第4話 逆効果の心理

 思い起こせばちょうど一年前のこと、沙織の家族はクリスの博士号に必要な勉強で一年だけ奨学金をもらって日本で暮らすことになっていた。それも東京育ちの沙織にとっても初めての関西、大阪においてだった。


 母親であった沙織は、英語しか話さない我が子、近々四歳児となるジュリーを日本語の生活にどう馴染ませるかという問題にまず直面していた。


 沙織は即近くの図書館へ行ってありとあらゆる児童心理学関係の本を借りてきて毎晩読み漁った。自国語だと英語の何倍ものスピードで読めることが嬉しかった。


 そこで学んだ新しい言葉は、「逆効果の心理」


 子供というのは、親が「イエス」と言えば「ノー」と言い、「ノー」と言えば、「イエス」と言う生き物である。それをうまく利用しろというものだった。なるほどと納得した沙織は、さっそくこれをジュリーに試して見ることにした。


 ジュリーに日本の幼稚園へ行って日本語を覚えて欲しいと思うその逆は、日本の幼稚園に行かせないという姿勢を取ることだ。


 しかし、それにはそれなりの努力も不可欠だ。人生何事においても、ただ指をくわえて待っているだけでは、よほどラッキーでない限り何も変わりはしないということを彼女は経験上十分承知していた。


 沙織は毎朝、毎夕ジュリーの手を引いて近所の幼稚園のバス乗り場まで行って、日本の幼稚園児たちの送り迎えを親子二人して見物した。カラフルで愉快な動物の絵の描かれた幼稚園バスからはいつも楽しい音楽が流れていた。揃いの帽子や制服を着た日本の幼稚園児たちはとても可愛かった。


 その楽しそうな様子は日本語の分からないジュリーにも十分伝わったようだった。黙ってジッと見つめる目は笑っていた。


 それを見た沙織は、

「しめた!」と思った。


 作戦開始。逆効果の心理。「イエス」は「ノー」で、「ノー」は「イエス」である。


「皆、楽しそうだね。でも、ジュリーちゃんの場合は、まだ日本語を知らないから幼稚園に一緒に行くのはとても無理というものだよね。いいよ。その代わり、ジュリーちゃんは英語が上手なんだもん。おうちへ帰ってママと一緒に遊んでいようね」


 第一目はそれですんなりと終わった。

 第二日目は、また同じことを繰り返した。

「ジュリーちゃんはおうちへ帰ってママと・・・」


 第三、第四と続けていくうちに、ジュリーにだんだん変化が見られ始めた。訳も分からない日本語のテレビを必死の表情で凝視するようになったのだ。


 小さいながらもそこには、

「ようし、自分も日本語を話せるようになって近所の子供たちの仲間に加わってみせるぞ!」といった意気込みが出ていた。


 もちろん、その間ずっと沙織はジュリーに対して、

「日本の幼稚園に行く必要はない。(ノー)」

 と言い続けていた。


 そうすると、なんと一週間経った頃、ジュリーの方から、「私も日本の幼稚園に行きたい(イエス)」

 という言葉が飛び出してきた!


 内心はうまく行ったと微笑んだ母親だったが、そこであまり喜んで計画が崩れてはいけない。


沙織は言った。

「でも、日本語が分からないのに無理よ(ノー)」

「覚えるよ(イエス)」

「大変だよ(ノー)」

「大丈夫(イエス)」

「本当?(ノー)」

「本当よ(イエス)」

「でも、幼稚園がオッケーしてくれるかな?(ノー)」


 実際、沙織は本気で心配になってきていた。


「もし、本当に日本の幼稚園に入園を断られた場合、ジュリーのショックを母としてどう扱えば良いのだろう?」


 しかし、もうこうなっては後に引けない。沙織は心からジュリーの幼稚園への合格を祈ったのだった。


 さて、幼稚園に行ってみると、半分アメリカ人の幼児を見て国際的だと喜んだ園長先生がニコニコ顔で迎え入れてくれて、先生たちがジュリーに向かってボールを投げるなど、反応の正常さを確かめ始めた。


 その後、別の部屋で待たされていた風変わりな親子のところへ再び園長先生がまたしてもニコニコ顔で入って来た。


「先生、どうでしょう?」

 待ち切れない沙織が聞いた。

「はい、合格です。まったく問題ありません」


「やったー!ジュリーちゃん、あんた凄いよ!日本語も分からないのに合格しちゃったよ!」


 英語で説明してやると、小さなジュリーは飛び上がって喜んだ。

"Yay, Yay, I did it!"


 日本人の顔をして英語で会話するへんてこな親子は、その晩近所のデパートで日本の特別お子様ランチを注文して、二人で「逆効果の心理」の成功をお祝いしていた。

  

 近所の人にジュリーの幼稚園合格のことを伝えると、すぐにどこからともなく幼稚園の制服や帽子のお古が次々と届けられた。


「こういうところが気取らない関西人の良さやなー」

 沙織は気さくな大阪人の親切が嬉しかった。


 翌々日、日本語が話せないジュリアンが日本の幼稚園に初めて行く朝がやって来た。午前6時、まだまだ深い眠りについていた沙織は、ジュリーのキャーキャーいう声で起こされた。


 なんと、どうやって着たのか、もう幼稚園の制服をしっかりと自分で着込んで、沙織の枕元に立っているではないか。通園時間の8時が待ちきれないという感じだった。


 幼稚園バスがやって来ると、初日だというのに振り向きもせず、そそくさとバスに乗り込んだジュリーを見た他の母親が沙織に聞いてきた。


「ジュリーちゃん、まだ日本語が分からへんのにあの喜びようはどういうことやねん?初日はどの子も泣くもんやで・・・」


 沙織はただ笑って応えたが、実のところ、これには作戦を練った母親でさえも度肝を抜かしていたのだった。まさかここまでうまく「逆効果の心理」の成果が出るとは・・・。


 かくして、大阪に着いてちょうど2ヶ月目にして、ジュリーは英語から大阪弁への見事なる百パーセントの転換を遂げたのだった。何が何でも日本語を覚えて日本の子供たちの仲間に入るんだというジュリーの必死の思いが、不可能を可能にしたわけだった。


母親の沙織がアメリカで実行した"Just do it!"の精神にも繋がっていた。


「王女さま、なんやねん?」 と関西弁で大阪の友達と王女様ごっこをしているジュリーを見て、沙織は笑いながらも、娘を日本に慣れさせるという一つの大きなプロジェクトを成就した満足感に浸っていたものだった。


 そんなわけで、二ヶ月遅れで関西国際空港に降り立った父親のクリスがジュリーの幼稚園帽を見て、

”July, Where did you get that hat?”

 と英語で幼稚園帽について尋ねたとき、ジュリーの口から出て来た返事は、なんと・・・!


「幼稚園で買ったの。」という完璧な日本語だった。(実際は、近所の人から貰ったのだったが・・・)父親が度肝を抜かしたことは言うまでもなかった。


 日本に慣れることができないばかりではなく、何年も日本語で苦しんでいたクリスは、あの小さなジュリーがわずか2ヶ月ですっかり日本の子供になりきっており、また日本語も完璧と聞いて、信じられない面持ちだった。

「逆効果の心理」様さまであった。


To be continued...

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