六月十四日
ボイスレコーダーに今回の件のまとめを録音し終えたところで大通りから路地に侵入してくるタクシーに気が付いた。
腕時計に目をやると約束の時間ぴったりだ。
最初にカフェで会った時のことも合わせると、どうやら衛藤は時間厳守のタイプらしい。タクシーを利用して丁度の時間に着くなんて計算能力は神がかりだ。
路地の入り口で停車したタクシーのドアが開き、後部座席から衛藤がスルリと降りてくる。今日は平日休みなのか私服だった。
衛藤がはにかんでこちらに駆け寄ってくる様は他人が見れば同伴の待ち合わせと誤解されかねない。そんな時間でもないが。
「突然無理言ってすみませんでした」
そう言って軽く頭を下げた俺に衛藤が何故か頭を下げ返す。
「いえ。昨日連絡をもらってすごく嬉しかったです。真剣にアスミを捜してくれているんだなぁって」
そう言って左方向を見上げる衛藤に倣い、俺も右を向く。
そこにはドアが十枚ほど並ぶ二階建てのアパートが身を横たえていた。
レンガ調のグレーの外壁に濃い茶色の三角屋根というシックな印象で、裏手からは大きな一軒家に見紛えても不思議ではない。
改装を終えたばかりなのか築年数が浅いのか、真昼の日光を弾く艶を感じる。
住人の郵便受けが密集している中央に空いた洞穴の上に「メゾン稲荷町」の文字があった。
アスミは部屋を大学の徒歩圏内に借りていたようだ。
「いやぁ、何か手がかりがあればいいのですが……。アスミさんのご両親は許可くださいました?」
手がかりはアスミの足跡より明後日に迫る紅崎への報告の材料と桐瀬が動いている北橋界隈の薬物事情のことだ。
「えぇ、私の付き添いが条件ですが。邪魔はしません」
そう言ってはにかむ衛藤への返事を迷っていると、郵便受け横の階段から足音が聞こえた。無心で目をやったタイミングで男が洞穴から出てくる。
メガネをかけた大柄な中年男だった。鼻の下に薄いヒゲを揃えている。
衛藤が男に向かって他人行儀な挨拶をした。
「こちらのアパートの管理人の方です」
管理人と目が合い「お世話になります」と言葉を添えて会釈をした。
「鍵をあけてきました。部屋へどうぞ」
管理人に促され俺と衛藤は少し頭を低くして敷地へ入り、衛藤に続いて階段を上がった。若干の距離をとって管理人は俺の後を追う。
すれ違った時に気付いたが、陽射しが眩しいために瞑っているのだと思っていた右目はどうやら潰れているようだ。
薄暗い階段を上がりきり、二階の外廊下を右端まで歩く。
部屋の前に着くと先頭の衛藤がエスコートするようにドアを開け、俺を室内へと促した。熱を帯びた空気が弾力を持った透明な雲のように顔へぶつかる。
湿度が作り上げる不快な室温の稚児だ。
恐らく閉めきられた窓が原因だが、そのわりには無人の部屋の独特な異臭はしない。衛藤やアスミの両親の出入りがあったのだから当然か。
靴を脱いで低い上がり框に足を乗せる。玄関の右手にある下駄箱は開いていて、中にはシューズから余所行きのヒールまでぎっしりと詰まっていた。
三歩程度の短い廊下を左に折れるとドアが開いたままのトイレと風呂。
右の角を曲がるとキッチンスペースに出た。
キッチンと対面する開かれた仕切り戸の向こうにベッドの置かれたアスミの生活スペースがあった。典型的な1DKだ。
細かい雑多な物はアスミが過ごした最後の日のままという印象だが、食器や衣類なんかは見当たらず、恐らく両親が収納したのか。
A氏の談から考えるとアスミはいなくなってもう三週間に差し掛かる。
