#6 ドロシーとハイヴェシア姫
兄様の本当の名前は、リトラー・フェルトと言う。私が縮めて呼んでも怒られないのは、言葉を覚えたての頃からその名を呼んでいた妹の特権である。特に、私たち兄妹は何年も前に両親を共に亡くし、以来ずっと二人きりの家族で暮らしてきたのだから、そこいらの兄弟関係よりもさらに距離は近く、強い絆で結ばれている。
家は両親の代から書店を営んでおり、彼らがまだ若かった頃からあちこちを廻り集めに集めた本が、住み処と言うより拠点として確保した広いだけの建物の中にぎゅうぎゅうに収まっている。友人達に「本で出来た家」と揶揄されるその建物こそ、私たち兄妹の生家であり、私たちを育てた知識の森。
『書蔵店グリムウッド』
芸術都市と称されるこの街でもそれなりの規模の古書店であり、公営の図書館が中心を挟んだ向こう側にあるせいで、近所からも親しまれている私営の図書館でもある。私たち兄妹は、早すぎる両親の死と共にこの莫大な資産と責任を相続した。
とはいえ、当時の私はまだ幼く、数年間は兄のリトラーがたった一人で(それも幼い私の面倒を見ながら)経営していた。私はそんな兄様の姿を見て、一日も早く兄様の助けになりたくて、駆け足で大人になった。沢山の本を読み、沢山勉強した。本の修繕をし、本の分類・整理をしていった。両親の残した本はそれはそれは膨大で、今日までの営業上の本の出入りはあっても、そこにどんな本があるのか、あるいはどんな系統で以て分類されているのか、私たちは把握できていなかったのである。ましてや、兄様が一人で本の販売・仕入れなどをしていると、そうした整理が滞るのも当然で、その役目は自然と私が行うことになった。
幸いにして本を読むことは好きだった。兄様の経営の手が空いた時に一緒になってする分類作業は、時に物語の評論へと変わり、さらにはそれを基盤とした別世界の空想へと脱線しながらも、私にとってかけがえのない程の有意義な時間だった。膨大ながらも終わってしまうにも惜しいその作業は、完了までに数年を要した。
ところが……目録完成の目処が立ち、私も成長してそれまで兄様の領分だった経営を私自身が手伝えるようになった頃、私の大切な兄様は、一体何を血迷ったのか、書蔵の経営を全部私に押しつけて、突然劇団を立ち上げてしまったのである。………
劇団[珊瑚占い]という、一風どころか相当変わった名前のこの劇団は、衣装係も大道具係も決まっていない。役者六人で運営する小規模な劇団。本屋の兄様は、親しい友人に脚本を書いてくれないかと誘われ、あっさり引き受けたのだ。……思うに、読むのに飽きて書いてみたくなったのだろう。
最初一時の道楽かと思われていた劇団は、その後人を集め(しかし六人より増えることもなく)、様々な人の手を借りながら、今日まで細々と活動を続けられている。兄様の脚本書きも、……私にとっては不本意ながら、すっかり板についてきてしまったようだ。
『サンドラセバスの結婚』は、劇団[珊瑚占い]が本格的に演じる中では六つ目の舞台であり、その脚本は勿論兄様が書き上げた。もとっも、六作目にしてあまりにも有名な童話からの引用であることと、そして少女の頃には誰もが夢見る物語の配役を巡り、いくらか騒動が起きたらしい。
……気持ちは分からなくもない。
何しろ兄様ときたら、配役なんかはある程度決めながら脚本を書いている節があるのに、その意図となると団員はおろか、妹の私にも教えてはくれない。したり顔で微笑むだけ。連日芝居の稽古をしている筈の団員達も、兄様を飛び越えて私に脚本の意図を相談しに来る程だ。
「……いい加減、教えてくれてもいいと思うのですけど」
「何がだい?」
