空蝉の声(小説新人賞最終選考落選歴二度あり)

牛馬走

短編

   空蝉の声


 夏の陽射しに墓石が色褪せ、影が濃さを増しているように見えた。

 彼岸の季節になり、母と妹の奈緒(なお)と一緒に父の墓参りに来ていた。今となっては、このときだけが家族が唯一揃う。――父は墓の下だが。

 傾斜した墓地に、線香の匂いがぬるい風に運ばれて漂い、蝉時雨が動き回る無数の鼠花火のごとく勢いよく響いていた。

 近くの駐車場に車を停め、母と奈緒は先に父の墓へと向かっている。

 僕は墓石を洗う水と、供える花と線香を買うために、墓地を一望に望む小さな店に来ていた。○○を望むという言葉には、何か小奇麗で希望に満ちたイメージがあるが、間口が狭いこの商店が面しているのは「終わってしまった証」だ。

 この位置からは、死角になって父の眠っている墓は見えない。

「すいませーん」

 蚊取り線香が、螺旋を描いて煙を立ち上らせていた。室内からは、祖父の家に似た乾いた畳の匂いがした。

「はーい」

 のんびりとした老婆の声が聞こえてくる。眼鏡をかけた白髪の老婆が姿を現した。

「水と線香とお供えの花を下さい」

「水と線香が五十円、花が三百円、計四百円になります」

 しわがれた声で老婆が応える。

 母から手渡されていた千円札を差し出した。

 老婆は思考停止したみたいに、じっと皺の寄った野口英世を見つめる。やがて、千円を受け取り億劫な様子でおつりを数えて渡してきた。

 水をたたえたバケツ、線香、菊を携えて墓地の斜面を登る。

 父が死んだ年、小学校五年の頃から五年が経っているが、視点の高さ以外代わり映えのしない景色だ。

 通路に中年ぐらいの男が、背を向けて立っている。

この暑さの中、背広を着て佇んでいるのが印象的だ。どこへ向かう訳でもなく墓地に突っ立っているのは不審だった。

 横を通り抜けるとき、ちらりとどんな顔か盗み見る。

「――!」

 思わず、足を止めた。心臓が早鐘を打つ。

 男の特徴である、見えているかどうか怪しい細くタレ気味の目は、毎朝、鏡で見ているものだ。

 急に立ち止まったことを怪しんでか、男が僕の方に顔を向けた。

「父、さん?」

 思わぬ事態に緊張で声が掠れた。男は顔のつくりは、僕ほぼと一緒だった。

 ――ガタン。

 バケツを落としてしまう。

「……あ」

 遺影から抜け出してきたかのうような、父に似た男が驚愕の表情を浮かべる。

「父さんだろ?」

 今度の言葉には確信がこもっている。見れば見るほど、父そのものだった。

 父らしき男の目線が宙を泳いでいる。

「……そうだ。お父さんだ」

 やがて、意を決した様子で男は頷いた。



 彼岸には死者が帰ってくるというが、死んだはずの父と僕は再会した。



「母さん、奈緒、こっちに来てみろよ!」

 慌てて母と奈緒を呼ぶ。目を離した隙に、父が消えてしまうのを恐れて視線はずっとその姿を捉えていた。

「何を騒いでるの?」

 通路の角から奈緒が姿を現した。中学二年の妹は、反抗期になりその対象を僕に定めている。冷めた声だった。

「あ……」

 切れ長の目を見開いて、奈緒が固まった。

「どうしたの?」

 奈緒の後ろから、母が顔を見せた。二人が並ぶと、似ているのがよく分かる。

 母も言葉を失って、茫然とした顔になった。長い睫毛が小刻みに揺れている。

「ただいま」

 父が二人に近寄って告げた。

 母の頬を光るものが流れた。



 母と奈緒、僕の三人で住むマンションの風呂は、父と二人で入るには少し狭い。

 風呂場で久しぶりに、父の背中を流していた。

 父の後ろ姿は随分小さく見えた。どうやら、背丈が並んだようだ。

 夕陽の光が窓から差し込んでいる。父の右脇腹に古い傷の痕が照らされていた。

 父の背中がどこか緊張しているように思える。墓地で再会してからずっとこの調子だった。どこか、よそよそしい距離のある態度だ。

 ――父さんは幽霊なのか? 

