#5 本の悪魔と兄様


「リディア」

 突然に名を呼ばれ、私は体を震わせる程に驚いた。持っていた脚本がバサリと大きな音を立てた程だ。

 よく知った声。私にとっては一日中耳にする。その姿を少しだけ探し、私は直ぐ目の前に立っているその人に気がついた。

 白髪交じりの銀髪と銀縁眼鏡。くたびれたコートと履き古した靴。それらの記号を、まだぼんやりする頭で急激に組み立てていく。

「――――リトラ兄様……?」

 名前を呼ぶと彼は微笑みながら頷いた。私はようやく、現実に引き戻される。


 ここはうちの書蔵で、私は独りで留守番をしていた。そこに、出かけていた兄が帰ってきたのだ。

 私は慌てて今開いていたページを隠すように抱きかかえた。兄様はそんな私の側を通り過ぎ、背負っていた大きな鞄を傍らの机に下ろす。

「リディア、行儀が悪いよ。床で本を読んじゃいけないって、何度も言っている筈だ」

「あ……ぅ……」

 私は言葉を失くす。

 それは私のいつもの癖である。最初は書棚から引っ張ってきた本を机に置き、その席について読んでいたのに、読書……特に調べ物に夢中になるにつれて、書棚から机までの往復を省略するようになる。床に本を積み書棚に背を預けて本を抱いているうちはまだ良いが、そのうちその姿勢も崩れ、ついには床に本を広げ、覆い被さるように読みはじめるのである。この様を見た友人は「本を食い散らかしている」と形容した。

「一応、ここの本は売り物だからね。君は忘れてるみたいだけど」

「忘れては……いません」説得力は無い。

 しかも兄はまだ許してはくれない。

「いや、忘れてるね。売り物っていうことは、ここにはお客さんが来るんだよ。……君はその格好でお客さんを迎えるつもりかい?」

 言われて、私はようやく気がつく。

 今朝は、朝起きてからずっと本を読んでいた。着替えた覚えはない。つまりまだパジャマのままなのだ。


「ごめんなさい……! お兄様、しばらくの間お願いします!」

 私は床に置いた本を抱えて慌てて自室に引っ込もうとしたが、直ぐにおかしなことに気がつく。

 着替えなかったのは、着替える必要がなかったからだ。

「お兄様! 今日は休業日の筈です」

「ああ、ようやく気づいたか」

 そう。今日は大口の取引があって休業日にしたのだけど、先方の都合で延期になったせいで丸々空いてしまったのである。

 意地悪。兄は分かってて言っていたのだろう。……とそう思ったのも束の間で、兄は呆れたようにため息をつく。

「じゃあ、その調子でもう少し思い出してみようか」

「え……」まだ何か忘れているような気がする。

「相変わらず、我が妹君は本を読み始めると意識が何処かへ飛んで行ってしまう。僕が呼び止めてもなかなか帰ってこない」

「あの……兄様……?」

「いいから早く着替えておいで。休業日だからってパジャマのままで居て良いわけがないんだよ」


 疑問に思うよりも先、バタンという大きな音が鳴った。

 玄関の扉が開く音。書蔵にしてはあまりにも騒々しい。しかし、“何処かへ飛んで行ってしまった”さっきの私は、その音にすら気づかなかった。

 間も無くもっと騒々しい音が聞こえてくる。箱を蹴飛ばしたり重い物をぶつけたりと、なにやらごちゃごちゃした足音。それはこの書蔵にはいささか賑やか過ぎたが、聞き慣れた楽し気な喧噪は、決して嫌な気分にはならなかった。……彼らが私の姿を見つける。

