一匹ぼっち

みとたけねぎ

一匹ぼっち

 動物と会話をしてみたいと思ったことがあるだろうか。


 言葉を交わしてもっと仲良くなりたい。どんな事を考えているのか知りたい。

 普段から動物と触れ合う人なら、きっと一度は思ったことがあるだろう。


 ちなみにそのとき、想像するのはどちらだろうか?


 人間側が動物の鳴き声を聞いて、何を言いたいのか翻訳機を通さずとも自身の脳なり耳なりがその役割を担ってするすると理解できるのか、動物側がその人語を喋る構造になっていないはずの口を懸命に動かして、すらすらと流暢に人間の言葉を話すのか。


 前者だと人間は、自分はすごい力を手に入れたと嬉々として動物たちに話しかけて、何か力になれることはないかと尽力してくれるだろう。ああ素晴らしきかな、人間と動物、異種間の愛。


 だけど、後者だとそうもいかない。ほら、このように。


「ちょいとそこの人間さん」


「あ? だれ? え、つかどこ?」

「下だよ、下。足元の僕さ」


 振り返って目線の高さは変えずきょろきょろする人間の男に、僕は地面に尻尾をぺちぺちしながら丁寧に自分の所在を教えてあげる。導き通りに視線を動かし僕を見つけた男は驚きの声を上げる。


「猫⁉︎」


「いかにも、僕は猫だよ。いやそんなことよりもだね、これ」


 碧色のつぶらな瞳で目の前の男を見つめながら、茶色と黒がとてもチャーミングに配色された前脚で、僕は地面をちょいちょいと叩く。


「煙草のポイ捨てはいただけないね。しかも火をきちんと消さずに立ち去ろうとしただろう。マナー違反だし、火がついたままだと最悪の場合––––」


 火の不始末の恐ろしさを説こうとすると不意に体が地面から離れた。


「うわっ、なんだこれ、ロボット? え、柔らかい。本物? どっから声出てんだ?」

 乱暴な手に掴まれ、不躾な視線で首回りや腹を探られる。とても尻尾をどこかに打ち付けたい。


「……僕は機械の類じゃない本物の猫だし、この美声は間違いなく僕が自分の声帯を震わせて、キュートな口から発しているものだよ。ご理解いただけたら今すぐ煙草の火をだね」

「あ、これ動画にして拡散したらバズんじゃね? やっべ俺天才、あったまいいわー」


 男は乱暴な両手を片手に変えて、空いた手でスマートフォンを取り出しカメラを回し始めた。

「おら、なんか喋れよ」


「…………」


 男の親指が右前脚の付け根に食い込んでとても痛いけど、抗議も悲鳴も我慢する。ここで喋って、こんな奴の承認欲求を満たす材料になるなんて、まっぴらごめんだ。

 キュートな口を真一文字に閉じ、つぶらな瞳を細めて男を見やる。喋らないしカメラには興味がないぞという意思表示。


「ほら、声帯がなんだって? 言ってみ? お?」


 この威圧的な声が動画に載ると、むしろ虐待だと動物愛護団体からクレームが来て炎上するんじゃないだろうか。いや、こいつはそっち方面のバズを見込んでいるのか。それはそれであったまいいー、そっちの方が簡単に燃える(バズる)しな。協力してやらんが。

 僕はあっかんべーのつもりでニタリと笑う。極力可愛さを抑え、なるべく不細工にならないように、可能な限り人間の興味をそそらない顔を意識して。


「おい、おいっ! なんか喋れ! 喋れよこら!」


 男は僕を御神籤か何かと勘違いしているらしい。上下左右に激しく僕を揺さぶる。そんなことをしたって声は出してやらない。もちろん籤だって出さない。


「チッ……なんだよ、気のせいだったのか……? まあ、そりゃそうか。猫が喋るなんてそんな気色悪いこと、あるわけねえか。疲れてんのか、俺? 時間無駄にしたわ、くそっ」


