#13 サンドラセバスの悲劇
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……お城の王子に迎えられた彼女は、まだ信じられないという面持ちのまま、……だけど、私にだけは最期の……幸せそうな満面の笑顔を見せてくれた。「ありがとう。元気でね」と、その笑顔が言っていたような気がした。
王子に尋ねられた私は、正直に答えた。彼女を妬む醜い女達を軽蔑し、逆にそれに耐えるサンドラセバスに憧れ、私もまた彼女のように誠実であろうとしたのだ。そうしてサンドラセバスは、我が家とは名ばかりの彼女を苛むだけの冷たい家から、ようやく、抜け出すことができた。
……ああ、だけど、不安でたまらない。
ここから見上げる城は、あまりに大きくて、そして何処か寒々しい。
そこには今、あの高慢なお姫様が、いらっしゃっているそうだ。
傍らの悪魔が語る。
[サンドラセバスは友人たる君の導きで、王子に城へと迎えられた。しかし突然現れた王妃候補に、それまでハイヴェシア姫を推していた側近達が一斉に反発を始めたようだ。それを煽っていたのが、嫉妬に狂うハイヴェシア姫。サンドラセバスへの風当たりは、メノウ家の屋敷にいた頃と何ら変わりはしない。いやそれどころか、城下を離れた彼女にはもはや友人すらいないのだ]
「あ……」
―――私が、彼女をそんな城へと送り出した。
[家臣達は生まれの卑しさを口実に彼女を苛め続ける。勿論、それは彼らの思い込みであって、本来なら彼女は周りを納得させられる程の立派な血筋だ。しかし、今となってはそれを証明する術は無い。ブローチは返してもらえず、父親の化身たる魔法使いとは、娘が禁忌を破り決別してしまった。頼れるのは王子様だけだ。次期国王と思えば最高の味方だろうけど、それも国内に関してのこと。これでも楽観的な過大評価だろう。仮にこの国が王子一人の独断を許容したとしても、隣国の王女たるハイヴェシア姫まで抑え込める力はない。嫉妬を剥き出しにした隣国の姫は、さてどうするだろうね?
覚えているかい? もともと王子とハイヴェシア姫の結婚は、周囲が推し進めたものだ。国家間の政略結婚だったんだろう。それが、姫の顔に泥を塗られる形で反古にされたんだ。となれば、……あとは見えてくるね? ほら……]
サンドラセバスが嫁いだ王宮での混乱は、城下までも漏れ聞こえていた。
悪魔が指さす向こう。サンドラセバスを苛む運命も、また。
国勢に請われる形で、王子は、一度は反古になったハイヴェシア姫との縁談をやり直すという。当然、サンドラセバスは城を追放され、かといってメノウ家に戻るわけにもいかず、行く当てもなく彼女は街を彷徨い歩いている。
目の前を通り過ぎる夢を亡くしたサンドラセバスを、私は見つけられず、ただその幻影のような変わり果てた友人の姿に手を伸ばそうとした。その手を、傍らの悪魔が掴む。
[まだ楽観的に捉えているんだね。あの気位の高いハイヴェシア姫が、自分に恥をかかせた相手を追放程度で赦すものかな]
「……処刑」
心の中に浮かび上がった言葉を小さく、力なく呟くと、それを肯定するように目の前に巨大な断頭台が現れた。
屈強な兵士に両肩を支えられるサンドラセバスの身体は小さく、そしてあまりに見窄らしい。涙も涸れ果てた絶望した表情で、これから自らの首に落とされる鈍色の刃を見上げている。
良くも悪くも国を騒がせた身寄りのない娘を、街人が様々な思惑で見守っている。「いい気味だ」と笑う者。「可哀相」と嘆く者。あるいは、こんな結末を許した王子を悪し様に罵る者。この国の将来を憂える者。……
堪えきれずに目を反らせた先に、あの残酷な隣国の姫の姿が見えた。豪華な椅子に斜に座り、肩肘をついて刑場を見下ろす。その顔は、冷たい笑みが張り付いていた。その彼女が、傍らの兵士に何やら目配せをする。
程なくして、刑の執行が始まった。男の読み上げる罪状は、彼女をよく知る者にとっては全く信じることができないものばかりで、席上で満足そうにしているハイヴェシア姫の顔も合わせ、それが全くのでっち上げであることが知れる。そして……
[こうなると、当然王子自ら、刑の執行を行うことになるのだろうね]
「……え……?」
傍らの悪魔に促され見上げた先に、私はサンドラセバスを尋ねて城下に現れた王子の姿を見つける。先ほどからサンドラセバスの罪状を読み上げていたのは、他ならぬ王子本人であった。悲壮な声には無力感、俯く顔にはやりきれない後悔が伺える。今もまだ彼女に惹かれ、彼女を愛し、……しかし今となっては何もかもが虚しく、どうにもならないこの身にあっては、持って生まれた地位すらも虚ろだ。
読み上げる罪状はいつ終わるともなく、人一人が犯す罪としてはあり得ないほどに長く、また最期にはただ少女を貶し、こき下ろす為だけの書面となっても、それは淡々と感情無く続いている。
私は呆然となった。
彼が、サンドラセバスを殺すのだという。
なんという裏切りか……!
