#10 タブーと孤独
事態の収束は思いの外早かった。ロキが仕込みをした料理に目印を施していることを白状したからだ。それらを避け、辛いものは平気だというゾロとドロシーが食べ、苦いものはおおよそロキに喰わせ(二つ目でギブアップしたが)、甘い物は新たに入れた紅茶と共にみんなで食べた。そうして料理が片付いてくると、書蔵店のホールの時間はゆったりとしたものへと変わった。
アンがドロシーの所へ行くと、何やら演技指導とか心構えとか、そういった教示が始まり、そこにゾロが巻き込まれる。ロキは先ほどのダメージがまだ残っていたようで幾分おとなしくなっていて、ピぃくんはさすがに少し悪いと思ったのか気遣いに寄っていった。
私は兄様の側でまた本を開いていた。兄様と私と同じく、賑やかな中に参加していくより、それを外側から見ている方が好きだったはずだ。
「向こうは賑やかで楽しそうだね」
「私は静かな方が好きです。ここは図書館なのに……」
開いた本にため息を落とした。
「リディア、今だけは違うよ」
また本を読み始めた私を窘める兄様。
「今日は景気づけ、舞台完成の前祝いなんだから、リディアも騒いだっていいんだよ」
私は仕方ないとばかりに本を閉じて、傍らの兄様を見上げた。
「私は[珊瑚占い]の団員ではありません」
何か言いたそうな兄様に先んじて私は反論を続ける。
「大体、兄様がいけないんです。台本について何にも教えてくれないから、こんなにも読み解く時間が必要になるんです。前祝いどころか、……アンなんて、未だに手袋と靴のどちらを落としていけばいいのか分かっていないに違いないわ」
私のその例えに、兄様は楽しそうに笑ってみせた。
「アンはあのままでいいのさ。……きっと、アンがサンドラセバスのモデルなんだろうね」
[自分で書いておいて、おかしなことを言うね、彼は]
兄様と同じ顔をした悪魔が、隣で呆れたというような仕草をしていた。私はそれを睨み付けると、直ぐさま表情を整えて兄様の方を見上げる。
「私もそうだと思ってました」
[……君はそのうち顔が二つになると思う]
無視しても黙らない悪魔に、その目の前を掠めるように爪で引っ掻こうと手を振った。
無論、悪魔に触れることなどできないことはよく判っているから、これはただの威嚇だ。身振りをわざと大きくし、その場で踊るように身を翻し悪魔が見えない兄様の目を誤魔化す。
「アンはきっとこの街のどんな人よりもサンドラセバスに似ている……って。そうでしょう?」
「……リディア、どうしたんだい?急に」
「ええ、ちょっと視界にゴミが」
「視界に……?」苦笑いする兄様。
[ゴミ…………]こちらは同じ声の悪魔。
「そんなことよりも、兄様がサンドラセバスのお芝居を書いてあげたのは、やはりアンの為ですか?」
「アンを見ていたら、サンドラセバスの姿が思い浮かんだのは否定しないけどね。……でも、お芝居は所詮お芝居だ。せめて、お芝居の中だけでも……うん……彼女の夢が、幸せであってくれたらいい」
淀みながらも兄様は不思議な言い方をした。「彼女の夢」と。
“彼女”とは、アンのことだろうか? ならば“夢”とは、女優として名の売れたアンを、生みの親が見つけ、……娘を捨てたことを後悔させてやるという、ささやかな復讐のことか。しかし、勿論お芝居のサンドラセバスにそれを思わせるシーンは無いし、そもそもその目標はアンがこっそり私だけに教えてくれたことで、兄様は知らない筈。
では“彼女”とはサンドラセバスだろうか? しかし、サンドラセバスの夢というのにも疑念が生まれる。義娘でありながらも使用人と変わらない立場を強要され、そしてそれを幸せと受け入れた彼女に、果たしてアンのような夢があったのだろうか? 境遇から親を恨み、ささやかな復讐をしてやりたいと思っていたのだろうか?