「やっほー、リディア、来たよー!」勝手知ったる親しげな声。

「ぱ……」なにやら喉に詰まらせた1オクターブ高い声。

「おー、くつろいでやがるな」わざとらしい脳天気な声。

「随分可愛らしいパジャマだね」場違いなほどさわやかな声。

「はーい、男どもは外外」落ち着いて、しかしながら軽蔑するような声。やがて明らかな作り笑顔で振り返る。「……ごめんね、リディア」

 私は悲鳴を上げながら自室へと逃げ込んだ。


 ……すっかり忘れていた。今日は、夕方から劇団のみんなが来てパーティをすることになっていたのだ。

 確かに、“直ぐに”着替える必要は無かったけど、読書もまたそれまでには終えるつもりでいたのである。準備はその後でも決して遅くなかった筈だ。……読書にのめりこみさえしなければ。

「リディア嬢は相変わらず、エキセントリックだな」

「恥ずかしい所を見せてしまった。すまないね、みんな」

 扉の向こうから聞こえてくる兄様のフォローが痛い。私こそ死ぬほど恥ずかしい。

「リディアったらあわてんぼう。靴忘れてるわ。部屋の前に置いとくね」

 一番の友人の大声が私にとどめを刺す。……もう放っておいて欲しい。

 自室の扉にもたれながら、火を吹き出しそうな程に熱くなった顔を、手に持っていた脚本で隠した。


[……そんなことをしてないで早く着替えたらどうだい?]

 そんな私に、呆れた声で悪魔が言った。

「うるさい。……半分はおまえのせいよ」

[はいはい、本を読んでいたんだからね、そういうことでいいよ。君の恥は読書よりも先に着替えてしまわなかったことだ]

 私はむくれながらも、何も言えなかった。

 八つ当たり気味に悪魔に向こうを向かせ、私は手早く着替えを済ませた。

 ……悪魔はいつでも私の側にいる。それを恥ずかしいという気持ちも、私の中には一応まだある。でも完全に慣れることは、きっと無い。

[恥ずかしいなら、兄の前でも恥じらうべきかと思うよ]

「兄様は兄様。……でもお前は悪魔でしょう。家族でも何でもない」

 私は念を押すように言った。

 誰に?

 それは勿論悪魔に。しかし、悪魔に言った言葉は全て自分への言葉……自分への戒めに他ならない。

 時にそうして悪魔を突き放さなければ、きっと私は本の世界に飛んで行ったまま、返ってこられなくなるだろう。

 私は悪魔を相手にする時は、普段使わないような汚い言葉と冷たい声で応対するようにしている。そうしていつも悪魔を拒絶しなければならない。

[寝間着姿や着替えを僕に見られるのは恥ずかしくないのかい?]

「本を読んでいる姿を見られるよりはね。……読書中、私は私じゃなくなるもの」

[愛しの“お兄様”の前では、さらに猫を被るんだから、はは、そりゃあ大変だ]

 着替えを済ませ、姿見の前に立つ。

 兄様と同じ銀髪。

 兄様と違う赤い瞳。……昔はこの瞳の色がいちばん嫌いだった。

 今は、表情に乏しい目つきの方が嫌いだ。笑うほどに、あるいは目を見開くほどに卑しいものになる、悪魔と同じこの目つきが。

[よく似合ってるよ]

 嫌味たらしく悪魔が笑う。鏡の中の私と悪魔は、リトラ兄様よりもよっぽど私と兄妹らしく見える。

 私はそれを無視し、鏡に背を向けた。わずかに着崩れていたスカートを直し、私は自室の扉を開けた。……が、途中『サンドラセバスの結婚』を忘れて慌てて引き返す。どうにも、意気込みばかりが空回りしている。