[不思議な事じゃない。一度は反故にした縁談をやり直すのだからね。けじめを付けるために、あの姫様はそんな条件を出した]
私は向こうにいるハイヴェシア姫を見た。姫は、王子だけを見ている。その口が、ここからでは聞こえるはずのない一つの台詞を奏でた。
「あなたが、彼女の首を落としなさい。彼女こそ国を惑わせた国賊なのだから」
王子は、頷くよりほかなかった。国を想えばこその選択。愛する者と、それ以外の全てを秤に掛け、後者を取ったに過ぎない。国は残ろうとも、彼は生涯自らを責め苛み続けるに違いない。そのための覚悟が、王子の顔に滲んでいた。その手に握られた斧が、今、断頭台の刃を支える縄を切る。
悲鳴。私には、亡者たちの歓声のようにも聞こえた。また、それに混じり、王子の慟哭の叫びも聞こえる。ハイヴェシア姫の高笑いも。
私は、……見ていられなかった。許しを請うように、膝から崩れ落ちる。
[……実に彼女らしいね]
楽しげに笑う悪魔。ハイヴェシア姫も、まるで同じ表情で笑っている。
……醜い。人の心は醜く、この悪魔はそうしたものが大好物なのだ。
「こんなの……あんまりよ……」
[そうだね。僕も同感だ]
私は、傍らで囁く悪魔を睨み付けた。この悪魔に、王子やサンドラセバスの絶望が分かる筈もない。
[僕としては、もう一つの方が好みだ]
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ページをめくる音が聞こえた気がした。
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再び沸き上がるおぞましい寒気。
悪魔はさほど気にも止めずに得意げにかたる。
[勿論、そっちも想像が付くだろう?]
「もう……やめて……」
膝をついたまま蹲る私の傍らを、一陣の風が通り抜けていった。やめてと願う声は、無数の軍靴と、城門の崩れる音、そして人々の怒声にかき消されてしまった。
[ほら、顔を上げてごらん]悪魔が、優しく、優しく囁きかける。[あの城に、君の友人がいるんだ。愛する人と二人っきりでね]
「…っ!」
顔を上げると、見晴らしの良い丘に、私は立っていた。
いつも彼女と昇った丘。雨上がりの日、ここに吹き付ける涼しい風が、私とサンドラセバスのお気に入りだった。
しかし、その日吹き抜けた風は、まるで戦の炎のよう。
見れば、遠くに見えるお城から煙が上がっていた。
[これがもう一つの結末。王子が愛するただ一人の為に、全ての責を投げ出した場合。……頑なに離れず、仲睦まじい程に、二国の関係は悪化する。ハイヴェシア姫の国はついにこの国へ侵攻し始める。
……彼女の態度から、王子の国の方が弱い立場なのは想像が付いているよね? あるいは、親ハイヴェシアの家臣達が姫と結託して反乱を起こすかもしれない。いずれにしても、責を投げ出した王子に従おうとする者は少ないだろうな。王子は自らの国の大半と戦わなければならない。国よりも愛する女性を選んだが為に]
……それが、この戦。サンドラセバスと王子は、渦中のあの城にいる……
私はただ、この場所から見ていることしかできない。
[当然二人とも命を落とす。心中するか殺されるかの違いはこの際些末なことだ]
つまり、それすら些末と思えるようなことが、この後にある。
視界が切り替わる。手に手を取り合い逃げるサンドラセバスと王子。剣に貫かれてなお、二人は離れなかった。
[二人は、最期の瞬間まで寄り添ったまま、抱き合ったままで逝くのだろうね。けどハイヴェシア姫は、死して尚離れない二人を強引に引き離し、その上さらにサンドラセバスの亡骸をなおも執拗に辱めるに違いないよ]
サンドラセバスが死んでなお姫の気は晴れない。……いや、死んでなお離れない二人を見たからこそ、姫の機嫌は陰鬱に、残酷に沈んでいくのだろう。姫もまた誰よりも王子を好いていた。王子の愛を望んでいた。それを、たかが市井の端女に掠め取られたのだから、