兄様はとぼけているわけではない。本当に自分の周りにいる者の心の機微が分からないのだろう。
[紙に書かれたインクしか見えない魔法の眼鏡なのさ]
同じ顔の悪魔でさえ呆れている。
「あなたの眼鏡だって不機嫌な私が映らないじゃないの」
その悪魔を睨むと、彼は肩をすくめて見せた。
視線を戻せば、兄様が挙動不審な私を怪訝そうに見つめていた。私は慌てて言葉を繕う。
「……その……今回の脚本の意図です。明日にはエイハブさんの前で最後の予行演習なのでしょう? どうしてあの有名な童話を今更……」
言い終わる前に、リトラ兄様はふっと笑った。
「たまたまさ」
「兄様のきまぐれなのですか?」
首を傾げて問う私を見て、兄様は首を振った。
「いや……“たまたま”、世間じゃあこういう話が有名だったってこと。……リディアには意味、分かるね?」
私は、自分の考えが合っているのかどうかも分からないまま、小さく頷いた。
「まぁ、傲慢ね」
すると、奥から私たちの語らいに乱入してくる声。
「自分のはあくまでオリジナルで、意図せずに件の童話に似てしまった、なんて言うつもり? “たまたま”なんて言い訳を理解してくれるのは、身内のリディアだけよ」
厨房から現れたのは、大きなバスケットを両手に持ったドロシー。料理を詰めてきた弁当箱と、それを盛りつける皿も見える。
彼女は劇団[珊瑚占い]の筆頭女優であり、面持ちこそ幼さは残るが、堂々とした立ち居振る舞いや、よく通る、それでいて喜怒哀楽の乗った声は、既にベテランの貫禄さえ見せる才溢れる女性だ。少なくとも兄様を叱咤できる程には彼女の感性は独特である。[珊瑚占い]という不思議な名前も、彼女が名付け親だと言う。
思いの外可愛らしいエプロンを兄様に見せびらかすように、踊りながら彼女はテーブルに料理の皿を並べていく。ここに来る前に作ってきた料理で、できたての暖かさは無いが、とても美味しそうに見えた。
兄様はどことなく楽しそうなドロシーに微笑みを返すと、肩をすくめて見せた。
「傲慢なもんか。この店をごらん。この街にはこれだけの物語が溢れ返っているんだ。みんなが驚く誰も見たことのないような物語なんてのは、もはや存在しないだろうね。僕は最初から諦めている。そんなことで勝負するつもりなんかこれっぽっちもないんだ。なまじ知識があるから、どんなものにも似ていない話を考えたら、何も書けなくなってしまう。だから僕は、物語でコラージュを作る」
私は、兄様の脚本のその感覚は理解していた。
『サンドラセバスの結婚』だけではない。兄様が今までに書き下ろしてきた脚本はどれも、何処かで読んだ事のあるような場面が多かった。
多分、兄様の中にテーマがあって、それに関係する物語を沢山集め、繋ぎ合わせながら物語を作っているに違いない。
しかしながら、本人がコラージュだと言ったその繋ぎ方は、やはり独特だ。みんなにも一つの形は見えているだろうし、兄様と同じだけ本を読んできた私には、その欠片の元の形や気持ちの色合いまでも見ることができるのに、そこに至った背景や道筋、全体の枠が今もまだ見えてはいない。それは恐らく、今見えている形よりも重要で、兄様の描いた絵は背景を抜きながら主題を浮かび上がらせるような、そんな技法によって描かれているのだろう。
………絵についての例えばかりで私自身も直感ばかりでよく分かっていない。兄様こそちゃんと自覚して脚本を書いているのか、疑問に思えてくる。
兄様の方をちらりと伺うと、彼は私の方を見てニィと不気味に表情を歪ませた。
「っ!」
一瞬悲鳴を上げそうになった。
……違う。兄様は、そんな邪悪な笑い方などしない。
自分に言い聞かせれば、直ぐにそれがアンティノーゼだと気がつく。
