後編
……わけが、わからない。
全部嘘っぱちじゃ、なかったのか。どうして絵の中からこんな化け物が――?
「あああぁぁぁぁぁ――!!!」
無茶苦茶に叫びながら、A子が私の腕を引っ掴んで走り出す。私はすっかり腰が抜けて、彼女に引きずられるままになった。
美術室を出て、廊下へ。
「罰を、罰をぉ!」
B美の頭をがぶりがぶりとやっていた聖母が、今度は私たち二人の方へやってくる。
私はもう怖いどころではなかった。気が狂いそうだった。こんなことが実際にありえるだろうか。
聖母の形相は鬼のようだ。ローブを振り乱して、こちらへ食い付かんとばかりに距離を縮めてくる。もうすぐ追いつかれそうだった。
「く、くるなあっ!!」
A子が聖母へ何かを投げつけた。誰が置いたのかは知らないがハサミが落ちていたのだ。
それが見事胸に突き刺さり、聖母が呻いた。
そのままゆっくりと身を横たえ、血に沈む。やがて空気に溶け込むようにしてその姿は消失していた。
あまりの異常現象に、呆気に取られる私たち。
もうどこにも聖母の姿はない。ということは――。
「た、助かった、の?」
私は頷いた。
けれど先ほどまでのあれは幻でも何でもない。だって私たちはB美の死に様をはっきりと見たのだから。
思い返すと同時、恐怖と吐き気が同時に込み上げてきた。
「逃げなくちゃ、また来るかも知れない……っ」
A子は今度は私をおぶって走った。
廊下を駆け抜け、突き当たりまでくる。
そして階下への階段を降り――。
「……ぁ」
階段なんか降りるんじゃなかったと、後悔した。
高く響く泣き声。すすり泣きなどではなく、幼子が上げるそれだ。
そして声の方、そこには真っ黒な、どこまでも真っ黒な赤子が、空中にふわふわと浮遊していた。明らかにただの赤子……というより人ではない。
「『夜泣き赤子』っ」
私は泣きたくなった。
ただ、家を抜け出しえt肝試しに来ただけ。それなのに、どうしてこのような理不尽に対面しなくてはならないのだろう。
こんなところ、来るんじゃなかった。
死にたくない。死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
「おぎゃあん。おぎゃあん。おぎゃあん。おぎゃああああああああああ」
赤子は急に叫び出すと、ふわふわと私たちの方へやってきた。
A子も私も体が動かない。赤子はA子の方へ行き、彼女の胸へ収まると……。
「おぎゃぎゃぎゃっ」と笑いながら、服越しに彼女の乳首を、噛みちぎった。
A子の口から、この世の地獄のような雄叫びが上がる。
赤子を振り落とそうとするA子。しかし赤子はしぶとくて、爪がA子の腹に食い込んだ。もう片方の乳首を吸う。風船が破裂するかのように乳房が割れ砕け、鮮血が溢れ出した。
「うあっ、あ、あ……」
A子が崩れ落ち、私も背中からずり落ちる。
彼女の次は私だ。あのように貪られて殺されるのだ。
それだけは嫌だった。
A子のことなんか置き去りにして、ただひたすらに逃げることだけを考えて。
走って走って、走った。
耳に残る赤子の泣き声を無視して、駆け続ける。
何かにつまずいてこけた。何かと思えば目の前に幽霊がいた。
「はぁ。せっかく寝てたのに、うるさいから出てきちゃったじゃないか」
七不思議の一つ目、『廊下の幽霊さん』。まさにそれだった。
私は涙目になり、地面を這うようにして逃げた。
ピアノがギャンギャン鳴っている。あれも幽霊なのだろうか。
目の前に骸骨が現れてケタケタ笑い消えていく。
ドッジボールが跳ねる音が聞こえた。いつの間にか包丁を振り回す女が追っかけてきていて、無我夢中で這いずり回る。
私は気が狂ったのだろうか。
涙と鼻水と涎と糞尿と、色々なものを垂れ流して逃げ続けた。
そしてやっと校門まで辿り着いた。ここを乗り越えれば全てが終わる、そう思った瞬間だった。
恐怖に追いつかれたのは。
「おぎゃあん。おぎゃあん」
赤子の泣き声がして、乳首に激痛が走る。
見ると右の乳房が砕け、血が噴き出しており――。
「きゃ――――!!!」
高い悲鳴を上げ、私の意識は暗転した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目が覚めると、そこは自室だった。
まだ時刻は夜中の十時過ぎ。目を擦りながら私は寝ぼけた頭を動かす。
そして気づいた。
ああ……夢、だったのか。
明日が本当の肝試し。
今日はそれが気になっていたのか、悪い夢を見ていたらしい。実際にはあんなこと起きていなかったのだ。
「連絡して明日はやめようかな」
まだあの嫌な感覚が残っていて、とても明日は肝試しをするような気にはなれない。
もしかするとあれが正夢になるかも知れないのだ。体の芯がぶるりと震えた。
そんなことを考えながら布団へ顔を突っこむ。早くこんなことは忘れよう。
瞼を閉じて眠ろうとした私の耳に、突然背後からの声が、届いた。
「おぎゃっ。うぎゃぎゃっ」
そんなはずがない。
そう思いたいのに思わず振り返ってしまい、それを目にする。
嗤う赤子がこちらを見下ろしていた。
最高のご馳走を見つけた時のような、楽しげな様子で。
――悪夢はまだ続いているのだ。
恐怖の七不思議 柴野 @yabukawayuzu
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