肯定の言葉を耳にするのが怖くて、疑問が胸の内で燻っている。

もし幽霊だとしたら、彼岸が終われば帰ってしまうのだろうか。

触れることもできる、足もある、否定する要素はたくさんあるが、父が五年前に亡くなったことも事実だ。

なぜなら、父の死を真近で目にしたのは僕だからだ。

二人で車で出かけ事故に遭い、僕は朦朧とした意識の中で大量の血を滴らせるその姿を目撃した。そのとき、脇腹に傷を負った。今の父とまったく同じ位置にだ。

「――ねえ、今日の晩ご飯、何がいい?」

 風呂のガラス戸越しに母が尋ねる。

「カツ丼がいいなー」

 父が嬉しそうに応えた。

 ――本当に父なのだろうか? ふと考えてしまう……。

墓地で遭遇したときは、思わず父だと思い込んだが。そもそも、死んだ人間が蘇るはずがない。

 だが、だとしたらここにいる父瓜二つの人物は誰だというのだろう?

「どうした、久則? 手が止まってるぞ」

「ちょっと、ぼーっとしてた」

 我に返り、父の背中をこする手を動かした。

「おいおい、のぼせたのか? 湯にもつかってないのに」

 僕に顔を向けて、父がやれやれと笑った。



「いただきます」

 食卓を四人で囲む。テーブルの上に載っているのは、カツ丼とお吸い物と漬物だ。

 父が箸を手にし、狐色のカツとご飯を口に運んだ。

 僕、母、奈緒、三人の視線が父に集まる。母など瞬き一つしていなかった。

 咀嚼し、飲み込むのを黙って注視する。

「うん、おいしい。久しぶりに食べるのは格別だね」

 最初の一言に母の表情が明るくなった。

「さあ、もっと食べて」

 母が自分も箸とどんぶりを手に取って言った。

「うん、そうだな」

 父がさらにカツ丼を口に運んでいく。

「俊樹、麦茶取って」

 母が何気なく言った言葉に、

「ああ」

「うん」

 と、僕と父の二人が答えた。

「もうお父さん、ぼんやりし過ぎー」

 奈緒が悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 束の間、食卓に沈黙が降りた。

「ああ、聞き間違えた」

 父が苦笑を浮かべる。続けて「年を取って、耳が遠くなったかな」と呟いた。

 不意に飛んできた蝉が窓にぶつかってきた。蝉の声は不平を漏らしているように聞こえた。



 食後に四人でテレビの前に集まった。

 父と母が並んでソファに腰かけ、僕と奈緒は床にクッションを敷いて座った。クッションは座る物ではない、という母の注意も今日はない。

 母の視線は、常に父とテレビを往復していた。

 会話はない。

 子供が砂の中に手を突っ込んでなくした小さな玩具を捜すように、皆が会話の糸口を手探りで探っている、そんな雰囲気だ。

「懐かしいなあ。昔はよくこうして、みんなでテレビを見てたよな」

 やがて、父が意を決した様子で口を開いた。精一杯、笑顔を形作っている。

 父の言葉に含まれる過去形が、胸をちくりと刺す。

「そうねえ。あの頃は、奈緒がよくお父さんの膝に座っていたわね」

 母があいづちを打った。しみじみとした声だ。

「いまさら、そんな話しないでよ~」

 奈緒が不機嫌さを装った声を出す。

 家族の会話が回りだした。家族であることに努力が必要だと、その会話に思い知らされる。

「明日、海に行く計画があるんだけど、父さんも行くよね」

 僕もその輪に加わる。歯車が噛み合うかは、父の返答次第。

「……海か」

 父の笑顔が強張ったように思える。

「ねえ、お父さんも行こうよ。絶対に、楽しいよ!」

 兄と一緒に行くことを嫌がり、乗り気でなかった人物とは思えないほど奈緒の声は弾んでいた。

「そうだな、行こう」

 父が大きく頷いた。勢いをつけて、何かを振り切ったみたいに見える。

「海っていえば、奈緒が沖の方にまで流されたことがあったな」

 父が遠くを見つめる目をした。

「あのときは、奈緒を助けにいったときにクラゲに刺されて大変でしたね」

「――ああ、大変だったな」

 忘れていたのか、微かな間が生じる。

 その後も、母の語る思い出に応答する父の返事はあやふやなものに感じた。



 朝、夜が明けきらないうちに目が覚めた。

 ベッドから起き上がってカーテンをめくると、空で群青と茜色が交じり合っている。

 清々しい朝の空気が肺を満たすが、胸のうちに漂う嫌な予感は少しも薄れない。

 人の気配を、リビングに感じた。

 音を立てないように扉をそっと開け、部屋を出る。

 リビングの厚手のカーテンが開いていた。レースのカーテンの隙間から微かな茜が射している。

 そこには、父の後ろ姿があった。

 ――違和感を感じた。肌の上を小さな蜘蛛が這っている、そんな連想が浮かぶ感触を感じた。胸のうちにあった不安が、渦を巻く。

 そっと歩み寄る。

 あと一歩で、父に触れられる距離に近づいて、違和感の正体に気づいた。

 父の髪の毛に混じる白髪の量が明らかに増えていた。一房、二房、白髪が束になっている。昨日は、せいぜい数本が見てとれる程度だったというのに……。

 何が起きてるんだ?

