#14 劇場[モビィ・ディック]にて


 翌日の私は、テーブルに背中を預け、童話数冊が散らかったその上に、涙と涎で汚した脚本を抱いた姿で、………呆れ顔の(本物の)兄様に起こされることになる。本を読みながら寝てしまうことはままあるが、この朝を越える惨状は…………今後二度とあってはならないと強く思った。

「脚本くらいならいいけど、売り物の本に涎は勘弁して欲しいね」

「涎じゃありません。……その……」涙です、とも言えない。「悲しい夢を見たから……」

 兄様はそんな私の頭にそっと掌を置く。

「また子供扱いして」

「大人は散らかしっぱなしで床に寝たりはしないよ」

 言いながら、兄様は床に散らかった、(本来売り物の)本を片付け始める。灰かぶりの童話や、民話集……みな魔女や魔法使いが出てくる話ばかり。今となっては、その全てが亡き母親から娘への祈りの書のように思えてくる。


「兄様」

「なんだい?」

「サンドラセバスは、幸せになれますよね?」

 尋ねると、兄様は怪訝そうな顔でこちらを見た。私は、そんな兄様の顔を真っ直ぐには見られなかった。兄様の顔が、アンティノーゼの気味の悪い笑みと重なって見えてしまいそうな気がした。

 よほど落ち込んだ顔をしていたのだろう。兄様は肩を竦めると、もう一度私の頭を撫でた。

「―――――読んだ通りだよ。今は、それ以上のことは考えなくていい」

 兄様はまた同じようにはぐらかした。“それ以上のこと”が……まだ私が気付いていない事があるのですか? と聞こうとするも、それもまた遮られる。

「さぁ、支度するんだリディア。エイハブさんに見せる前に、一度全員で合わせるからね」

 そう。今日は劇団[珊瑚占い]にとっての、本番の日なのである。



 エイハブさんは、[珊瑚占い]がお世話になっている劇場[モビィ・ディック]の支配人である。

 白髪、隻脚の老人で、私の第一印象は「決して笑わない人」。濃い髭に隠れた口元は勿論、皺の刻まれた細い眼は殺気すら感じさせる。他人にも自分にも厳しく当たるものの、面倒見は良く、例えば[珊瑚占い]のような人手不足の劇団には、つてを使ってエキストラを手配してくれたり、腕の良い仕立屋や融通の利く家具工を紹介してくれたりと、何かと世話になりっぱなしで、ゾロですら彼の前では背筋を伸ばし敬語を使う。

 聞いた話では元々高名な舞台俳優だったらしいのだけど、稽古中の事故で片足を喪い、失意と悔しさの中で舞台から身を引くことにしたのだという。しかし、舞台へ掛ける情熱は冷めるどころか現役の頃よりも大きくなり、ついには妄執と言える程となった。

 その妄執に集まったのが、現役だった頃の彼を知る舞台関係者達。ある者は彼の体を心配し諌めようとして、ある者は彼の情熱に共感して、……やがて、この小劇場が出来上がった。義足を引きずるような身体になった今でも、彼は俳優として最高の舞台に上がることを諦めてはいないのだろう。それに付いてこられる才能をこの小劇場で探しているのだという。

 その証になるかどうかは分からないが、彼は封切り前の芝居や台本を見て、遠慮無く注文をつけてくる。それも、かなり強硬に。それができなければ、上演は断るとまで言う。まだ若い劇団にとっては何よりも恐ろしく、同時に誰よりも親身な“観客”でもある。

 また、芝居によっては彼自身が最初の口上や語りを引き受けてくれたりもする。長い経験に燻された低い声は、冒頭から観客達を芝居に引きずり込む。[珊瑚占い]でもいくつかの芝居はエイハブさんの口上に助けて貰ったが、……生憎と童話をベースにした『サンドラセバスの結婚』では彼の朗々たる口上は無い。当たり前であるが。


