みなどなく、これで本当の両親との繋がりが完全に消え失せたと、そんな風に考えるともう仕事は手に付かなくなってしまった。
そんな時、サンドラセバスは一人の老人を助けた。何故かお屋敷の煙突に挟まって動けなくなっていた彼は、なんと魔法使いだという。そして、お城で舞踏会が開かれているのに一人家を掃除している彼女を大層訝しがった。彼女はありのままを話した。自分が家族を亡くしてこの家の養女となったこと。拾ってくれた恩を返す為に日夜働き続けていること。この家の本当の娘達は、着飾ってお城へ出かけていったこと。そして彼女たちが帰ってくるまでに、この家の掃除を一人で終わらせなければいけないこと……
魔法使いはその話を聞いていたく感動していた。
「まれに見る働き者の娘よな。そなた以上に勤勉で誠実な娘などおるまい。お前を助けたことでこの家に恩を返さなければならないというなら、私こそお嬢さんに助けて貰った恩がある。私も、その恩を返してやらねばな。……さぁさ、話は聞いたであろう。そなたら道具達が協力して早くに家事を終わらせてやれば、この娘は舞踏会へ行けるのだ」
魔法使いが杖で床を突くと、家具達は意志を持ち、自らの声で話し始めた。
「確かに。俺たちはこの家の掃除道具だが、旦那様も奥様もその娘達も、俺たちに触れることすら嫌がる。メノウ家の奴らはみんな怠け者だ」
「大事にしてくれたのは、綺麗にしてくれたのは、いつもサンドラセバスの方。なら、俺たちも恩を返す時じゃないか」
そう言うと、家具達は自ら動き始め、口々にメノウ家の悪口を歌いながら、ひとりでに動き始めた。そして、サンドラセバスが途方に暮れていた掃除を、一刻もしないうちに全て終わらせた。
「これで、舞踏会にも参加出来よう」
魔法使いは微笑み、優しく言った。
サンドラセバスは目の前で起きたことが信じられないのか、しばらくぼうっとしていた。
「どうした? 舞踏会に行きたいのではなかったか?」
再度魔法使いが話しかけると、我に返り、千切れてしまいそうな程に慌てて首を振った。
「参加なんて、とんでもありません。私は、綺麗なドレスも、綺麗な宝石も持ってはおりません。ブローチも末娘様に取られてしまいました。化粧すら許されていないのです。家事が片付こうとも、私はただのみすぼらしい下女でしかありません」
彼女は俯き、声を絞り出すように言った。
「……私は、御義母様たちに迷惑をかけることなく、この仕事を終えられれば、それで満足なのです。いつも、それすらもできないでお叱りを受けてばかりいるのですから」
「……いじらしい子だ」
そう呟くと魔法使いは、突然にサンドラセバスの身体を抱きしめた。
「あ……」
サンドラセバスが小さく零した呟きは、誰にも聞こえない。彼女の零した涙もまた……
抱きしめられたとき、魔法使いの煤の匂いを鼻に感じた。煙突の煤ではない。これは焼け焦げた炎の匂い。そしてその匂いは、サンドラセバスに覚えもない炎の記憶を呼び起こさせた。その時も、誰かにこうして優しく抱かれていたように思う。
彼女の髪をそっと撫でながら、魔法使いは言う。
「お前は勤勉で誠実な娘だ。そんなお前が自分の夢を追うことを一体誰が咎められようか。私が力を貸してあげよう」
魔法使いはもう一度杖で床を突いた。
「さぁさ、お前達もサンドラセバスを助けるんだ。働き者の娘には、その姿こそが一番美しい。埃でいっぱいの服は美しいドレスに、油で汚れたエプロンは色鮮やかな帯に、三角巾はティアラに、ミトンは白い手袋と指輪に、履き潰した靴はヒールになりなさい。なに?化粧とな?男の私にはよく分からぬが、私を助けるときについた真っ黒い煤達がそれらしくなれば良かろう。さぁさ、サンドラセバスを着飾ってやるんだ。生憎と宝石だけは用意してやれないが、そなたはそれで十分に美しい。……そら、いつもそなたが餌をやっている野良猫まで来てくれたぞ。お前は馬車になってやれ。野良猫の卑しい心も今は置いておきなさい。この優しいお嬢さんに付き従い、堂々と正面からお城へお送りするのだぞ」
戸惑いながら、サンドラセバスは馬車に乗った。それを見送る魔法使いは、ずっと優しい眼差しでサンドラセバスを見つめている。
「どうして私にこんなにもよくしてくださるのですか?」
「ん?」
心外、とでもいうように表情を驚かせてから、魔法使いは言った。
「そなたが、希に見る勤勉さと誠実さを持ち合わせていたから、私は嬉しくなったのだよ」
「両親も見守ってくれている筈よ」友人の言葉が思い出される。
「本当の親は、必ず助けてくれる」悪魔の言葉が内に聞こえる。
「あ、あの……」
走り出した馬車から顔を出し、サンドラセバスは魔法使いに尋ねようとした。「あなたは、私の本当のお父様なのではありませんか」しかし、確信まで出かかった疑問は声になることはなかった。魔法使いが、最後にもう一つの約束を呼びかけたからだ。
「よいか、サンドラセバス。さっきも言ったように、私はお前が世に希に見る働き者だから手を貸すのだ。だから、家人より後に帰るような不誠実があってはいけないよ。お前の正体が知られないように、魔法は家人達が帰ってきたその時に解ける。もしその時もまだ舞踏会で遊び惚けているようなら、お前はこの世で最もみすぼらしい姿を王子の前でさらすことになるだろう」
====================
[明らかにアンの様子がおかしいというのに。フフフ……皆、なかなかやってくれるね]
悪魔は感慨深げに呟く。無論、それは私に聞かせる為の台詞に違いないのだけど。
調子の悪いアンに対し、彼女と同じ場面に立ち会う役者達は、みな必死にフォローしてくれていた。アドリブの台詞や演技は、もはやとっくに台本を超越している。
義妹役のピぃくんが挙動のおかしいサンドラセバスを執拗に苛め、魔法使い役のゾロは、戸惑い以上に落ち込んでいるサンドラセバスを優しく励ましている。ノリと勢いで芝居をするゾロはともかく、ピぃくんは台本以上のことをしないタイプなのに、この時ばかりは彼女の演技を不自然に見せないよう懸命にフォローしていた。
[そのアンも、台本から外れてきているとはいえ、見事なサンドラセバス像を作り上げたものだ。自信の緊張と弱気を自覚して、自然とサンドラセバスの性格に重ねている。それも無意識に。おかげで、随分と卑屈なサンドラセバスになってしまったけどね。……そのままでいいという励ましを信じているのだろう。あれこそが、今の彼女なんだから]
「口を開くな。黙ってなさい」
諌めると、悪魔は大げさに肩を竦めて見せた。
私がそれっきり何も言わなくなってしまったのを見て彼は、にぃ、と…口元を歪ませた。そして、私の耳元で囁く。
[気が付いているかい? 魔法使いが出てきてから、一段と彼女の様子がおかしくなった]
悪魔の指摘に、私の方が言葉を詰まらせた。
……私は、余計な事をしてしまったの…? 戸惑う私の肩に手を置き、悪魔は“彼女”の方を指さした。
[見なさい。魔法の解けた彼女は、あまりに見窄らしい]
彼女の強さは、朗らかさは、本当に両親がかけた魔法だったというの…?
私がそれを暴いてしまった……
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