#8 サンドラセバスとアン


「随分考えたのよ、私も。だけど正直言って、まだ誤解しているような気がするのよ。サンドラセバスという女の子のこと。ひょっとしたらこの先ずっと理解できたという気にはなれないのかもしれないわ」

 私の部屋に入るなり、一つしかない椅子に腰を下ろしてアンはそう言った。私はベッドに。これが、アンが遊びに来た時の定位置である。ピぃくんの座る椅子がないが、緊張気味に部屋の中をキョロキョロするばかりで気にしていないようだ。


「……意外だな。本棚が一つしかない」

 随分勝手な想像をしていたらしい。それを聞いてアンが笑った。

「でしょう?」お前もか。「この家の本はみんな書蔵店所有なんだって。だからその本棚の中もリディア所有じゃなくて、一時保管場所ね。ならどうしてこの部屋の本棚に本が増えていくのかが不思議なのだけど」

「本だけじゃないもの。……勉強した時のノートとか」

「そうそう。勉強熱心よね」

「アンはどこかずれてるからなぁ」ピぃくんは呆れたようにため息をつく。「……とは言っても、今夜になって演技を変えるのもどうかと思うけど」

 何しろ本番は明日だ。例え今夜役のイメージを修正できたとしても、練習している暇は無い。私は大きく頷いた。

「……わ、分かってるわよ」少し狼狽えながらアン。「だからリディアに聞いてるんじゃない。リディアならきっと、練習が必要無いくらいの解釈ができそうな気がするし」

 え…? 皮肉?

 二人の間で行き交っていた視線が突然私に集まり、今度は私が狼狽える。

「……それは分からなくもない」

 ピぃくんが同意する。どういう意味だろう。

「だけど、突然イメージを変えたりしたら、みんなの迷惑になる」

「分かってるってば。でも難しいのよ。童話の印象が刷り込まれちゃってるから。子供の頃に憧れたガラスの靴。そのままでいいならリディアに教えて貰うまでもないことだけど、そんな筈がないでしょう? 落としていくのは手袋よ。私、手袋がガラスで出来てるのかと思っちゃった。……あー、いいわよねぇ、ピぃくんは童話のままなんだから」

「……そんなこともないぞ」

 ピぃくんは呆れ気味に肩を上下させた。


 ちなみにピぃくんの役は、メノウ家の末娘。サンドラセバスの義妹で、嫌味たらしく彼女を虐め抜く役。……女の子の役である。

 次の芝居が例の童話の再構成と知って彼も薄々と予感してはいたらしいが、いざ脚本が出来上がりその役が正式に言い渡されると、彼はこう呟いたそうだ。

「…またスカートか」

 うんざりしていたらしい。しかし、さっきアンティノーゼと話していた通り、この話はどうしたって女性の物語。女性の役者が足りない現状、兄様も機会さえあれば誰でも女装させるつもりで役を決めていたに違いない。これを免れたのは、たとえドレスを着たって女性には見えそうにないゾロと、何故か王子役に決まった兄様の二人。当初、いつものようにゾロが男主人公……つまり王子役をやる筈で、兄様は魔法使いと、義姉役か舞踏会に来た女の端役を兼任する予定だったのだが、王子役をやるには最近少し太ってきたことを指摘されたゾロが「そりゃ悪かったな。たまにはお前も重い役をかじれ」と臍を曲げてしまった為、兄様は女装を免除されることになったというわけだ。


 しかもこの王子役の変更のせいで、対するヒロイン役までもが大いに揉めた。相手役がリトラ兄様ならと、ドロシーがヒロイン役をやりたいと変更を願い出たのである。しかし、主役まで変更となれば脚本の大幅な修正が必要になると、周囲の説得に宥められながら主張を引っ込め、当初の予定通りハイヴェシア姫役はドロシーが、サンドラセバス役は(ドロシーの嫉妬も一緒に買いながらも)アンと決まった。

 私としては、兄様の女装姿が見られなかったのはがっかりだが、王子様の格好も捨てがたいので良しとした。


[いっそゾロにハイヴェシア姫役をやらせればいい]

 ここぞとばかりに悪魔が囁く。

[そうなれば王子が姫を嫌がる理由が一目瞭然だ]