 靴を履いている間、どうにも書蔵が静かなことに気がついた。

 先ほどの場所まで行くと、兄様がたった一人で椅子に座り、私が散らかした本を開いていた。

「みんなは?」

「台所。場所を借りるんだから、料理は任せて欲しいそうだ」

 顔も上げずに兄様は言った。

「……大丈夫でしょうか」

 私が思わず呟くと、兄は「何が?」とばかりに顔を上げた。

「みんな、料理が得意そうな気がしません」我ながら失礼な見解だと思う。

「ゾロは借家に一人暮らしが長いから料理は得意だ。ドロシーも同じ。何度か弁当を作って貰ったことがある」

「お弁当……ですか」不愉快な気分になるのが自分でも分かる。

「ま、年長の二人ができるんだから大丈夫さ。ロキもいるしね。……それより、さっきは随分集中して読んでいたんだね。『サンドラセバス』かい?」

 兄は私の持っている脚本に目をやって尋ねた。

「はい。……読み解きを、していました」

「そうか。それで、何か分かったかい?」

 リトラ兄様が書いた脚本なのに、兄はいつもそんな聞き方をする。友人のアンは「意地悪だ」と言っていたが、違う。私は、そうして考えた空想を兄に報告するのがとても楽しみで、兄もまたそんな私の空想を(おそらく次の脚本の参考にするために)聞きたがっているのだろう。話題も自然と本の話になる。

 だから、この書蔵に兄と二人っきりでいられる時間は、私にとって最も幸せな時間だった。


「モデルになった話がありましたね。童話と民話。それらを比べていました。主人公はみんなサンドラセバスと同じような境遇で――――――」

 椅子に腰掛けた兄は、私の話を楽しそうに聞いていた。

「それから……」

[魔法使い]と、聞き慣れた声は、背後から。

「そう、魔法使い!」

[それから、虐めと家事、あと勤勉さと誠実さだ]

 言葉に詰まるたび私を促すのは悪魔。彼はいつだって私の直ぐ隣にいるのに、その姿は誰にも見えない。兄様は勿論、他のみんなにも。私以外の誰にも。

 あるいは誰かに見えているなら、一緒に悪魔に立ち向かうこともできたかもしれないが、見えなくて良かったと思うこともある。

 もし彼の姿が誰にでも見えていたなら、皆善良ではいられなくなるだろう。兄様と語らうこの時間も、きっと無くなってしまう気がする。対処法を知っているのも私だけ。

 ただいないものとして扱えばいいのだ。多少目障り耳障りでも、そうすることで悪魔の存在を私一人の中にだけ閉じ込めておくことができる。


「彼女たちは、みんなその勤勉さと誠実さを以て、魔法使いから報酬を貰うの」

 私は、悪魔に抗するようにわざとキーワードのいくつかを伏せた。隣では悪魔が「猫かぶり」と、私に聞こえるように呟いたが、無視した。

 やがて今日気がついた結論を告げると、兄は満足げに微笑み、私の頭を撫でる。

「うん、よくできたね。偉いよ、リディア」

 そして決まった台詞を、ご褒美のようにくれる。

「……兄様、私はもう子供ではありません」

 私が目を背けるのを、兄は照れ隠しと思ったことだろう。しかし、照れ隠しではない。

 背けた先で、あの悪魔がにやにや笑いながら私を見ていた。私は彼を、冷たく睨み付ける。

「そうだね、いつまでもガラスの靴を夢見てもいられない。……リディア。この脚本にはもっと沢山の解釈や意味を込めているんだ。それは劇場の客席からはなかなか気づけないことかもしれない。でも、きっと君なら気づけると思う」

[この脚本が、こうも不完全な理由にもね]

 悪魔が、兄様には聞こえない声で囁く。


 兄様と同じ声、

 兄様と同じ姿、そして、

 兄様と違う、いやらしい笑みを浮かべて。

「うるさい、黙れ」私の心の中の声は、悪魔にしか聞こえない。

[猫かぶり]くすくす笑う悪魔。

 白髪交じりの銀髪と銀縁眼鏡。その奥の赤い瞳が私を見ている。

 私にしか見えない本の悪魔アンティノーゼは、

 何故だか兄様と同じ顔をしていた。

 だから私は、猫をかぶって大好きな兄様に甘える一方で、口汚く悪魔を拒絶する。

 そうしなければ、本を読み始めた拍子に、現実か空想かも分からない何処かへ飛んでいってしまい、

 私に呼びかけるこの声が、本当の兄様が私を現実に呼び戻そうとしている声なのか、

 それとも本の悪魔がさらなる泥沼の奥底に引きずり込もうとしている声なのかも分からなくなり、

 終には二度と現実に帰ってこられなくなってしまいそうだから。

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