「……何のつもりよ」
[コラージュじゃなくてキメラだなって思ったのさ。……まったく不気味な怪物を作ってくれる]
嫌がらせのようにそう言うと、アンティノーゼは漂うように私の視界から消えた。彼が退いた後には、生き生きとした目でドロシーと談笑するリトラ兄様の姿があった。
「他の誰よりも本を読んできたつもりだ。ゾロの奴だってそこを買って僕を誘ったんだ。みんなには悪いけどこのやり方でやらせてもらうよ」
「悪いなんて思ってないわよ。……そうね、言い過ぎたわ。ごめんなさい。でもオリジナリティならちゃんとあるわ。今回の脚本も、童話に似た部分ばかり目についちゃうけど、ちゃんとリトラーらしいところも詰め込まれてるもの」
「君にそう言って貰えるとほっとする。書くときはいつも熱に浮かされて、本当にこれでいいのか分からなくて、迷子になったような気分になるからね」
「…………」
二人のそんなやりとりから目を反らし、私は手近な本棚から本を抜き取り、棚に寄りかかるように腰を下ろすと本を開いて目を落とした。哲学書だった。しかし読むそばから内容が頭から抜けていく。内容が難しいからではない。
[可愛らしい嫉妬だね]
悪魔が言う。
[いつまでも君だけの兄様じゃないよ]
「分かってるわよ、そんなことくらい」
悔しくて口を結ぶ。
「……私の前で、あんな顔をしてみせたこと、ない」
本で顔を隠し、兄様の表情だけを盗み見る。ドロシーと一緒の兄様はとても楽しそうで、きっと私がこうして話の輪の外に出たことにだって気づいていないに違いない。
[妹に見せる顔と、恋人に見せる顔は違うさ、当然]
悪魔は言う。
[不満なら言ってあげるといい。『兄様のスケベ!』ってね。目を醒ますかもしれない]
「兄様を侮辱するな」
睨み付けると、兄様と同じ顔をした悪魔は何処かへ漂って消えた。
私はドロシーの顔もこっそり覗いてみた。
彼女もまた、兄様と同じくとても楽しそうにしていた。
兄様とドロシーがいつからそんな関係になったのか、書蔵に籠もってばかりいた私はきちんと把握していない。
兄様の書いた物語のヒロインを彼女が演じるうちに、兄様が恋に落ちたのだろうなんて勝手に思っていたけど、そんなありがちな話すら今となっては疑わしい。兄様がドロシーの前で見せる表情は、私に「劇団を立ち上げて脚本を書く」と言った時のものと全く同じ表情だと気がついてしまったから。
……いけない被害妄想はどんどん拡がっていく。
最初に劇団を立ち上げたのは、兄様とその親友のゾロの二人。しかしドロシーもまたその頃からの友人であり、この劇団では最古参の女優でもある。何しろ劇団の名前[珊瑚占い]は彼女のアイデア。だとすれば、彼女もまた劇団創設に深く絡んでいると考える方が自然だろう。この小規模運営ののんびりとした劇団内で、彼女だけが出世欲が強い。出会った当初から、自分はいつか大舞台で主演女優になると仲間たちに憚ることなく言っていたほどだ。
……彼女こそが純朴な兄様を誘惑し、演劇へとそそのかした張本人ではないか。彼女こそが、グリムウッド書蔵店から兄様を奪った泥棒猫に違いない。
と、私にはそう思えてしまう。だから、正直に言って私は彼女をあまり好きではない。兄様が好意を寄せていることすら許せない程に。それが、行き過ぎた独占欲と被害妄想から来るただの逆恨みでしかないことも、……ちゃんと分かってはいるのだけど。
[皮肉だね]
悪魔は笑う。
[王子を奪われ嫉妬するハイヴェシア姫。その姫にすら嫉妬する名も無き女中か]
「ごっちゃにするな。私はサンドラセバスじゃないわ。ドロシーさんだって、一体誰に嫉妬するっていうのよ。両想いなのに」
[だといいね]
パタン!