 ……それはもう喜劇だろう。野太い声で笑う筋肉質な体格のハイヴェシア姫と、彼女(?)に追い回される王子様を想像して、私は思わず吹き出してしまった。



「もう、リディアったらどうして笑えるの? 私がこんなに困っているのに」

「あ、うん……ごめんなさい、……本当に」

 ここには居ないゾロにも謝り、私は大柄な姫様のイメージを永久に破棄することにした。気を取り直して……

「要するに、童話との違いを聞きたいのね?」

「うん、そういうこと。手袋とガラスの靴以外のことも」

「迷惑ならそう言えばいいぞ。聞いてばっかじゃ成長しねぇもん」

 意地悪を言うピぃくんをアンは睨み付けていた。私は首を振って答える。

「迷惑なんて。私も丁度調べてたところから」

「リディアもぶっつけ本番かよ。……いや、リディアはいつものことか」

 元々ただの助っ人なので舞台稽古にはほとんど出ない。台詞も動きも少ない端役なので、前日に台本を読んで予習しておくだけだ。

「リディアはそれでいいのよ。……それで、サンドラセバスは王子様を待つおとなしい女の子とは違うの?」

 アンもそう思っていたらしい。私は、まずそのイメージの訂正から始めた。


 少女の勤勉さや誠実さ。魔法使いが助けてくれたのは、あくまでもその褒美であるということ。

「……もっとも、これは童話の中でも描かれている最も大事な要素。勘違いも多いけど、もともとこれはそういうお話」

「子供向けの教訓ってことね」

 ……私が悪魔と向き合って辿り着いた見解を、たった二言で片付けてしまうアンが少しだけ憎い。気を取り直して咳払いを一つ交えて、私は続ける。

「兄様の脚本でもその部分はさらに強調されてる。サンドラセバスの言葉遣い、近い境遇の友人を励ましてあげたり」

 その友人というのが私の役である。近いお屋敷の下働きの女の子で、彼女のたった一人の友人。「近い境遇」なんて言っても、サンドラセバスの方がもっと酷い仕打ちを受けている。それでも彼女は、落ち込み泣いている“私”を笑顔で励ましてくれるのだ。

「動き出した家具が家人を罵ってサンドラセバスを褒め称えたり。それから、過酷な仕事で汚れたボロが、美しいドレスに変わるのもそう。馬車は彼女が世話していた野良猫だしね。王子様もそんな事を言っているでしょう。汚れたミトンも家事や労働を表わしてる」

「優しくて働き者……ということね。どんなに過酷な仕事を押しつけられても、彼女は不平一つ言わないものね。私なら投げ出してしまいそうだけど」

「性格のことだけじゃないぞ」

 突然ピぃくんが補足してくれた。

「サンドラセバスは元々貴族の……つまり裕福な家に生まれていたんだ。それをメノウ家に奪われて、彼女はどんなに努力しても抜け出せないような立場に貶められたんだ。しかも虐められながら生きていくしかなくなった」

「そう」私は大きく頷く。「それでも彼女は清廉な心を持ち続けた。……よく気がついたね、ピぃくん」

「僕はその虐める役だからな」

 不満そうにピぃくんはそっぽを向いた。

「嫌でも気づくよ。年下の義妹にすら使用人以下の扱いをされて、その上サンドラセバスから、親の形見の宝石を奪うじゃないか。それが自分の生まれを証明したかもしれないのに」

 あ……

 ピノキオの言葉に、私は重要な事に気がついた。確かに兄様の脚本にはそんなシーンがある。


 メノウ家の実娘達が舞踏会に出かけていく為に着飾り、義姉達はこぞって宝石のアクセサリーを奪い合った。結果、末の娘にだけは一つの宝石も残らず途方に暮れていた。その時末娘は、サンドラセバスの胸元に綺麗なブローチのあるのを見つけ、それを奪っていくのである。「似合わないブローチをしているのね。あなたみたいな端女にこんなものは必要無いでしょう?」と。そのブローチは貴族だった両親の形見であり、両親の記憶どころか自分の生まれすら知らないサンドラセバスにとっては、自分の出生を辿る唯一の証だった筈なのだ。


 ……この物語は、焼け落ちる屋敷の中、ゾロの演じる貴族が娘を逃がす場面から幕が上がる。宝石はその時に赤子に託され、以降物語の前半までサンドラセバスの胸元で一際輝いている。それはもう、義妹の台詞ではないが「端女には似合わない」程だ。

