#11 両親
サンドラセバスは、親の顔を知らない。どんな人だったのか、それを教えてあげる者もおらず、唯一の手がかりであった筈の形見のブローチすら奪われてしまう。
しかし彼女は、自分が孤児であることを知っている。メノウ家の養女として、毎日を生きられることに感謝している。
では、本当の親の事はどんな風に思っているのか? 答えは、疑問よりも先に知ることができた。
「本当はね、知ってるの」その夜、アンは言った。「私の両親は、きっともう生きてはいないってこと」
お開きになったパーティ。帰る間際、「少し歩かない?」と誘われ、私たちは二人だけで、しん…と冷えた街へ繰り出した。黒い輪郭だけになった建物の間を、ゆっくりとした二つの靴音を鳴らし、他愛ない言葉が語り尽くされる頃、やがて彼女はそう言った。
「だから、両親が生きていたら、なんて今までできるだけ考えないようにしていたの。そんな仮定なんか無意味で、私はずっとこの現実で生きていくしかないから。私は、今生きているだけでも十分に幸せな筈なのよ」
それはアンの言葉であると同時に、サンドラセバスの心。
……今この時ほど、アンがサンドラセバスと重なって見えたことはない。きっとサンドラセバスも、アンと同じように考えていたに違いなく、彼女のその“答え”を聞いて、私はまた一つサンドラセバスを形作る欠片をはめ込んでゆく。
しかしそうすると、今度はアンを形作る輪郭に穴が空く。サンドラセバスを理解する程、アンが分からなくなり……まるでアンの欠片を使ってサンドラセバスを補完していくような、奇妙な錯覚を覚え、私は……サンドラセバスの芝居が完成した時アンが消えてしまうのではないかという妄想に、恐怖が掠めていった。
「……じゃあ、どうして役者に?」
そう尋ねたのは、話の流れというよりも、アンを知るため。……穿たれたアンを形作る輪郭を、再び補うため。
「前に話したのと理由は同じ。もう会うこともできない両親を悔しがらせてやりたかったから」
振り返った彼女の靴音が響く。口元に、しっかりとした意志が見て取れる。私が驚いていると、アンははにかんでみせた。
「意味わかんないこと言っちゃってるなぁ私。……でも、これより上手な言葉も見つからない」
はにかみながらも、宿した意志は少しも揺らいでいない。
「この世にいないかもしれない両親だから、私を見守ってくれている筈もないんだけどね」
ふぅと息を吐き出し、彼女は告げる。
「……ここじゃない何処かに……私が決して触れられない何処か別の世界に、今も生きている本当の両親と、両親に育てられた“別の私”がいて、何不自由なく幸せに暮らしている……よくそんな想像が頭から離れなくなるの。私は今までずっとその触れられない人達と、今ここにいる自分を比べて生きてきたに違いないんだ。その一方で、もう死んでしまったこの世界の両親が、今の私と別の私をを比べて、苦い顔をしているような気がしていたの。……だから、……うん、やっぱりよくわかんないね」
私は、黙って首を振った。「そんなことないよ」と。
アンは少し照れたように、「ありがとう」と言うと、「サンドラセバスらしくなかったね」……更けた夜に月光の降り注ぐ夜空を見上げた。
そんなことはない。私は再度首を振ったが、彼女には見えていなかったに違いない。
私は、代わりにこんなことを尋ねていた。
「両親を、恨んだことはある?」
「え?」さぞ、ぎょっとしたことだろう。
別に驚かせたいわけではなかったのだけど。私は続ける。
「両親が、自分を裏切った、なんて考えた事は?」
「……意味がわかんないわ」
彼女は困ったように、力なく笑った。その反応を見るまでもなく、答えなど分かりきっていた筈だけど、私は尋ねずにはいられなかった。