……無いとは言えない。いや、むしろあって当然と思える。今兄様は言った。「芝居の中だけでも彼女の夢が幸せであってくれたら」と。ならば、やはりこの物語は不幸だった少女が幸せを掴む物語だということ。決して悪魔が曲解するような悲劇ではない。
私は無意識に悪魔の姿を探した。彼の悔しがる姿を見たくて。しかし、肝心な時に悪魔の姿は無かった。
「脚本でできることなんて、こんなことくらいだ」
兄様が謙遜するように笑った。
「ええ、でもそれはとても素敵なことだと思います」
兄様の脚本は好き。読み解く程に深くなるから。
「ありがとう」兄様が優しく微笑む。「他でもないリディアがそう言ってくれると、脚本を書いて良かったと思うよ」
……私は少しだけ複雑だ。こうして兄様はまたこの本屋から離れ、万感の拍手と照明が照らす舞台の上へ行ってしまうから。私ばかりが、グリムウッドの書棚に忘れ去られてしまうようで……
私と兄様は同じだった。同じ家で、同じ本を読んで、同じことを感じて……
例えば今ここで私が「兄様のお話は滅茶苦茶です。作家には向いていません」と言えば、またここに戻ってきてくれるだろうか……だなんて、おかしなことを考えてしまう。それはもはや無駄なことだけど、もしも兄様を迎えに来た[珊瑚占い]の人達を追い返したなら、……とか、私はそんな心の狭い妄想を幾度考えたか分からない。
[へぇ、役を違えたね]
「!」
突然聞こえてきた悪魔の声。これまで姿を消していたアンティノーゼは、嫌がらせのように、兄様の隣に同じ姿勢で座っていた。
「……どういう意味?」
それまでのふわふわした気持ちも立ち消え、私はぞっとする程冷たい声で聞き返した。
[ある日のこと、少女の元に大仰な一団が尋ねてきました]
彼は演技掛かった調子で語り始めた。
[先頭に立つ身なりのいい者は、片側だけの靴を差し出し少女に尋ねました。『私はこの靴にぴたりと合う者を捜しております』……]
所々ぼかされてはいるが、それはあの有名な童話の一場面。……いや、王子様が手に持っているのはガラスの靴だけど、手袋でも靴でもどちらでも構わない。
これは、童話に重ねた『サンドラセバスの結婚』の一場面に違いない。
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王子が昨夜共に踊った運命の女性を探しに城下へと下り、たった一つの手がかりを手に町中を訪ね歩く。
一夜限りの魔法はサンドラセバスの残した手袋とて例外ではない。儚い夢のごとく醒めた手がかりは、汚れた手袋が一つ。それは昨夜の出来事が夢幻であったことを示し、そしてまた同時に、昨夜の彼女は確かに居たのだという証拠ともなった。
魔法が解ければただの汚らしい手袋。身の証しにもなりはしないし、そもそも見つけたところできっと妻とするには不相応な身分の女性に違いなかったが、それでも王子は、その持ち主を“尋ね歩いた”。
「この手袋の持ち主をご存じないでしょうか。その人は昨夜の舞踏会に現れ、名も告げずに立ち去ってしまったのです」
果たして、この問いかけに誠実に応えた者がどれだけいたことか。城下の町人は皆、この王子が婚約者を見初める為に舞踏会を開いていたことを知っている。もし自分が選ばれれば玉の輿に乗ることができると、揚々と着飾りお城へ出かけていった人達である。例え哀れなサンドラセバスという心当たりがあったとしても、それを教えてやる義理など無い。しかし……
====================
[この少女には心当たりがありました。きっとその靴は、自分の友人である灰かぶりの彼女に違いありません。さて、少女はどうしたのでしょう?]
悪魔は私の耳元に唇を寄せ、囁く。
[たった一人の友人の幸せを願い、きっとこの王子様が彼女を連れ出してくれると信じて、彼女を苛み続けるあの家のことを教えてあげた?]
にぃ…と、悪魔は笑った。
[それとも、]
「やめて……」
[同じ境遇の友人が、自分の側を離れて幸せになるのが嫌で、妬ましくて、『そんな人など知らない』と嘘を言った?]
そう……私は、劇場へと飛び出そうとする兄様を、この書蔵に留め置くことができた。
端役なんかじゃない。私の役は、サンドラセバスを幸せに導く要役じゃないか。“私”の返答次第で、結末は大きく変わったに違いない。
兄様の時もそう。私は兄様の脚本をいち早く読み解き、そして兄様を励まし続けた。だからこそ兄様はこの本屋を離れて劇作家を目指した。でも、もし……
―――兄様のお話は滅茶苦茶です。作家には向いていません。
もし、兄様を留めたいが為にそんな嘘をついていたなら、兄様は演劇にのめり込むこともなく、劇作家としての才能も、ずっと私の傍らで眠らせたまま……私は兄様と時が朽ちるまでこの書蔵で一緒にいられたかもしれない。
だけど、私は……
「……無駄よ、アンティノーゼ」
私は呟くように、しかし強く悪魔に反論する。
[どうしてだい?]