 私は最初、このブローチは王子が迎えに来るシーンにでもサンドラセバスに返却されるのだろうと思っていた。そしてそれは、本来彼女が一国の王子と結ばれるに相応しいだけの身分であることを証明し、二人が婚約を決めた後も立ち塞がる隣国のお姫様に対抗しうる“証し”となるのだろうと。これも物語ではよくある話。

 しかし、予想は大きく裏切られ、義妹に奪われたブローチは、最後の場面で放り投げられたきり二度と持ち主の手に戻って来ることは無い。サンドラセバスは、自分を虐げるメノウ家によって、その身分すらも完全に奪われてしまう。………


「ピぃくんすごい……私気づかなかった」

 思わず呟いていた。

 照れたように目をそらすピぃくんの後ろで、アンティノーゼが笑っていた。[今頃気づいたのかい?]とでも言いたげに。

「うん、きっとそうだよ。サンドラセバスは身分の低い召使いって考えた方が正しい。養子なんて名目は無意味だ」

「召使いって言えば、名前もそうだよね。“サンドラセバス”…って、すごく使用人っぽい響きに聞こえる。どんなに汚れても忠実でいなさいとか、絶対反抗してはいけないとか」

 アンが言った。それもまた、私は気づかなかったこと。私は何度も頷いた。

「きっとその名前もメノウ家が付けたのでしょうね。最初のシーンで、貴族のお父さんが娘の名前を呼ぶこともないから。本当の名前かどうかも分からないもの」

「だとしたら、彼女は本当の名前まで奪われていたってことね。可哀相。家族も名前も過去も奪われて、代わりに与えられたのがニセモノの家族と惨めな名前と見窄らしい扱いと立場だなんて。家を滅ぼしたのもメノウ家に違いないわ」

「そこまでは分からないけど、……分からないけど、そうかもしれない」

 私も次第に興奮してきた。

「サンドラセバスは貴族の身分から堕とされ、ただひたすら働くしかない下女にまでなった。……極めつけは魔法使いとの約束。」


  ====================


「私はお前が世に希な働き者だから手を貸すのだ。だから家人より後に帰って来てはいけないよ」

 魔法使いは神妙な顔でそう告げた。

 ドレスに浮かれるサンドラセバスに釘を刺すように。


  ====================



「童話を知っていれば、お城の舞踏会への参加が、酷い境遇から抜け出すチャンスだということも分かるわよね? なのに、そこに向かう間際でさえも彼女は家人として勤勉であることを求められた。だって、魔法使いは奪われたブローチに代わる宝石を用意してはくれなかったし……」

 考えてみれば衣装にも、煌びやかな宝石はついていない。捨てられたブローチの唯一性を示す為だとしても、そのブローチが彼女の手に戻って来ることも無い。それこそ魔法で取り戻すことも出来ただろうに。

 まるで唯一の助け人である魔法使いさえも、彼女を下女の立場に押し込めようとしているかのようだ。私がそんなことを考えていると、それまで黙っていたアンティノーゼが口を開いた。


[魔法使いだけではないよ。魔女だって少女の労働を尊んだ]

「それはどういう……」

[まだ答えを聞いていなかったね]戸惑う私を無視して悪魔が尋ねる。[魔法使いか魔女かでどう違うんだい?]

「―――――――――」

 私は返答に窮した。まだ、何も分かっていないということだ。


「だけど」アンの明るい声が私を正気に引き戻した。「最後にその手袋が彼女を幸せに導いた。王子様はサンドラセバスのそんな勤勉さを褒めて、彼女と結婚したんだから」


 ……でもサンドラセバスが王子様と結婚したのかは分からない。

 喉まで出かかったその言葉を、私は飲み込んだ。それはサンドラセバスを演じる友人を混乱させるだけだと思ったから。


「でも、可哀相なサンドラセバス。幸せにはなれないのかもしれない」

 アンが突然真逆のことを言い出した。私はどきりとした。

「どうして?」

「魔法使いがこういう不思議な条件を付ける事って、よくあるでしょ。どうしてそんな条件を付けられるのか、最初はよく分からないようなの。そういうのが出てくる時って、簡単に守れそうなのに、いつも最後はちょっとした油断で破っちゃうでしょう? それでさらに酷い境遇に墜とされて、『幸せにはなれませんでした』って終わり方になるじゃない。……調子に乗った主人公の自業自得なんだけど」