「童話の方にはまだ分からないことがある」
「灰かぶりの方?」
「“継母”が出てくるわよね?」
急かさなくてもいい。どういう意味かはすぐ分かる。
「兄様の脚本の方にも出てくるけど、あれは元ネタがそうだから、つい継母って呼んじゃうだけで、サンドラセバスの場合は“義母”とか“養母”って呼ぶ方が正確。“継母”って言った場合、つまりは父親の再婚相手って意味でしょ。兄様は残酷な描写は省くだろうから」
「残酷、って……」
「“継母”がいるということは、実父は生きているの。灰かぶりの実父は、妻…つまり彼女にとっての実母が病死してすぐ別の女性と再婚した。その女にも娘が、それも二人いたわ」
アンにはまだ何が言いたいのかは見えていないようだ。
私もまた、思いついたままに言葉を紡いでいく。戸惑うアンの向こうで、悪魔が、笑っていた。
「こうなるともう継娘モノの定番……、継母が自分と血の繋がりのない娘を大事にする筈もない。だったら娘を守るのは、父親しかいないのだけど、彼は実子を含めた三人の娘達にお土産を買ってきたのが最後で、これ以降の物語に出てくることはないの」
「どうして?」
「分からないわ。商人だったらしく、童話以前の民話では出稼ぎに行くことになっていたりするのだけど。そうそう。お土産を買ってくるって言ったわよね。二人の継娘は宝石やドレスをおねだりしたのだけど、灰かぶりが父に頼んだのは何だと思う?」
「……何?」
「小枝を一本」
「―――――」
「彼女はそれを母親の墓前に供えたわ」
アンが絶句する。そんなの知らないと言いたげに首を振るのも見えた。
「この童話は残酷でしょう? 子供の頃は、そんなことも知らずにいた。これが女の物語だというなら、男は薄情な裏切り者。……アン、両親がいないのだって様々よ。子供を産んで直ぐ病死したのかもしれない。経済的な事情で泣く泣く誰かに託すしかなかったのかもしれない。あるいは…… もう一度聞くわ。親を恨んだことはない?」
[……随分、酷な質問をするね]
悪魔が言う。こちらの意図が計りかねるというように。
「あなたに代わって聞いてあげたまでじゃない」
[それはありがとう]慇懃無礼なおじぎをしながら悪魔。[参考までに聞いておこう。君はどうだい? 君も両親がいないじゃないか]
「私たちは捨てられてなんかいない」
両親の残した沢山の本が、私と兄様を支えているのだから。
[じゃあ、こう言い換えようか。君が灰かぶりだったなら、この父親を許すことができるかい?]
「……いいえ」目を細め、私は首を振った。
[そうだろう]満足そうに、悪魔は笑った。[女ならば誰だってそうだ。だから、亡き母のことなど忘れて血の繋がらない継娘達をさも彼女と同列に扱おうとする父親に、灰かぶりは母親の墓前に供えるものを、せめて小枝でいいからと父親に頼んだのだろう。新しい家族には洋服だろうと宝石だろうと分け与えてあげられるけど、古い家族には与えてやれるのは道端の小枝程度でしょう、とね。なんと辛辣な当てこすりだろうね。実に女らしい陰険な当て擦りだ]
「――――――」
何がおかしいのか、けらけらと笑う悪魔の声に、私は黙って耐えていた。
[きっと、サンドラセバスもそうだろう。そぅら…、その子も]
「……見くびるなよ、悪魔」
怒りの溶けた声は思いの外低く、そして言葉はどす黒かった。
「だから男は馬鹿だと言われる。男があんまりお喋りだと、浅はかなのがばれてしまうわよ」
[負け惜しみを……]
「負け惜しみじゃない。勘違いしているのよ、根本から。灰かぶりは、父親に当てこすってなんてない。墓前に供えるとは言わず、ただ『小枝が欲しい』と言ったのよ」
[何故?]