「……ほぉ、本屋の娘がいよいよ出番かい。大した重役だ」

 劇場のエントランスを入り挨拶をすると、彼は私を睨みながらそんなことを言ってきた。練習に出ない私は毎回こうである。

「目を掛けられてるってことさ」とロキ。「リディアみたいなタイプが何処までやれるか、気になるんだろうね」

 ちょっと信じがたい。あるいは、ロキが私をからかっているのかもしれない。

「……僕は苦手だ」

 私の背後に隠れるようにしてピぃくんが言う。

「劇場に入るときは、いつも喰われるような気分だよ」

「喰われりゃいいじゃねぇか」

 と、これはゾロ。少し楽しそうに笑っている。

「案外快適かもしれんぞ。何しろエイハブ老が生涯追いかけている劇場だ」

「僕が食われたら誰が助けてくれるんだよ。……舞台だけで人生終えるなんて、僕はイヤだぞ」

「男らしくていいじゃない」

 と、これはドロシー。彼女も妙な苦手意識は無いらしく、楽しそうだ。

「ゼペットさんはとっくに呑み込まれているものね」


 ゼペットさんとは、ピィくんの養父で大道具係のお爺さんだ。と言っても特定の劇団に所属しているわけではなく、この[モビィ・ディック]付きの大道具係という少し変わった立場だ。大道具係を持てないような小さな劇団の演目の相談に応じて、格安で様々な道具を用立ててくれている。昔はもっと大きな劇団の大道具を拵えていたそうだから、この人もエイハブさんの理想に共感した一人なのだろう。

「生涯を掛けた大舞台…… 男なら、そういうのも分かる」

 彼女の隣の兄様が言った。その間に割って入りながら、私は兄様に尋ねる。

「思い当たる節でもあるのですか?」

「今は秘密。いずれ、ね」

 ……私はむくれた。隣で悪魔がげらげらと笑っているから尚更にイライラは募る。

「そっか……ああいうのが男らしいのか……」

 ピぃくんは、どうやら本気にしたらしく何やら考え込んでいた。


 私はアンの姿を探した。先ほどから彼女は思い詰めたように黙り込んでしまっているため、一緒にいた筈なのにそれを忘れそうになる。なんだか“想い”が希薄になっている。

「アン」

「えっ? ええ? 何? どうしたの?」

 しかも呼びかけた時の狼狽ぶりが酷い。ピぃくんじゃなくても心配になってくる。

「大丈夫? 少し顔色も悪いよ」

「平気平気。これくらいのことで」

 躓いていられないから。……彼女の口から、その言葉が出ることは無かった。だけど、その想いは確かに聞こえた。

「うん。きっと、両親も見守ってくれている筈よ」

「あ……」

「アンは、魔法のドレスを着て、階段を昇るの」

「……うん」

 頷くアン。その緊張は、私の言葉で解けることはなかったけど、その時は少し落ち着いたように見えた。だけど……

 今日のアンは、明らかに様子が違っていた。

 何処か気持ちがふわふわしていて、お芝居どころでは無い。直前の通し練習の時からドロシーに叱責を受け、兄様にも細かい点の修正を受けていた。台詞の間違いもちらほら見られる。ゾロの様子を見るに、今日になって突然落ち着かなくなったようなのだけど……

「……もう本番よ。交代は効かないんだから。覚悟を決めなさい。あなたがしてきた努力の成果、そんなものではない筈でしょう?」

 ドロシーさんの言葉が重い。「才能に恵まれたあなたにアンの何が分かるのか」と問い返したかったけど、確かに結果込みでの努力を誰より見てきたのはドロシーさんの筈だ。

「リディアと話す時の感じでいいんだ。多少の緊張はあっていい。あとは僕とゾロでフォローするから、気を楽に」

 これは兄様のアドバイス。だけど、その台詞からも兄様自身の焦りが分かる。

「緊張も分かるよ、初めての主人公だものね」と、ロキ。「だけど、ゾロだって今回初めて煙突に挟まるんだ」

「……俺に限らず、そんなことする奴は大概初めてだと思うがな」

「僕はその部分を必死に練習する君の姿が見たかったけどね」

 想像した何人かの含み笑いが聞こえてきた。

 ロキは、笑わせようとしてくれていた。余計な緊張をほぐそうという、彼流の気遣いである。

 しかし……

「ありがとう。それから……ごめんなさい。……うん、私、頑張るから」

 それでもアンはほんの僅かな笑みをみせただけで、緊張がほぐれることはなかった。


「大丈夫かしら」

 私が呟くと、悪魔がため息をついた。

[君が彼女の心配をするのかい? まるで反対だ]