 見落としていた新しい要素。

 確かにそれは、他に見られる禁忌ものの童話にも似ている。

「サンドラセバスは、魔法使いが出した条件を守れなかったでしょう? 『家人より後に帰って来てはいけないよ』っていうやつ。王子様が引き留めたのが原因の一つに思えるけど、でも約束は約束だから、本当なら彼女は幸せになる事はできなくなって、きっとこの時のことをいつまでもじくじくと責められ続けて、女中のまま、この家で終えるに違いないのよ。ああ、可哀相なサンドラセバス……」

「……実際、彼女も『私には過ぎた幸せでした』って、諦めてる」

 私は相づち代わりにそう補足した。

「……彼女は幸せになれないのかしら…」


 …………

 議論がおかしな方向にずれてきていることに、私は気付いている。ただの妄想で、脚本にはそんなことは書かれてはいない。そう、兄様の脚本では、本当は……

「そんなことはないよ。王子様がいるじゃないか」

 それを指摘してくれたのは、ピぃくんだった。

「魔法の解けたミトンを目の当たりにして、それでも彼女を捜しに城下へと繰り出したんだ。……きっと、この時にはもう心に決めていたんだろう。ハイヴェシア姫を振り払ってまで行ったんだから。タブーを破らせたのが王子様なら、魔法が解けたサンドラセバスを幸せにできるのも王子様なんだよ」

 ほんの僅かな沈黙。そして、アンが突然笑い出した。

「なんだよ! 何がおかしんだよ!」

「ごめんごめん。……いや、ピぃくん、ロマンチックねぇ。スカートを穿けば、きっと今すぐだって乙女になれるわ」

「わ、笑うなよ!」

 真っ赤になりながらピぃくん。

 そう、ピぃくんは怒っていい。さすがに失礼だと思うから。


[ピノキオの身体はいまだ夢で出来ているのさ]

 悪魔の真意不明な囁きに私は思わず顔をしかめた。

「……どういう意味よ」

[さぁ? いつか勇敢な男の子になれるといいね]

 ピぃくんの顔を見る。彼は、とても悔しそうな顔をしていた。

 ……生まれ持った体格を厭い、スカートを穿くことにため息をもらすピぃくん。

 私は、少しだけ彼のことが理解できたような気がした。


 そうなると、放っておけないのはアンの無神経。……この二人、明日の舞台では立場が逆転するというのに。

「じゃあ、アンはピぃくんみたいには思わないの?」

 逆に聞き返すと、アンは得意げに頷いた。……なるほど、浅慮に笑っていたわけではないらしい。

「王子様なんて関係ないわ。きっと灰かぶりもサンドラセバスも、もっと強いのよ。そんな運命に負けないくらい」

「そんな大雑把な」

 ……ピぃくんが呆れ顔で突っ込む。私も頷いた。

「あら、だってこれは女の子なら誰だって一度は憧れた話よ。女の子が主人公なんだから、幸せになるなら王子様じゃなくて女の子の方に理由を付けるべきだわ」

 ……納得できない顔をしていると、アンが補足してくれた。

「そもそも、童話では『二十四時に魔法が解ける』というだけで、帰る約束をしたわけではないでしょう? タブーという程のことじゃないわ。きっと効果だって弱いのよ」

「でも、兄様の脚本ではそれがはっきりと約束になってる。そして、サンドラセバスはそれを守れず継母に叱られるシーンすらある。……」

「「「うーん……」」」

 三人揃って考え込む。


 ……いや、ならば逆にこんな解釈も出来ないだろうか?

 サンドラセバスは、魔法使いとの約束を破ったが為に、恋敵であるハイヴェシア姫を完全に排除することができず、完璧な幸せを手にすることはできない。……と。

 すなわち、バッドエンド。サンドラセバスは、境遇から抜け出し幸せを勝ち取る結婚をできずに一生を終える。

 戦慄した。私は、助けを求めるように二人を見た。その奥で、悪魔が不気味な笑みを浮かべている。[それでいいんだよ]と、物語を嘲笑っている……

「違う! そんな筈はない!」

 兄様がそんな話を書くはずがない。私は自分に言い聞かせるようにそれを否定した。しかしアンティノーゼは……兄様と同じ顔をした悪魔は、唇の形だけで私に囁く。

[物語はそのほとんどが悲劇なんだよ]