「父さん、その髪の毛――どうしたの?」

 掠れた声に、父が弾かれたかのように振り向いた。

「――!」

薄闇の中で目にした父の顔に、昨日は見当たらなかった皺が増えていた。目元、口もとに刻まれている。

「とっ……!」

 父に口を塞がれた。

「頼む、大きな声を出さないでくれ。母さんと奈緒が起きるから」

 懇願する父の顔は、悲愴な色に彩られている。

 二度、三度頷くと父は手の平を離した。

「でも、どうしたの? ――白髪とか、皺とか……」

「頼む、久則。白髪染めとマスクと買ってきてくれ」

 戸惑う僕に、父は怖いほど真剣な顔で頼んだ。

「もしかして……死ぬの?」

 彼岸に此岸へと帰ってくる死者。ならば、ときが過ぎれば当然、あの世へと帰るのではないだろうか。

 父が老人の姿で倒れる姿が脳裏をよぎる。

 緩慢な動作で、父は首を縦に振った。

 ――ザァー。

 砂嵐に似た音が耳の中で響いた。流れる血の音が聞こえている。

「お願いだ」

 父が目を覗き込んできた。

「分かった」

 勢いに押され、コクリと頷く。

「ありがとう」

 父の表情が和らいだものになる。

末期――その言葉が思い浮かんだ。

 そんな父の様子に耐えかね、目を逸らした。自室に戻って外着に着替える。

 父を偽者かもしれないと考えた自分が馬鹿らしく思えた。昨日、態度がぎこちなかったのも、死を目前にして、家族を残すことに胸を痛めていたのだ。恐らく。

「それじゃあ、行ってくる」

 リビングの父に声をかけ、玄関を出た。



 コンビニで白髪染めとマスクをカゴに入れながら、父が死んだときに、母と奈緒がどんな言葉をかけるべきか考える。

 ……何も浮かばない。

 眉間に寄せられた皺、目尻に光る涙、引き結ばれた唇、悲しんでいる表情を想像すると下が硬直した。

 レジでレシートがいるかと訊かれたとき、とっさに言葉が出なかった。



 洗面所で父が白髪を染めるのを手伝った。

 白髪染めのブラシで、父の後ろ髪を梳く。

 鏡越しに、父と視線が合った。

「奈緒と仲良くしてるか?」

「別に父親代わりって訳でもないのに、反抗期のターゲットになってるよ」

 僕は笑みに見えるよう、必死に口角を吊り上げた。

「そうか……そうだったな」

「え?」

 何か納得した様子を見せる父に、疑問の声を上げる。

「何でもないよ。それより、母さんは元気にしてたか?」

「うん、まあ、キツイキツイって元気に愚痴ってるよ」

 僕の答えに、父は小さく声を上げて笑った。

「よかった。――久則、二人のこと頼むぞ」

 何気なさを装って、ずっしりと重い言葉がかけられた。

「……どうしても、死ぬの? 何か、方法は……?」

 父は無言で首を横に振った。悲しくないはずがない。

僕の質問は、確実に父を苦しめていた。

 申し訳ない気持ちになる。

「父さん、頭を動かさないでよ」

 笑いながら告げる。

 父がいなくなるその瞬間まで、笑っていよう。



 母が五時頃に起きだしてきた。

 弁当を作ると張り切っていたから、そのためだろう。明日からまた、看護士の仕事あるというのに寝なくて大丈夫だろうか。

「どうしたの?」

 母は父のマスクに目を止めた。訝しがっている様子はなく、単純に心配している顔だ。