 ああ、そうか。

 いつもならサンドラセバスが、落ち込んでいる“私”を励ましてくれるのだったっけ。



 この一回目の上演は、言わばエイハブさん一人に見せる為の舞台だ。場所こそ少し大きめの練習部屋だけど、衣装や舞台セットなどは本番を想定して行われる。とはいえ舞台関係者の間は一種のカリスマとして語られる彼の、直接の批評にさらされるのだから、本気で舞台に向き合ってきた者程、本番以上の緊張を強いられることになるという。

 控室では念入りに仕掛け衣装の準備が施される。私やドロシーさんは一役でずっと同じ格好なので準備は直ぐに終わるが、主役であり途中で華やかなドレスに切り替わるアンは大変だ。華やかなドレスの上から地味な衣装を着込み仕掛けを施していく。見慣れた赤髪も今は丁寧に結い上げられ、どう解くのかを確認する。それを、先に準備の終わった私とドロシーさんで手伝うも、その間ずっと、アンはいたたまれないような表情を浮かべていた。

「そんな顔を浮かべるくらいなら、脚本を見ていなさい」

 ついにはそんな叱咤が投げられてしまった。

 それが終われば、私達もまた時間までずっと脚本の読み込み。みなそれぞれ違ったやり方で、己の心を芝居の舞台へと上げていく。今回のように手伝いが必要ならともかく、基本的に私達三人は、己の役に入り込むために、この楽屋ではあまり言葉を交わすことはない。

 特に今回は、ドロシーさんのハイヴェシア姫は、他のどの女性とも交友が無い。彼女にとってこの場でのやりとりなど、役を乱す雑音にしかならないだろう。

 一方で私とサンドラセバス……アンとは交友があるのだけど、今の彼女はそれどころではなくて、見ているだけで痛々しく、話しかけるのも憚られるほどだ。

 この時ばかりは私もなかなか本の世界に旅立てずにいた。我が友人、サンドラセバスことアンのことがずっと気にかかっていた。

 本当に、いつもならその前向きな性格が緊張を覆い隠す程で、彼女が大した練習も無しに舞台に上がる私を引っ張ってくれるのに。昨日まではそんな様子も見られなかったのに、一体どうしてしまったのだろうか…


[ルールの話をしようか]

 その時、着替え中は姿を見せなかった悪魔が現れ、私の傍らに腰を落とした。

 澄ました、兄様と同じ表情、学者のような素振りで話し始める。

[死者は本来何も出来ないものだ]

「当たり前よ」

 思わず突っ込むも、“死者”という単語に引っかかりを覚える。

「まさか、魔法使いへの反証のつもり?」

[途中で聞き返すのは行儀が悪いよ。……生者が死者からしてもらえることは何もない、というべきかな。当たり前のルールだと思うかい? だけどね、これが魔法の抜け穴を生み出している。つまり、死者であると相手にバレなければ、存分に力を貸してやることができる]

「屁理屈でしょう。現実的にあり得ないわ」

[でも実に魔法らしいじゃないか。こう言い換えようか? 魔法使いは、自分が肉親であることを少女に知られてはいけなかった。もし知られれば、たちまち力を失い、魔法は解けてしまう。何故なら肉親たる彼は既に死んでいて、本来なら少女に対して何の力も貸してあげられないからだ]

[まるで違う物語が混じってきたわね]

 呆れながらに言うも、悪魔は笑っていた。

[しかし民話から始まる一連の継娘物語に相応しい。サンドラセバスの物語にもぴったり合致する。何より、こういう趣向、嫌いじゃないだろう?]