 いつか彼の言った台詞が、薄笑いを浮かべた唇から音を伴い零れる。その後は、こう続いた。

[あまねく全てを手に入れ、天敵を亡くした人間が、わざわざ本の中に悲劇を作り上げたのさ]



「リディア……?」

 気がつけば、そんな私をアンとピぃくんが心配そうな表情で伺っていた。

「どうしたの?大丈夫?」

「うん、だいじょうぶ。平気よ」

 そう…平気だ。ただ、一度にいろんな事に気がついたから、少し混乱しただけ。

 私は、悪魔から目を反らすと、心配してくれた二人に微笑み、わざと強がってみせた。

「二人ともすごいね。……きっと私一人じゃ考えつかなかった」

 後ろの言葉は自然と零れていた。

 悪魔の囁きに惑わされ、すっかり悲劇に囚われてしまった私と違い、二人は物語を肯定的に捉えている。禁忌も恋敵も運命も関係無しに、きっと物語はハッピーエンドとして理解される。私にはそれが羨ましかった。

「……なんだか、今日のリディアは弱気ね。しっかりなさいな。どうしたの? 何かあったの?」

「え……?」

 見れば、アンは傍らから、俯く私の顔を覗き込んでいた。

「私が気づかないことを教えてくれる……無知な私はそれを拝聴するだけ。リディアはもっと自信満々でもいいのに」

「いいんだよ、別に」

 と、ピぃくん。アンが抗議するように彼の方を睨み付けた。

「今からすっかり役ができあがってるんじゃないか。前日なんだから、当たり前だ」

「でも……」

「リディアはそういうタイプだよ。それも極端な。稽古も振る舞いや立ち位置の確認も必要無い代わりに、本を読んで役に没頭していく……もう“役”ですらなくなるくらいにね。実際、これまでもそうだったじゃないか」

「そうなのかな……」

 これは私が呟いた言葉。自分ではよく分からない。ただの端役だから、稽古に出られなくてもなんとかなるんだと、私は思っている。

 再び表情を曇らせた私を見て、ピぃくんは突然立ち上がる。

「試してみようか?」

 ふふんと悪戯っぽい笑みの一瞬の後……それは、底意地の悪い、見下した表情へと歪んで堕ち、目の前に腰を落としていた私とアンを睨め回す。


  ====================


「――――鈍くさい子」

 口から飛び出したのは意地の悪い声。

「小汚くて、見窄らしいのはお揃いで。お義姉様にはお似合いのお友達じゃありませんか。ほほほ」

 背伸びした身振りと態度。台詞と目つきは嫌味に満ちた、メノウ家の末娘。“彼女”が、目の前に立っていた。

「あなた、何を……」

 戸惑う友人に詰め寄り、“彼女”は手に持った*で彼女の頭を打ち付けた。

「自分のやるべきこともやらずにここで油を売って、口だけは達者ですのね。誰に似たんですの? お義姉様の親の顔が見てみたいものですわ」

「わ……私……は」

 親の事を言われ、友人は苦しい表情を浮かべる。

 彼女が責められる謂われはない。彼女は、私が落ち込んでいるのを見て励まそうとしてくれただけ。それなのに……

「そっちの子も、捨て犬同士でじゃれてないで、お仕事に戻ったらいかが? せっかく拾われたのに、こんなところできゃんきゃん泣いてるだけじゃあ、野良犬と変わらないわよ? 恩返ししてこその捨て犬じゃあなくて?」

「こ、この子は関係ないでしょう」声を上げて私を庇う友人。

「待って、いいの。ありがとう、“サンドラセバス”」

「―――」

 その彼女を止めて、私は立ち上がった。お尻についた枯れ草を払い落とし、手早く身なりを整える。

 これ以上は、彼女に迷惑をかけるだけ。私はもう沢山の励ましを、彼女から貰ったから。

 戸惑う友人を押しのけて、私はメノウ家の末娘に頭を下げた。

「……私がいけなかったんです。もう、戻りますから、」


  ====================


 パン!