辱めるにも、王宮内でのことだけで済む筈もない。
城下に残った私は、それを見ることになる。
切り刻まれ、ぼろぼろになり、それでもなお、朽ち果てるまで引きずられる、友人の変わり果てた姿を。
王子が全てを捨てて捧げた愛を得てなお……
[二人が結ばれることは、ない]
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「イヤっ!」
恐ろしくなり、開いていた脚本から手を離した。脚本はパサリと渇いた音とともに閉じられ、床の上に放り出される。表紙に書かれた題字が、なおも私の意識を苛む。
『サンドラセバスの結婚』
女の幸せの象徴たる結婚。だからこそ、童話は王子との結婚に結末を置いている筈だ。民話もそう。少女は義姉妹よりも先に結婚することを継母より禁じられるけど、魔女の試練を乗り越えてその呪縛から逃れる時、素敵な男性が彼女にプロポーズをする。結婚を境に少女は、継母の家から出て、幸福な人生を送る筈なのだ。
しかしこの芝居では、結婚を境にサンドラセバスは幸福の頂より転げ落ちる。ただ、ハイヴェシアという性根の悪いお姫様一人の為に。
この、破滅までの筋書きこそ、彼女の結婚を巡る物語であり、この芝居のテーマ……
本当に、こんな結末なの……?
[……よくできたね。偉いよ、リディア]
兄様と同じ顔の悪魔が、兄様と同じ声で褒め、そして……優しく頭を撫でる。
それを払いのけるだけの気力もなく、私はただ首を振った。
「違う……兄様が、こんな話を書くはずがない……」
息が苦しい。ただ本を読んでいただけなのに、まるで永遠と走り続けたかのように血が沸き立っている。胸の内で激しく脈打つのは、現実世界の空気を欲しがっているから。足も腕も棒のように。目は涙に濡れ、開けていられないほどしょぼしょぼと痛い。無理もない。この目は二度も、アンの姿をしたサンドラセバスの悲劇的な死を目の当たりにしているのだから。
しかも、彼女をそんな運命に追いやったハイヴェシア姫を演じるのはドロシーさん。サンドラセバス役を巡って、たびたびアンと揉めていた……
そしてドロシーが、アンを殺す。
だから、ハイヴェシア姫への嫌悪感よりも、ただただ悲しい。
「……アンティノーゼ」
痛む瞼を閉じたまま、悪魔の名を呼ぶ。……返事はなくとも、彼はいつでも私のすぐ傍らに居る。その気配がある。
「どうして童話の通りのハッピーエンドではいけないの? 誠実で勤勉なサンドラセバスは、幸せになることも許されないというの?」
[おかしなことを聞くね]呆れたように笑みを交えながら、悪魔は言った。[悲劇は、人々が求めた結果だよ。悲劇こそが最も人の心を動かす。人はそれを感動と呼び、芸術と称した。幕が下りれば、割れんばかりの賞賛の拍手を送る]
「……そんなことない。童話は悲劇なんかなくたって、子供達の心にずっと残っているわ」
[残念ながらここはネバーランドではないんだ。……悲劇を知り、子供はその楽園を追放される。その時はいつか必ず訪れる。大人は楽園に住めないからね]
「違う。大人だって、ハッピーエンドを探している」
[誠実で勤勉なだけでは、幸せにはなれないのさ。みんないつかはそれに気がつく]
兄様と同じ顔の悪魔が、そっと唇を重ねた。悲しみと暗闇の中の接吻は、とても優しく感じられ………
[もっと沢山の悲劇を知るといい。強く優しい大人になるためにね]
私はその声の主が果たして誰なのかすら分からなくなり……
「にい……さま……」
悲しい結末に涙した瞼は、意識が深淵に落ちるまで開くことはできなかった。
[おやすみ、リディア。明日はいよいよ―――――]
眠りの淵、友人にまつわる悲しい夢を見た気がした。
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