「恨んだり妬んだり当てこすったり、そんな娘じゃないから。……私の“サンドラセバス”だって……」
長い……長い逡巡の後、アンはゆっくりと首を振った。
「恨んだりしないように、私は女優を目指したのよ」
静かに。私の不躾な問いかけに、彼女は笑ってさえいた。
「ええ、リディアに言われて今分かった。私、自分を誇れるようになりたかったんだ。そうすれば、届かない幻と比べて落ち込むこともないから」
「うん」
私は同意するように、大きく頷いた。その私に、アンは「ありがとう」と礼を言った。私のおかげで気づけたと、そう思っているらしい。
[馬鹿な……]
私の背後に立つ悪魔の驚愕が聞こえる。
「あの童話では……」私は振り返りもせずに言った。「『気立てよくしていなさい』と、灰かぶりの母親は言っていたわ。彼女はその遺言通りに育った。女性の嫌な面ばかり目立つ物語の中で、彼女だけが嫉妬や憎悪という感情を克服していた。母親の墓前の前で泣くことはあっても、それは妬みではなかった。サンドラセバスもそう。だからこそ、魔法使いの助力も得られたのでしょう?」
[あのくせ者の魔法使いかい? サンドラセバスにタブーを与えた]
「………」
悪魔の嘲笑に、私はしばし思考を巡らせる。
サンドラセバスならば、そんなタブーを乗り越えられる。しかし、魔法使いの正体は分からないままだ。
先を行くアンがふと足を止めた。寝静まった街の、誰もいない小さな広場。建物の影から免れる月光の降り注いだその場所は、街という自然のステージのようだった。友人は、その私しか観客のいない舞台の真ん中で、舞うように身体を翻した。
「でも……」顔を上げた先。「まだまだ届かないなぁ……」細く白い腕を挙げ、その先の掌を真っ直ぐに伸ばす。
私は、彼女が伸ばした掌の先に目をやった。
そこは大きな公会堂。この街で最も大きな劇場に数えられる。彼女の掌は、その屋上の、翼を模したモニュメントを指していた。
「ドロシーさんはね、あの屋上の縁を歩いたことがあるんだって」
「え……?」
まず高さを見た。お芝居用に作られた一階のホールが広いので、二階建ての屋上でも普通の建物ならば四、五階ほどの高さに届く。落ちれば、まず間違いなく命を落とす。そこまで考えて、「何の為に?」という疑問が浮かんだ。ただ危ないだけの場所のように思う。
アンは私のそんな疑問を表情から読み取ると、くすっと笑って教えてくれた。
「いつかこの劇場で主演をやるんだって目標があるから。最初に一番高い場所から、見下ろしておきたかったって……言ってたな。だから、芝居の中心に居ても、あんなに堂々と振る舞えるのね。私、少し分かる気がする」
私にはよく分からなかった。芝居の世界に生きると決めた人はみんなそんなことをしたがるのだろうか。
「ああぁ! 急に不安になってきたな。ドロシーさんみたいにできるかな」
突然煩悶し始めるアン。……いや、突然でもない。パーティの間中ずっと不安そうにしていたのが、私にはよく分かっていた。
「私、ピぃくんみたいに演技上手じゃないし、ゾロみたいに感情を乗せたりもできないし、ロキやリトラーみたいに肝が据わってない。リディアみたいに役になりきることもできないし、ドロシーさんみたいな度胸も……」
私は、彼女の唇に人差し指を当て、その先を遮った。
「いいの、そのままで。アンはそのままで十分素敵よ。みんなに無い、良いところがちゃんとある。だから、積み上げてきた努力に背を向けるようなことはしないで」
「でもでも、それじゃあ分からないよ。『そのまま』って、私はどうしていればいいの? 稽古じゃあいつも緊張で声が震えるのよ。王子様を前にして台詞が飛んでしまうことだってある。感情だけが抜け落ちてしまうことだって。……にっちもさっちもいかなくなっちゃうと、どんなおかしなミスだってあり得るのよ。舞台の上でそれじゃあいけないんでしょう? でも私……」
「―――――――
いつも気立てよくしていなさい」
す…っと、その台詞が出ていた。ついさっきまで考えていたからに他ならないが、しかし彼女に掛けてあげられる言葉として一番相応しいようにも思えた。
「気立て…よく……?」
アンは、まるで魔法にかかったかのように、その台詞を繰り返した。
「そう。灰かぶりの童話で、母親が娘に残した遺言よ。『神様を信じて、いつも気立てよくしていなさい。そうすれば、神様はお前を助けてくれるし、お母さんもお前を見守っていてあげるよ』 彼女はそれを忠実に守って、……どうなったかは知っているでしょう?」
コクン、とアンは言葉を理解したばかりの幼い少女のように頷いた。
思えばこれも約束事。悪魔の言葉で言うタブーに違いない。けど、彼女はそれを頑なに守り続け、そして舞踏会の日、母の墓前にて美しいドレスとガラスの靴を鳥たちから受け取るのである。
……ああ、そうか。
私はふぅと、胸の内に籠もった熱を冷ますように、大きく息を吐き出した。
幼い頃に読んだ時には気づかなかったが、つまりドレスや靴は亡き母が娘の為に与えた、とも解釈できる。
そして、この古い“灰かぶり”の童話には、魔法使いに相当する人物は登場しない……
正体など、分かり切っている。そしてサンドラセバスもそうなのだ。
「ねぇ聞いて、アン」
私は未だ自信の無い友人にその解釈を告げる。
「煤まみれの魔法使いは、サンドラセバスの父親なのよ」
「え……?」力なく、聞き返すアン。
「死んだ後も、愛する娘を見守ってくれていたの。……きっと、アンの両親だって、力を貸してくれる」
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