「ちょっと、風邪をひいたんだ。起きたら、タオルケットをはねのけてたからそれが原因かな」

 父が風邪気味に聞こえるようしゃがれた声を作った。自嘲気味の笑顔を浮かべる。その表情には、自分の境遇に対する皮肉も入っているように思える。

「そう……海に行くのは中止にします?」

 母が気づかわしげな声を出した。

「いや、奈緒が楽しみにしてただろう。中止にするのは、かわいそうだ。なーに、大丈夫。ちょっと用心のためにマスクをしてるだけだから」

「分かりました。でも、無理はしないで下さいよ」

 母は父にそう言い残し、キッチンに入った。やがて、材料を刻む音や香ばしい匂いが漏れてくる。

 やがて、匂いにつられるように奈緒がリビングに姿を現した。寝ぼけ眼で、それでも心配そうに父の姿を探していた。

「お前、本当に寝起きは最悪だな」

 苦笑を声に乗せて告げる。

「お父さん、そのマスクどうしたの?」

 父の顔のマスクを認めた奈緒が目を見開いた。眠気など一瞬で吹き飛んだ様子だ。

「ああ、軽い夏風邪だ。大丈夫、海には行けるよ。さすがに、泳げないけどな」

 奈緒を安心させようと、父は優しい声音で言った。

「無理しなくていいよ、お父さん」

「いいや、大丈夫だよ」

 慌てた様子で奈緒は応じたが、父は首を横に振った。どうしても、海に行く気だ。

 『さよなら』の前に、四人一緒での思い出を作りたいのだろう。

「でも……お父さん、無理して風邪をこじらせちゃったらどうするの?」

 湿った声を出して、奈緒は父の顔を見据えた。

 父が困ったなあ、そんな表情を浮かべて首筋を掻く。僕と同じ癖だ。

「大丈夫だよ、絶対に」

 父は奈緒の肩に手を置いた。

事故直後の頃を思い出す。僕は、父の永遠の不在に悲しむ妹を、よく肩に手を置いて目を見据えて「大丈夫、大丈夫」と繰り返したものだ。

「お父さんも、今日、海に行きたいんだ。しばらく、お母さん休みがないだろ。だから」

「うん、そこまで言うなら分かった」

 奈緒が父の説得に、仕方なしにという様子で首を縦に振った。

「お母さんを手伝ってくる」

 奈緒はそう言って、キッチンに向かう。

「だって、無駄じゃないか」

 父の傍らにいた僕は、その呟きを聞いた。

「え……?」

 僕は思わず、疑問符を発している。

 その声が聞こえないのか、父は内にこもった表情で何か考え事をしていた。

 だって、無駄じゃないか、その言葉から連想するのは父の死だ。

どうせ、すぐに死ぬのだから体調など気にしても仕方がない、という意味なのかもしれない。

 そんなことを口にしてしまう父の心情を思うと、胸が軋む音が聞こえた。

 ……でも、本当は父の心情云々というより、単に自分が悲しかったのかもしれない。



 車は母が運転している。

 父が運転席に座ろうとすると、可笑しくなるぐらいに狼狽して「あなが運転するのは縁起が悪いから」などと口走っていた。

 助手席には奈緒が座っている。そこは彼女の定位置だ。幼稚園の頃から変わらない。

 僕が助手席に座ろうとする度に、奈緒が無理やり体を捻じ込んで「ここに座るの~」と頬を膨らませていた。だから、助手席に座ったのは、父と出かけて事故にあったあの日くらいだ。