父と母は一体どんな思いでこの部屋を訪れ、娘の服を手に取ったのだろう。
内見に付き添う業者にも見える衛藤がキッチンから部屋を眺める俺の横に並んだ。
良い匂いは相変わらずだ。
「自由にご覧いただいて結構だそうです」
会釈をし、無意味だとは思うが念のため持参した手袋をはめる。
ベッド上のぬいぐるみ。数冊の漫画と雑誌それから音楽関連の書籍が並んだ本棚。
テレビの台には長らく人気のアニメ映画のフィギュアがいくつか置かれている。ドライヤーにヘアアイロン。かなり数の多い化粧品と香水。テーブルには読みかけの本とイヤリング。
引き出しや棚を遠慮がちに漁ってみたが薬物の類は発見できない。
もしも後ろ暗ければ隠すか。
そう思いベッド下を覗くと真新しいダンボール箱に目がとまった。
引きずり出しまだ埃もない箱をあけるとそこから出てきたのは話にあったベビー用品だった。キッチンスペースに立つ衛藤を振り返る。
「衛藤さんは本当のことをご存知でしたか?」
ベビー用品店でバイトをしていて、可愛いと思った物を買ったとアスミから説明された両親の談を、カフェで俺に話したのは衛藤だ。
今ではこれは四倉このみの登場でパパ活詐欺のアイテムであることが明らかになっている。
可愛いと思ったものを買った? ベビー肌着なんて買ってどうする。
「本当のこと?」
「ええ。アスミさんのアルバイトのことです」
シンクの縁に腰を預けて衛藤が困惑を伝える顔を作る。
しかしそれは目元だけで、薄紅の唇は微笑に緩んでいた。
「その、ベビー用品店のこと?」
中身を戻してからダンボール箱を元の位置へ押した。
衛藤の高校時代のもう一人の後輩であり、アスミの行方に関心のない友島が北橋界隈を知っていて、アスミの身を案じる先輩の衛藤は何故知らないのだろう。
アスミが衛藤にパパ活を話さなかったのは、衛藤がもう学生ではなく社会人であるため勧誘の対象でないこと、勧誘ではなくても話した際の叱責を恐れてといった理由を考えれば腑に落ちる。
しかし衛藤からアスミのことについて聞かれた友島が、アスミからパパ活の勧誘があったことを話さないのは不自然だ。
それと失踪は関係ないと思ったからとでも友島は言うだろうか。
いいや。
大学の前にある公園で友島たちと話しをした時、友島は確かに、今回いなくなったのもパパ活に関連する原因があるのではないかと言っていた。
だから北橋界隈に行って取材した方がいいと。
アスミの失踪にライターを頼ってきた衛藤だ。
何か知っていることはないかとしつこく質問するはずで、そして友島は初対面の俺と桐瀬に話した程度の安い情報を、高校の先輩だった衛藤に話さないわけがない。
じゃ仮に衛藤はパパ活のことを知っていて、それを俺に隠すメリットはなんだ?
アスミの名誉? でも俺にアスミを見つけてほしいのだろ?
どうして持っている情報を全て渡さない?
誰かが、いやどちらかが、何かを隠している。
「異変が起こる前は、丁度その位置で煙草を?」
キッチンスペースへやってきた俺を避けるために移動した衛藤を手の平で指す。
衛藤の栗色の頭の上には換気扇があった。
「え? あぁ、はい。そうですね。臭いをつけちゃ悪いので」
換気扇に向かって煙を吐けばリビングにいるアスミに紫煙が及ぶことはない距離だ。それに嫌なら仕切り戸を閉めたらいい。
やはり煙草には警戒を怠れない理由があるのだ。
IHクッキングヒーター横にはキッチン用の木製の棚があった。
並んでいるいくつもの小瓶には手製のラベルが貼られ、それが種類豊富な調味料であることがわかった。几帳面で料理好き?