私が不機嫌に本を閉じる音は、談笑する兄様とドロシーの間に、思いの外容易に割り込んだ。どうしたの?と言いたそうな二人の視線を尻目に、私は手早く本を棚に戻すと、早足で台所に向かった。
「……台所を手伝ってきます」
「ああ、ごめんなさい。あんまり話しすぎたわね。私も……」
「いいえ、ドロシーさんはゆっくりしていてください。一応私の家で、お客さんですから」
ぞっとするほど冷たい声が出た。きっと当てつけか皮肉のように聞こえたことだろう。私は、なんて嫌な子なんだろう……
自己嫌悪から振り返りもせずにいると、視線の先で悪魔がゲラゲラと笑っていた。
『サンドラセバスの結婚』
兄様の書き下ろし、アンティノーゼが不完全だと言ったこの脚本には、いくつか腑に落ちない点がある。
それの最も大きなものが、“彼女”の存在である。“彼女”とはすなわち、ドロシー演じるハイヴェシア姫であり、劇中では王子の元の婚約者にあたる。国益を願う家臣達によって勝手に決められた王子様の結婚相手がこの隣国のお姫様であり、王子はこの尊大な姫を嫌って舞踏会を催し、そしてサンドラセバスを見初めるのである。
サンドラセバスが姿を消した後、王子は彼女が残した手袋を見せ、かつての婚約者に絶縁を言い渡す。ハイヴェシア姫は、王子が見せた薄汚いミトンを見て大笑いし、口々にその幻のような娘の悪口を言うのだが、王子の決意が揺るがないと見ると嫉妬心を剥き出しにし、ついには激高する。王子はそんな姫を背に、城下へ、サンドラセバスを探しに行くのである。…………
王子の結婚に主眼を置くならば、彼女はヒロインのライバルにあたる重要な役。ところが、これはいくら原作を紐解いてみても、彼女と同じ立場にいる人物は何処にもいない。完全に兄様のオリジナルである。
ならばさぞ重要な役回りなのだろうと思うかもしれないが、……私から見れば、別に居なくてもいい存在に思える。当然だ。童話では居ないのが普通で、それで完成している。しかし兄様の脚本での彼女は、ドロシーが演じるのも手伝って、ただの当て馬に収まらない存在感を有している。きっとこのプライドの高いお姫様は、王子に振られたことを根に持ち、王子がサンドラセバスに求婚した後も、非情な手段で二人の邪魔をするであろうことが容易に想像できる。つまり、ハイヴェシア姫がいるせいで、二人の終幕後の苦難が見え隠れするのである。
この役を演じるドロシーもさぞ困惑したことだろう。あるいは、それまでこの小さな劇団のマドンナだった彼女には屈辱だったかもしれない。
[おや? 今度はドロシーに同情的だね]
悪魔が囁く。
「全く違うわ。きっと兄様が信じられなかっただろうな…って」
[じゃあ逆にいい気味だと?]
「それも違う。……さっきの二人を見たでしょう? もうドロシーさんは気にもしてない。兄様の考えも分かる。この役を任せられるのは、ドロシーさんしかいないのよ。私も、ドロシーさんなら、難しいハイヴェシア姫の役をこれ以上ない程に演じきってくれると思う」
[同感だね]
ドロシーの演技力はこの劇団でも抜きんでている。本人が公言している通り、本来ならもっと大きな、本格的な劇団のヒロインを目指すべき人であり、彼女自身もそれ相応の努力ができる女優なのだ。知恵も、心も、度胸も、彼女は貪欲に求め続け、結果ではなくその道程を以て勝ち取ってきた。そして、幕が下りて舞台袖に帰ってなお、彼女は驕ることなく求め続けることができる。
私はそんなドロシーを知っているからこそ、あの脚本を読むたび、ハイヴェシア姫の台詞を目で追うたびに、舞台上に翻る優雅な姫の姿と、尊大で傲慢な声が、……あるいは、婚約者に拒絶された屈辱の金切り声までもが、目の前で繰り広げられるように想像することができるのである。そして、本番での彼女の演技が、そんな浅はかな想像などはるかに凌ぐであろうことも、私は知っている。
「だからこそ、ドロシーさんがハイヴェシア姫を演じるのは、皮肉という他ないのだけど」
[相手が相手なだけに、ね。まったく、不気味な“キメラ”じゃないか]
悪魔は独り言のように呟いたが、皮肉が私に聞こえるように言っているのは明らかだ。
何しろ、ハイヴェシア姫に背を向け、運命の女性を探しに行く王子様の役は、他ならないリトラ兄様が演じるのだから。
[君にとっては笑いが止まらないだろう? 舞台での話とはいえ、君の嫌いなドロシーが、君だけの“兄様”に振られるのだから]
私は肩で大きく息を吐いた。私はただの端役。そもそも王子と結ばれる運命にはない。
「さっきも言ったけど、私はサンドラセバスじゃないわ。王子さまは私なんか眼中にもないのよ。……尋ねて、通り過ぎるだけ」
私なんて所詮端役でしかない。
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