 従って、自動的に男二人が後部座席に押しやられている。何だか情けない光景だ。完全に尻に敷かれた男の図式を体現している。

「始まりは嘘でもー、終わりには本当でー」

 奈緒がご機嫌な様子で、お気に入りの歌を口ずさんでいる。

「それって確か、竹田洋一の曲だよな」

 父が奈緒の歌を言い当てた。

「うん……でも、何で知ってるの?」

 奈緒が思いがけない言葉に驚いた。

 それはそうだ。父は昨日までは、骨壷に入って墓の下で眠っていたはずだ。その父が、今の奈緒の趣味を知っているはずがない。

「……父さんは、いつだって奈緒のことを見守ってたんだよ」

 見守っていても何もできなかったもどかしさを思い出したのか、父の声は寂しそうだった。

 しんみりとした空気が車内に流れる。

「父さん、僕のことは見守っててくれなかったの?」

 冗談めかして言い放った。

 車内の空気が緩む。

……電子レンジは偉大だと思う。ちょっと沈んだ空気を和まそうとするのにも疲れるというのに、彼らは凍った物を解凍することだできる。

「父さんは、みんなのことを見守っていたさ」

 実感のこもった言葉に、父の言っていることが嘘でないことが感じられた。

 何だか、気恥ずかしい気分になる。母も奈緒も、ルームミラーで表情を盗み見ると同様の反応を見せていた。

 頭の片隅では、父が再び、姿を消したときのことを考えている。温かい言葉で温めても、芯の部分が冷えていた。



 熊本の海は、彼岸を過ぎるとクラゲが出てくる。そのため、海水浴場はすいていた。

 さいわい、まだクラゲは出現していないようだ。

 海で細い四肢を動かして、奈緒が泳いでいる。運動音痴の僕と違って、その動きはとても優雅だった。

僕は二十五メートルだってまともに泳げないため、波打ち際で足を水に浸すにとどまっている。

 父と母は、ビーチパラソルの下で、ビニールシートに寄り添って座っていた。

 そういえば、父が死ぬまではこうして毎年、海を訪れていた。そして、代わり映えのしない写真を撮ってアルバムに貼り付けていた。

 ただ、父が死んでからは、子供を女手一つで育てるのに忙しく海に来る余裕はなかった。それに、溺れたとき母では助けられない。カナヅチの僕がいるため、その心配は杞憂に過ぎないとはいえない。

 奈緒はときおり、父と母に向かって手を振っている。顔には満面の笑みを浮かべているが、その様子は、はじめてのおつかいで子供が母親を何度も仰ぎ見る仕草を連想させる。

 奈緒が泳ぎ疲れた頃、スイカ割りをすることになった。

 スイカがビニールの上に置かれる。

 一番手は父だった。Tシャツ、短パンで、マスクをした男はビーチでは周囲から浮いている。

 五回、棒を軸に回転させられ、ゲームはスタートした。

「右に五歩だよ!」

 奈緒が威勢良く指示を飛ばす。

 だが、父は指示とは逆の方向へ頼りない足取りで進んだ。足をもつれさせ倒れる。

「わー、お父さん、どんかーん」

 奈緒が父を指差して笑った。

 父はそのまま、立ち上がらない。

 奈緒が眉をひそめる。

「お父さん……?」

 心細そうな声を出す。

 僕は父に慌てて駆け寄った。

「大丈夫?」

 悲鳴に近い調子で尋ねる。

 ようやく事態を理解した母も側に来る。

「ああ、大丈夫……」

 明らかに憔悴した様子で、父が立ち上がった。

 肩を抱いて支える。

反対側を母が補助した。

 ビーチパラソルの方へと運んでいく。

 ……父の体が、異様なほどに軽かった。まるで、末期を迎えベッドに横たわる老人のようだった。四肢も明らかに肉が削げている。

 父をビニールシートに座らせる。苦しそうに青息を吐いた。

 母に、父の異常はばれただろうか? 

緊張に、心臓が子供のピアノ演奏に似たデタラメな鼓動を打つ。

「大丈夫、お父さん?」

 歩み寄ってきた奈緒が、泣きそうな顔で訊いた。

「大丈夫だよ……。軽い熱射病になっちゃったみたいだ」

 父が消え入りそうな笑みを浮かべた。



 夜闇に茜色の火の花が咲く。

「久しぶりだね、花火なんて」

 奈緒が嬉しそうに笑う。それを見て、父と母が笑みを浮かべた。

 海の水面は、月の光にきらめいている。

 周囲に花火の火薬の匂いが漂う。

 スイカ割りで倒れた後、父は終始、ビーチパラソルの下で休んでいた。昼食もあまり取らず、じっと母と奈緒のことを眺めていた。その眼に浮かぶ色が悲哀に見えたのは、僕の気のせいではないだろう。

