#2 廃墟の少女


 ……その“物語”はただただ読みづらくて……


 真っ白い姿の少女……アルビナは古ぼけた帳面のから顔を上げると、大きく息を吸い込んだ。そうすれば、せめてそれを書いた誰かのいた時間を、鼻の奥や両肩で感じられるのではないかと思った。

 それは便箋のような紙束だった。本を綴じる為の穴に微かに綴じた跡が見られるから、かろうじて帳面だったのが分かる。十枚に満たない……本と呼ぶには頁が足りないが、こうした紙自体は珍しくもないのだろう。

 紙が豊富なこの地方では本を修復・複製するためにこうした簡易に綴じた紙を用いる他、子供達が学舎で文字を練習したり、恋人や友人達への連絡など、日常生活にも広く普及していた。そうして、この街は本……特に芸術分野において大陸屈指の発展を遂げた。

 もっとも、それも過去の話だが。


 傍らに置いたカンテラの灯火が揺れる。白い少女の黒い影が、広い……大広間に積もった瓦礫に映り震えている。

 ここはかつて劇場の舞台であったらしい。幾人もの役者が立ち回り、連日多くの人々を楽しませていた筈だが、……今は誰も、何処にも居ない。壁は所々崩れ落ち、布類は腐り落ち、とても人が住めるような状態ではない。

 この劇場だけではない。内も、外も、この街に住む者は今や誰もいない。今は旅人として訪れた彼女と、その連れの男だけだ。半壊した石の建物と、真っ白に染められた景色、音一つない静寂が広がっているだけだ。

 この廃墟に入ってから今まで、アルビナ達はただの一度も生きた人間を見かけていない。


 大きな街だった。……聞いた話では、たった数日のうちに悪魔によって滅ぼされたのだといわれている。国で最も文化の咲き誇っていた芸術都市は、今や旅人や商人どころか、勇敢さを標榜する冒険者すら近寄ろうとしない死の街となっていた。近隣の人々は勿論、国の統治者ですら、たった数日で滅びたこの街、この一帯を忌避していた。


 旅人の二人は、劇場の、まだ天井の残っていた入り口広間に野営を張った。

 アルビナだけはさらにその奥の二階の舞台へと探索を続けていた。崩れた天井と破れ落ちた暗幕は、もはや在りし日の面影すら伺わせることすらないが、この廃墟においては形を留めている方だろう。何しろ屋根が残っているのだから。

 例の帳面は、そんな舞台の袖にひっそりと落ちていた。まるで崩壊の後、人知れず訪れた何者かが、そっと舞台袖に置いていったように。

 書いてある文もまた奇妙だ。まるで形をなしていない。これはまるで……


「誰かいるの?」

 突然に声をかけられた。再び目を落とした帳面からアルビナは顔を上げ、振り返った。

 舞台袖のさらにその奥に、女性の姿があった。

 小柄な、少女と呼んでも違和感のない程のあどけなさが表情に残る、アルビナより頭一つ分背が高い、おとなしい印象の女性である。

 旅装束のアルビナとは違い、彼女はゆったりとした寝間着にケープを羽織っている。そこから覗く細い手足や長い髪をまとめる為のキャップ、素足に履いたサンダルなんかを見ると、おとなしそうという表現を通り越し病的ですらある。


 アルビナは最初、例の悪魔かと思った。街を滅ぼした悪魔は女の姿をしていたという。しかし……違う。悪魔とはもっと狡猾で残虐で、そして人を陥れるだけの“力”を持っているもの。目の前の、今にも消え入ってしまいそうな儚げな少女とはどうにも印象が合わない。

「まぁ! 幽霊かと思った。ごめんなさい」

 お互い様。アルビナが微笑みながら挨拶を返すと少女も幽かに微笑んで返してくれた。

「こんばんは」

「こんばんは。……よく見たら妖精さんね。まるで御伽噺から飛び出してきたみたい」


 少女は、アルビナの僅かに先の尖った耳を見て言ったのだろう。実際、アルビナは妖精族の血を引いている、らしい。本物の妖精は、アルビナが生まれるよりもずっと前に人間に失望して森の中に隠れてしまったと言われている。

 アルビナのような存在は、現実に妖精と呼ばれる種族がこの世界に存在していたことの証明にはなるが、そういった血を引く者達ですら今ではもうほとんど見られない。実際、アルビナを「妖精」と呼んだこの少女も見たことはない筈だ。