「当然、“私”はその迷いはあったろうけども。でもサンドラセバスはどんなに苛められたって継母達を悪く言わなかった。嘘で虐めをやり過ごすことすらしなかったし、友人しかいない場で愚痴や悪口を零すことも無かった。
“私”はそれを隣で見てきた。
サンドラセバスのそんな誠実さに励まされ、そして憧れてもきた。ここにきて彼女を妬んで裏切るようなことは絶対にない。だって、彼女はこれまでどんなに不幸な境遇に苛まれ続けていても、誠実な心を失くさなかったのだから。……私はただこう思う。私もまた彼女のように誠実でありたいし、サンドラセバスは、今度こそ幸せになるべきだって」
そんな気持ちで、メノウ家の邸宅を指し示したに違いない。彼女を虐げるあの冷たい檻から、優しい友人を解き放つ為に。
兄様だってそうだ。私は兄様と語らう物語を通じて、沢山の素敵な想いを貰ってきたのだ。そんな兄様を私の不誠実で縛りつけることなんて、できる筈もない。
「不思議なものね。血の繋がらない継母、ずっと続く虐め、女を家に閉じ込める家事、そして儚い魔法と破られた禁忌……一見悪意に満ちた物語だったのに、友人の好意がなければ、サンドラセバスは幸せになり得なかった。……いいえ、友人だけじゃない。魔法が解けてなおサンドラセバスを探し続けた王子も、魔法使いだって。この物語は、こんなにも愛に満ちてるじゃない……サンドラセバスは、みんなに助けられて幸せになるんだわ」
しかし……
悪魔は含みのある表情で笑う。
[ククク……うん、それでいいんじゃないかな]
不敵に。だけどきっと答えを知っているわけではない。悪魔が私を笑うのは、私自身がこの答えに疑問を抱いているからに他ならない。この悪魔はそうしたもやもやとした形のない疑念、不安につけ込んでくる。もう一歩進んだ解釈を促す。
[だけど、忘れないで欲しいね。サンドラセバスに破滅の象徴たるタブーを与えたのがその魔法使いだ。サンドラセバスはその約束を破ってしまった。そして王子の愛は……本来の婚約者に背を向けた彼の愛は、果たして誠実と言えるのかな? それは、君の憧れる誠実さに釣り合うものなのかい?]
「それは……」
私は答えに詰まった。
そう、禁忌を扱う物語の多くは、それを破る自業自得とも言える不幸へと堕ちることで、物語として成立する。……言い換えれば、物語にタブーが出てきたなら、それは必ず破られ、主人公は破滅する。
灰かぶりにおいても、最初はタブーなど存在しなかったのが、書き直されるたびに門限がついた。今では、時計塔を背景に王子の手を振り切り駆け出す主人公の挿絵がもっとも有名の筈だ。しかし王子は魔法の解けた彼女を見てはいないし、読者もただ魔法が解けるというだけでタブーに当たるとまでは思っていないだろう。
しかし……兄様の書いたサンドラセバスは、明確にこのタブーを抱えている。
「家人より後に帰って来てはいけないよ」
魔法使いは彼女にそう告げた。そしてこの約束は、何度もアレンジされてなおうやむやのままだった灰かぶりとは違い、はっきりと破られることになる。
[サンドラセバスは、必ず破滅するよ。あの食わせ物の魔法使いと取引をしたその時に、運命は決まった]
「―――――」
躊躇した後、私は反論する。
「破滅から抜け出す物語が、一体いくつあると思ってるの?」
[禁忌を破ってなお幸せを掴んだ物語はほとんどない]
「皆無ではないでしょう。それに……これは兄様が書いた『サンドラセバスの結婚』。私はその結末を既に知っているのよ」
私が笑うのを見て、悪魔は反対に笑みを引きつらせた。
[それは……ズルくないかい?]