 奈緒は花火が燃え尽きると、派手な装飾が施された物を中心に火を点けていく。

 ――赤、緑、茜、白。

 色とりどりの花火が闇に浮かび上がる。

 僕は、それを尻目に線香花火に火を点した。小さな蜘蛛の巣を幾つも紡ぐように、紅い火花が広がる。

 花火から父と母に視線を移す。

 母が花火セットから一本を取り出して、父に渡した。

父は右手でそれを受け取る。

母がライターで父の花火に火を点けた。

勢いよく、父の花火が燃え上がって煙を撒き散らす。

これが、父との最後の花火になるだろう。

そう思うと、花火よりも父や、その顔を見つめる母に目が行ってしまう。

結局、花火はろくに見ず、気づくと燃えカスと握っているという状態になった。



帰るために、車のトランクに荷物を積み込んだ。

「奈緒。お父さん、助手席に座っていいか?」

父が不意に、奈緒に尋ねた。優しい声を出しているが、顔つきは真剣そのものだった。

「いいけど……何で?」

「お母さんと、話がしたいからだよ。ほら、来るときは、後部座席でずっと久則と話してただろ」

 不思議そうな顔をする妹に、父はそう応えた。

「うん、分かった」

 奈緒は後部座席に大人しく乗り込んだ。

 僕が言っても、耳を貸さない癖に――心の中で毒づく。



 帰りの車の中、一瞬でももったいないといった感じで、父は母と奈緒に話し掛けていた。

 視線も、母と奈緒を何度も往復する。

 話題は、思い出が中心だ。

 やがて、うつらうつらと奈緒が眠りの淵へボートを漕ぎはじめた。

 数分後、奈緒は眠ってしまった。僕の肩にもたれて。

 迷惑だ。思いっきり肩透かしを食らわしたくなる。

 父が腕時計を覗き込んだ。遺品としてとってあった、軍放出品の物だ。

「どうしたの?」

 予感に突き動かされ尋ねた。背中が冬の地面に寝転がっているように寒い。

「久則、母さんと奈緒を大事にしてやれよ。こう見えても、二人は繊細なんだ。だから、お前が側にいてやらなくちゃならない」

 父の言葉に、予感は確信へと変わった。

「何を……言ってるの?」

 母が運転しながらも、震える声で訊いた。

 ――激しいクラクション音が鳴り、眩しい光が車内を照らした。

 白い光の向こうに、黒い巨大な陰が迫ってくるのが見えた。トラックが、僕たちの車に突っ込んできていた。

 水飴が引き伸ばされるように、時が緩慢に流れていく。

 トラックのバンパーが助手席を潰すのが見えた。

「――ァ!」

 声にならない絶叫を上げた。

 ――衝撃。車が横転し、窓ガラスが割れる。

 そこで、意識は途切れた。



 起き上がると、そこは病院のベッドの上だった。

 涙が頬を伝っている。

 ――突如、空中から封筒が現われた。

 封筒は宙で一度翻り、ベッドの上へと落ちてきた。

 茫然とそれを眺める。

 そろそろと手を伸ばし、封筒の宛名を確かめた。

「僕より……?」

 無記名よりも差出人不明な封筒だった。だが、確かに筆跡は自分のものだ。

 封を開け、中身を取り出す。

 便箋が一枚だけだった。

 目を通す。

「時を戻ることができたら、どうするか? その質問を投げ掛けられたら、私はこう答える。『事故死した母と、そのショックから鬱病になり自殺した妹を救う』と。

 ある日、高熱にさらされ一夜明けて目覚めると、私は時を超える力を得ていた。しかし、それは諸刃の剣だった。時を遡れば、その分、肉体が老いてしまう。

中年を超えて私が、事故のその日に戻れば確実に死ぬだろう。

それでも、構わない。

お幸せに」

脳裏に、父と思い込んでいた人物――未来の自分の映像が浮かんだ。利き手や、仕草、癖などが考えてみればまったく一緒だった。

 気づくと、便箋に丸い小さな染みがいくつもできていた。手書きの文字が滲む。

 僕は訳も分からず、涙を流し続けた。

                                       了

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