「街がこんなになってしまってから、もう随分長い間、人と話をしていない気がするわ」

「お姉ちゃんはここに住んでるの?」

 お姉ちゃん、と呼ばれて寝間着の少女は一瞬呆気に取られたようだ。

「……ええ。私はリディア。街がこうなる前は本屋を営んでいた」

 なるほど、本屋。しかしこの女性は売るよりもひたすら読む方が似合いそうだ。

「あたしはアルビナ。旅しているの」

「まぁ、それは素敵。私も、旅をするのは好きよ」

 本屋の女は言った。きょとんとしているアルビナを尻目に、リディアは傍らの適当な瓦礫に座る。

「本屋さんも旅をするの?」

 リディアは微笑みながら頷く。

「私は家から出ることだって少なかったのだけど、家には沢山の本があった。本を開けば、いろんな国を旅できたわ。水筒の水ですら煮え立つような砂漠。飲んだ水の量以上に汗が噴き出るような密林。前が見えなくなる程の雪原の国と、その国で唯一雪の無い火山の頂。裸の王様が治める幸せの島国や、地の底にある真っ暗な国。壺の中にある小人の村に、巨人が独りで暮らす谷も。海の底には人魚の住む泡の王国が沈み、雲の上には天使のお城が浮かんでいる。それに妖精の森だって………ね?」

 なるほど。アルビナは思わず破顔する。

「旅をすることは国を尋ねること。私は本の世界ばかりだけど、アルビナは、そんな国々を実際に見てきたのでしょうね」

「あたしが行ったことのあるのは、人間の住む国だけだよ。リディアお姉ちゃんの方がいろんな国を知ってる」

「本があれば、いろんな国を知ることができたわ。その国の空気を呼吸して、その国の水に触れ、その国の言葉を話すことができた」

「すごいことだよ。リディアお姉ちゃんは、“本の旅人”なんだ」

 “本の旅人”。アルビナがそう評すると、リディアは嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、不思議な旅人さん。あなたと話しているだけで、辛いことなんかみんな忘れてしまえそう」

 お礼を言うと、リディアの笑顔は悲しそうに陰った。


「……私が本を旅している間に、この街は滅びてしまった」

 リディアは立ち上がり、舞台の中央でふらりと身を翻した。一流の女優とは違い、今にも倒れてしまいそうなつたない振りだったけど、それが独り街に残された彼女や廃墟となった街に相応しく思えた。

「ここは劇場だったわ。私の大切な人達が、毎日ここで脚本の世界を演じていた」

「お姉ちゃんも?」

「ええ。本業は本屋だったけれど、私も手伝いの端役で舞台に上がることもあったわ。少ない台詞と動作をほんの短時間だけの、居ても居なくてもいいような役。私は本屋だし本を読む方が好きだったから、主役を張る一流の女優のように喝采を浴びることなんか無くてもよかったのだけど、大切な友達と一緒の舞台に登ることも嫌いではなかった。だけど……」

 それまで安らかな思い出に浸っていた少女の顔が、突然悲しみに曇る。

「“悪魔”が全てを奪っていった」

「悪魔?」

 リディアはためらいがちに……いや、怯えと憎しみの入り混じった表情で頷いた。

「私が本の旅人なら、奴は本の悪魔。彼はいつも本を読む私の側にいて唆してきた。それこそ、本の旅から帰ってきた現実でも……ね」

「本の旅人と、悪魔」

 アルビナが相槌を打つと、リディアは少し困ったような表情を浮かべつつも、語り出した。

「興味があるのね。それなら、せっかくこの街に来たのだから、観光案内の代わりに聞かせてあげるわ。この街にはもう、そんな最低なお話くらいでしか旅人さんをもてなすことはできないのだから。楽しいこともあったかもしれない。悲しいことばかりではなかったのかもしれない。……でも、結末はもう決まってしまっている。そんな“悲劇”でもよければ」

 この廃墟で話し相手に飢えていたのかもしれない。それはそうだろう、と周囲の廃墟を見て思う。

 アルビナが聞く姿勢を見せると、リディアは溢れるように言葉を紡いでいく。


 彼女はアルビナの持ってきたカンテラに手をかざし、舞台袖を見た。そこに、数冊の本が平積みにされていた。その傍らに彼女は腰を下ろし、アルビナを誘った。アルビナもまた、カンテラと共に移動し、寄り添うように腰を下ろした。

「最初は……そうそう、確か……」

 リディアが取り出したのは深青色の本。表紙には『サンドラセバスの結婚』と白い文字が縫い付けられていた。

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