「ん……」

 反論できない。……いや、したくなかった。

 私の頭は既に、サンドラセバスの実の親と、魔法使いを巡る“決して語られない物語”が繰り広げられていたからだ。



  ====================


 ――――勤勉で誠実な人であれ。


 命尽き果てる間際、父の願いが少女を守り続ける筈だった。

 しかしたったそれ一つだけを守るだけでは、両親のいない少女は生きるのには難しかった。

 少女は義母達より苛められていた。父はそれを哀れに思い、娘を助ける力を請うた。

それに手をさしのべたのが誰なのかまでは分からない。

 慈悲深き神か、残酷な悪魔か、あるいは心を弄ぶ運命だったのか。

 父は娘を助ける為の魔法の力を授かったが、同時に二つの制約がついた。


 一つは、娘が父の願いを忠実に守り、またそのように成長していること。

 この願いこそ父と娘の絆であり、切れてしまえば父の魔法は娘に届かなくなる。


 一つは、自らが実の父親であることを娘に知られないようにすること。

 死者であることを知られてしまえば、いかに魔法使いといえど力なき死者へと還る。魔法も力を失う。


 娘が父の願いを忘れてはいけないが、父が見守っていることを知られてはいけない。どこか相反する意地悪な条件だった。その両立した矛盾の狭間に、理を越えた魔法が生まれるのかもしれない。

 父はそうして冥府より蘇り、邪魔者の家人が留守になった隙に娘の前に現れた。ところが、娘・サンドラセバスは……


  ====================



「魔法使いが出した禁忌を、破ってしまうのね」

 サンドラセバスは王子と楽しい時間を過ごすあまり、義姉妹たちが帰った時に居合わせることができなかった。誠実且つ勤勉であれと魔法の助力を得た彼女には、決してあってはならないことである。

[それだけじゃないよ]悪魔は笑う。[魔法使いが亡き父の化身であることを、愚直なサンドラセバスは知り得なかった。しかし、……禁忌物語の落とし穴は道なりにではなく、脇道にあるものだ…]

 悪魔は、私の方を見ると、まるで隠れた獲物をようやく見つけた時のように、にぃと笑った。それを見て私の背筋に、冷たいものが流れ落ちた。

[おしゃべりでお節介なお友達は、魔法使いの禁忌など知らず、彼女にそのことを教えてしまったんだな]

「あ……」

 ようやく、悪魔が何を言いたかったのかが理解できた。


 ――――私は、アンに魔法使いの正体を教えてしまった。


 両親はもう死んでいるに違いないと言った彼女に対し、死んだ後も愛する娘を見守ってくれている、力を貸してくれる、と、魔法の正体を明かしてしまった。

「もう会うこともできない両親を悔しがらせてやりたい」と話していたアン。「恨んだりしないように、私は女優を目指した」と。「自分を誇れるようになりたかったんだ」と。

 甘えられる親はなく、自立を目指すしかなかった。その一歩をようやく踏み出せそうな時に、……私は居ない筈の親の助力を明かしてしまった。ああ、何てことを言ってしまったんだろう……!

 悪魔は、私の耳元に唇を寄せ、そっと囁く。

[世の親が、自立しようと奮闘する我が子を助ける時は、いつだってこっそりとするものさ。存在するのかどうかも分からない魔法使いによるものでなければいけなかった。そうでなきゃ子供は自分を誇れないから。……君は余計なことをしたかもしれないね]