「ズルくない。兄様は違うみたいに言ってるけど、灰かぶりがモデルで、不幸な境遇の少女が幸せを掴む物語なのは間違いないでしょう。そんな物語の禁忌なんて乗り越えられるの」
[………]
今度は悪魔が黙る番。私は構わず続ける。
「破戒による破滅が禁忌物語の定番なら、こっちの定番も分かるわね? ……多くの物語の主人公は不幸な境遇故に、必ず他人よりも“強い”。これは精神的なことだけじゃなく、時には肉体的にも超人とさえ言える力を発揮する事がある。けど、それ程の強さを持っていながら、ハッピーエンドには一歩及ばない。いつも、必ず、その一歩が足りない」
私は逆に悪魔に問いかける。完全に立場が逆転していた。
「では、その足りない一歩って何? 彼らの末路を幸福へ至るまで押し上げたものは? 分かる?」
[そんなものは様々だ。決まってはいない。親の形見の宝石だったり、遠くで待つ恋人の言葉であったり、思いがけない友人の行動だったり……そうだ、突然現れた全くの他人であることすらも。……幸福への最後の一歩など、決まってはいない]
「ええ。確かに。でも、共通することがあるの。殊更に強い主人公というだけでは、決して得られなかった一歩」
私は悪魔に答えを促すようにじっと見つめた。
アンティノーゼは、何も言わない。知らない筈がないから、口にしたくないだけなのだろう。……私はそんな悪魔を鼻で笑う。
「それは“他人”……自分以外の誰かの助力よ。強くても幸せになれない主人公には、これだけが足りない。孤独だったと言ってもいい。……人は決して、たった一人では幸せになれないのよ。考えてみれば、禁忌物語の主人公もそう。禁忌を抱えると人はどうしたって孤立しがちになるわ。でも反対に欲望はどんどん肥大化していく。一線を越えてしまえば、友人を置き去りに、不幸の谷底へ真っ逆さま」
[全部が全部そうじゃない]
「でも完全な的外れでもないでしょう。じゃあ、サンドラセバスはどう? 彼女は孤独な禁忌物語の主人公? 孤独だったかしら? 違うわ。最期の場面には“私”が王子様を案内するんだから」
私は悪魔の封じ込めを確信した。悪魔の焦りが見えていた。彼は、苦々しい表情のまま私をじっと睨み付けている。
[そうだね……]
やがて悪魔は降参するように両手を上げると、ふっと穏やかに笑った。
[君がいれば、サンドラセバスは悲劇へ転落するのを免れるのだろうね。なら、その通り、決して彼女から離れないことだね]
「……何それ? 新しい禁忌のつもりかしら? それともただの負け惜しみ?」
問いかけるも悪魔は答えなかった。
腑に落ちないながらも、私はこれでいいのだと思った。
====================
“私”は、サンドラセバスを幸せに導く役割があった。
“私”だけではなく、彼女を舞踏会に導く魔法使いや、彼女を捜すために城下へ下りた王子様も。
不遇な運命に置かれながらも家人に尽くす姿に魔法使いは感銘を受け、王子は煤けたミトンに働き者の美しさを見出した。
“私”を励ましてくれた少女は、自分よりも不幸なのに、その悲運を嘆くことも人を妬むこともなかった。
みんな、彼女の誠実さと勤勉さに惹かれた人達ばかり。
ああ……、彼女にはこんなにも支えてくれる人がいる。
でも“私”は、
…きっと…、
明日も明後日も、
ここで同じ日を繰り返す。
サンドラセバスが抜け出していった毎日を、
ただ夢もなく生きるだけ……
====================
「リディア」
自分を現実に引き戻す声。私は本から顔を上げた。
途端耳に届く、パーティの喧噪。私の周りだけ幾分静かで乾いていた。
ドロシーが見える。ピノキオが見える。ゾロが見える。ロキが見える。そして、彼らの助言をひたむきな表情で聞き入るアンも。
「どうしたんだい? 悲しそうな顔をしているね」
今も思考がはっきりしない私を、兄様が心配してくれた。「気のせいです」と言おうとした言葉を止めた。
もう一度、アンの姿に目をやると、私は一度目を閉じて呼吸をしてから、今日ばかりは素直なその口を開く。
「いえ……、サンドラセバスが少し妬ましかっただけです」
「――――――
………そうか」
兄様は私の言葉に一度驚いて見せたが、やがて満足そうに微笑み、何も言わなくなった。
きっと、アンは夢を叶えるだろう。[珊瑚占い]のみんなが、彼女を幸せに導いてくれるに違いない。
そんなアンが、私には少しだけ遠く感じられた。
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