 両の掌が合わさり、さっきまでの情景が文字通りに閉じられた。

 今私の目の前には、両手を合わせたままのピぃくんが立っている。指には何故か鉛筆を持って。

「……まるで催眠術だ。大丈夫?リディア」

 彼が呆れ気味に私の方を見た。隣では、アンが戸惑い気味に私とピぃくんを見比べている。

 私はまだ頭がぼうっとしている。

 辺りを見回す。見慣れた部屋と天井。机には今回の台本も見える。鉛筆はピぃくんが持っていて、さっきアンの頭を軽く打ち付けていた。

 背後にはいつも寝起きしているベッド。気を落ち着かせる為に腰を落とすと、思いのほか力が抜けてそのまま倒れ込みそうになった。

「え?うそ? 二人ともいつの間に打ち合わしてたの?」

 戸惑うアンに、ピぃくんは平然と答える。

「打ち合わせなんかしてない」

「だって、台本にないでしょう?」

「即興だよ。近い場面はあるだろ? それにリディアの役を入れて絡めたんだ」

 そう、年下の義妹にさえ虐められるシーンが確かにある。そこに別宅の使用人である私の役の出番はない。

 しかし、もしあったのなら、目下の者を虐めることを母親から教え込まれた義妹のこと。きっとこの使用人にもサンドラセバスと同じように見下していたに違いない。そして、友達想いなサンドラセバスは逆らえない立場ながらもそれを庇おうとして、一方で“私”は…………

 …………


 思考が止まる。無意識に演技をしていたけれど、私自身自分の役について、きちんとした理解を得ていないことに気がつく。

 気弱な使用人で、サンドラセバスの友人で、落ち込む度に彼女には励まされている。ただ、それだけ。

 もし先ほどと同じ場面が挿入されたなら、きっとさっきと同じことを言うと思う。私を庇う彼女に迷惑をかけられないと、強引に自分を立ち直らせて、そそくさと自分の仕事場に戻るに違いないけど、……それがどういう心情で取った行動なのか、私はまだおぼろげにしか理解できていない。


[しっかりしなよ]

 見れば悪魔が楽しそうに笑っている。

[君の役は、彼女の勤勉さや誠実さを知る第三者なんだから。そして、最期には彼女のもとへ王子様を導くんだ。それはサンドラセバスを不幸な境遇から連れ出す、大事な大事な役だ]

「………」

 劇団[珊瑚占い]における私は端役ばかり。しかしこの『サンドラセバスの結婚』に関しては、私は彼女の友人というこの役を、物語の要だと思った。ただその理由は、まだはっきりと理解できてはいない。私はまだ何も分かっていない……

「アンこそ、全然併せられなかったじゃないか。明日は本番なのに、本当に大丈夫なのかい?」

「うう……私にも『いいんだよ、それで』なんて優しい言葉を掛けて欲しいわ……」

「甘えない」

 アンより経験豊富なピぃくんが戒めるように告げる。私にはそれが可笑しくて、くすっと笑ってしまった。

「アンは、そのままでいいと思う」

 ニュアンスを変えながら、私は彼女を慰めた。

「ありがとうね、持つべき者は親友ね。誰かさんとは大違い」

「……僕は結構本気で心配なんだけどな」

 私も本気で言っていた、……とは言わなかった。このままのアンの方がいい、と思ったから。

 きっとサンドラセバスもアンと同じように、親の事を言われて戸惑い、しどろもどろになりながら友人を庇ったに違いないから。

 アンは、誰よりもサンドラセバス役に相応しい女の子だから。

 やがて、私たち三人を呼ぶ声が、部屋の外から掛かった。



 ……私だって心配していないわけではない。いつだって明るく元気な私の友人は、初めての主役にあまりにも気負いすぎていると思うから。

 さっきピぃくんに言われたことも、かなり気にしているのが私には分かる。突然主役を任されてドロシーのように完璧以上に演じきることなどできはしないだろう。勿論、それができるドロシーは人並以上の努力と研鑽を重ねているわけだけど、アンだってそれをしてこなかったわけではない。アンがドロシー以上の努力家であることを私だけは知っている。あまりそういう印象を周囲から持たれないのは、努力家以上の明るさと、その努力という経過の不器用さによる。……多分、彼女は努力や研鑽は一人で、…たった独りだけでするものだと思っているのではないだろうか。

 アンは、努力家で、朗らかで、真っ直ぐで、そして時々孤独で…… 

 それこそ、サンドラセバスのようだと、私は思う。

「兄様は、それを分かってて彼女をこの役に抜擢したのかしら」

[もちろん]

 この場にいない兄様の代わりに、同じ顔の悪魔が微笑んだ。

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