「そんな……」

 私は、部屋の向こうで必死になって台本を読む自信も余裕もないアンを見た。魔法の解けた、サンドラセバスを……


「アン。分かっているわね?」

 声をかけようとして、僅かに先を越される。ドロシーさんだ。

「いつものあなたでよろしいのよ。あなたのような端女に、不相応な努力など無意味なのだからねぇ」

 励ますかと思いきや……

 扇で口元を覆う仕草も、隣国の全てを見下す目つきも、決して相手を正面に見ない振る舞いも。

 ここにいるのは、既にハイヴェシア姫である。


  ====================


 尊大な姫君を前に、サンドラセバスはかしこまったままでいた。

「……その、申し訳ありません。舞台では、決してあんなふがいない演技はいたしませんから」

 ようやく口に出せたのは、言い返すどころか、そんな卑屈なほどに弱気な謝罪。

 これじゃあ、メノウ家のお屋敷でこき使われていた頃と何一つ変わらない。彼女は何も悪くないのに。

 そう思った私は、堪えきれずに前へと飛び出していた。

「ハイヴェシア様、どうか彼女を許してあげて下さい。彼女は、悪くないのです。……私がお喋りだったばかりに、彼女が戸惑ってしまっただけなのです」

「ならばまずそのお喋りな口を縫い付けてしまいなさい!」

 ぴしゃりと、ハイヴェシア姫は私を怒鳴りつけた。思わず身体が震えた。背けた私の顔を、ハイヴェシア姫は扇でもって自分の方に向けさせた。

「身の程をわきまえない端女が、もうひとりいたのね。あなたのようなのが、私と口をきくだけでも図々しいというのに。……これはね、私と、その小娘の問題でしょう」

 答えることもできず、私はただ首を振った。


 ……後悔していた。

 ただの思いつきで魔法使いのことを話してしまったこと。

 この悪魔のような女の居るこの城に、たったひとりの友人を送り出してしまったことを。

 勤勉で誠実だったサンドラセバスは、今も困惑したまま――――――

 ……退けない。両手を広げたまま動こうとしない私に、痺れを切らしたハイヴェシア姫は、手の扇を振り上げ………


「そこまでだよ。三人とも」

 それを遮ったのは、澄んだ男性の声。目をやれば、部屋の入り口に咎めるような目でこちらを見る王子がいた。私は、慌てて道を退き恭しく頭を下げた。王子はそんな私には目もくれず、姫の方へと数歩足を進めた。

「姫は不器用ですね。そこで彼女に手を上げてしまっては、あなたの気遣いも何もかも無駄になってしまいますよ」

 穏やかに、しかしその意に反したはっきりとした口調で。ハイヴェシア姫は動揺を示す。

「私は……その娘に、王室での作法を教えてさしあげようとしたまでですわ」

「彼女はそのままで大丈夫です。何しろ、私が選んだ人なのですから」

 王子は冷たく、ハイヴェシア姫に言い放つ。

 姫は言葉も無く、表情に明確な嫉妬を滲ませた。扇でその口元を隠し、目を細め、眉をひそめる。

 私は、思わず一歩足を退いていた。


「さぁ、行こう。準備はいいね、サンドラセバス」

「は、はい」

 サンドラセバスが委ねた手を取り、廊下へ出て行く王子。ようやく見つけた愛しき人だけを見ていた目が、

 ふと、私の方に向けられる。


「……君もだよ。リ―――」


  ====================



「――――――。リディア」

 名前を呼ばれ、私の意識は突然に再生される。

 二、三度のまばたき。周囲を見回し、そこまでしてようやく、誰に名前を呼ばれたのかを認識する。

 兄様は、そんな私をじっと見ていた。何故かアンの手を握ったまま。

「リトラ兄様?」

「お帰り。帰って来られたかい?」

 少し皮肉めいた兄様の言葉。その隣にアンがいるのを見て、私は途端に恥ずかしさがこみ上げてきた。

「分かってるね? いよいよ本番だ」

「はい」

 舞台裏へと移動する兄様の後をついて行こうとした、その時……

「サンドラセバス」

 背後から、微かに聞こえた苦々しい呟き声。私は、後ろにもドロシーさんがいたのに気づいて驚いた。しかし、彼女もまた私が目に入っていないようだ。

[君と同じだ]

 悪魔が楽しそうに囁く。その声を無視して、私は彼女に声をかけた。

「ドロシーさん」

「え? ああ……ごめんなさい。ぼうっとしてたわ」

「大丈夫ですか?」

 尋ねると、彼女はいつもの表情で笑った。

「あなたに心配されるなんてね」

 いつも敵愾心むき出していることを皮肉られたのかと、私は少しだけむっとした。思えば、当たり前だ。今のドロシーさんはハイヴェシア姫なのだから。

「私は、ただ……」

 的外れな抗議は、しかしドロシーさんの憂いの籠もった声に遮られた。


「あなたの方が、危ういわ。リトラーが心配したとおり。演技じゃなくて、本当に何処かに行ってしまうのね、あなたは。ほんと……大したものね」

「え……?」

「さぁ、行きましょう。私の心配なんか無用です」

 そう言って彼女は、私の先を早足で行ってしまった。

 声こそドロシーさんだったけど、振る舞いや表情はハイヴェシア姫のままだった。

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