「謎の張り紙の件ですが、またわかったことがあります」
湿気で固まった塩の小瓶をつまらなそうに振っていた衛藤が目を剥く。
カフェで会った日以来、アスミ捜しの進捗よりも張り紙についてのことを何度もメッセージアプリで聞いてくる衛藤が麩を求める鯉に見えた。
「わかったことって?」
「張り紙にアスミさんが関わっている可能性があります。変なことを聞きますがアスミさんにはアダ名なんてものはありましたか? たとえば、ジョナ?」
言った途端に衛藤は噴出し、大きな笑い声を上げた。
視線を感じ左へ目をやると、片目の潰れた管理人が廊下から顔を出していた。
何となく抗議の色合いが浮かんでいる気がして衛藤を制する。
「そんなに可笑しいですか? まぁ落ち着いて。騒がしくしちゃ悪いですよ」
「ごめんなさい。だって、アスミがこの部屋にも帰らず学校にも行かないであんな変な張り紙を貼って回っていることを想像したら笑っちゃう。それにジョナ? 何ですか、誰がそんなことを?」
紅崎のことを話せば余計な心配をするだろうと思い少しだけ躊躇したが、誤魔化しても事実は変わらないと自分の中で頷き口を開く。
「赤坂で張り紙を調査中に強面の男達に絡まれてしまいました。話を聞くと彼らは台東区と赤坂にあの張り紙を貼った人間を捜しているそうで、何が気に入ったのか私のことも捜索チームに加えまして。その時にリーダー風の男から疑っている人物がいると写真を渡されました。もちろんアスミさんです。しかし彼らはアスミさんをジョナと、確かにそう呼んでいました」
衛藤の目が細くなり、顔に広がっていた笑みが消える。
「あの子、何か変なことに巻き込まれちゃったのかな」
「衛藤さんは、本当に何もご存知ない?」
「えぇ、いやでもどうだろ? 私も忙しくてあまりちゃんと話を聞いてあげていなかったから。もしかしたら大事なことを私に言ってくれていたのかな。私がちゃんと聞いていれば」
「大事なことならちゃんと衛藤さんは聞いていますよ。牛鬼。アスミさんはここで衛藤さんの煙草を見てそう言ったんですよね」
衛藤が弱々しく頷く。そして俺の肘の辺りを優しく掴んだ。
「実はアスミさんの友人が興味深いことを教えてくれました。その友人曰く、張り紙は牛鬼をよぶ方法だと言うのです。それは降霊術の牛鬼様のことだったはずでしょう? それが張り紙になり、不良のような強面の男達が犯人を捜している。そしてその容疑者にアスミさんがいる。牛鬼が何のことかさえ解れば、アスミさんの行方の重要な手がかりになると思っています」
衛藤が俺の肘を握る手に力を込めた。俺を引き寄せ、衛藤の鼻先が顎に触れる。
「それじゃ、張り紙のことをちゃんと記事にして、情報提供を狙うのはどうでしょうか。牛鬼のことで何か知っている人がいればアクションがあるかも。そうすればアスミは見つかるかも。ほらウェブ記事だったらわりとすぐできるし。雨宮さんならできるでしょ」
こうやって俺に体を寄せることが自分の武器で、筆が俺の武器。
まるでそう言われているような気がした。女性を侮蔑しているわけじゃない。
ただ衛藤から、魅力ある女という凶器を今まで躊躇わず使ってきた証と思われる淫靡な返り血のにおいがしたのだ。
それは栗色の頭髪から漂うヘアオイルより濃厚で、心に決めた女がいない男を容易く堕落させるだろう。
こいつを会う度に抱けるなら、俺は煙草をやめるかもしれない。
人は人にさえ中毒になるのだ。
「誌面で情報を募るか。一理あるけどネームバリューのない私の記事ではあまり期待はできないです」
「謙遜しないでください。うまくいきます」
仮に俺が売れっ子ライターだったとしても書くのは難しい。
まずそんなに早く書きたいものを世に出せるほど単純じゃない。
そして何よりも情報を募るためとは言っても紅崎らを敵に回しかねない。張り紙はあの類の男らが動く案件だ。
勝手に世に出したことで紅崎以上の人間が出てくる可能性がある。
セルロイド・シンドローム 五十嵐文之丞 @ayanojo
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