 簡単に納得してくれた馬鹿者は小者なセリフを吐いて、御神籤の次はメンコみたいに僕を地面に投げ捨てた。

 絶対に声を出してやるもんかと躍起になっていたので、硬いアスファルトに身を打たれた痛さも腹だしさも、全て声にはせずに飲み込んだ。だけどプギャアくらいは言っておいた方が普通の猫として自然だったかもしれない。

 しかしあんな奴に伴って生まれた後悔なんて悔いるだけ無駄なので、今の嫌な出来事を、未だにチリチリ燻っている煙草の火と一緒に、その辺の石を使ってゴリゴリ擦って消した。


  *


「ただいま」


 人間でいうと中学生男子くらいの背の高さのブロック塀をひょひょいと飛び越え、庭を通って、少しばかし古めかしい平屋の縁側に寝転ぶ。


「おかえり。今日はどうだった?」


 そう尋ねて僕の隣に腰掛ける無精髭の男は、我が主人。もうすぐ夏だというのに半纏を羽織っている。そんな季節に取り残された格好をしているから、声まで冬みたいに温もりを求めて優しく低い。


「どうもこうも、特に変わりはないよ」

「友だちはできたかい?」

「…………いいや、むしろ人間の醜いところを煮出して凝縮したような、絶対に友だちになりたくない奴に出会ってしまったよ。正直思い出したくもない」

「そうか……。それは災難だったね」

「まったくだ。マタタビでも嗜みたい気分だよ」

「ごめんね……」

「…………君が謝ることじゃないさ」

「うん……だとしても、ごめん」


 そう謝る主人の目は、遠くの空の、そのさらに先にあるどこかに向けられていたので、僕はそれ以上何も言えなくなった。


 しんみりとした沈黙に一石を投じたのは、文字どおりの、庭に落ちてきた人の拳ほどの大きさの石だった。


 僕と主人が同時にそちらに視線を向けると、ハナミズキが植えてあるあたりの塀の向こうから、がちゃがちゃとした喧しい声も降ってきた。


「やったか⁉︎」

「いやまだだ! 次の弾いくぞ!」

「全軍攻撃の手を緩めるな!」

「化け猫退散! 悪霊たいさーん!」


 失礼極まりない言葉とともに、先ほどよりも小粒の石が立て続けに投げ入れられる。今日はわざわざハナミズキの裏から投げやがって。どんな返礼をしてやろうか。

 僕はぼやきながら庭を大きく迂回しすっと塀に立って、軍隊気取りの小学生男子たちの不意を突く。


「こらーっ、悪ガキども!」


「あ、やべっ」

「見つかった!」

「まだ弾あったのに!」

 僕を退治する体を取っているくせに、この悪ガキたちは僕が姿を見せると攻撃を止める。


「毎度毎度他所様の家に石を投げよって。何か壊したり、本当に僕に当たって怪我をしたらどうするつもりなんだい! 遊びたいなら別の––––」

「説教はじまった、総員退避ー!」

「あ、こらっ!」


 話している途中だというのに、将軍ヅラの丸坊主が告げると、全員揃って悪びれもせず楽しそうに駆けて行った。

 彼らが本当に僕を退治するために石を投げているわけではなくて、ただ遊びたいだけだということは、以前たまたま聞いてしまった石選びの基準の会話から知った。だから多少のことは大目に見てやっている。


 にしてもしかし。一体全体、何を食べたら他人様の家に石を投げ入れるなんて遊びを考えつくんだ。加えて注意をまったく聞かないあの神経の図太さ。きっとあの悪ガキどもはろくなものを食べていないのだろう。噛んだらすぐ味のしなくなるような粗悪な煮干しとかだろうな。


「まったく……困ったものだよ……」

「え……」


 首をふるふる振りながら悪ガキどもが消えていった方に愚痴をこぼすと、その反対側から驚きの声が漏れ出た。

 振り返ると悪ガキどもよりは幾分大人に近づいた、制服を纏った女生徒二人が体を硬直させて立っていた。


「こんにちは」


 彼女たちの緊張をほぐそうと気さくに挨拶をしたのだけど、その意図は汲み取ってもらえなかった。

 女生徒二人は声も出さずに、錆びついたバルブを無理やり回すようにぎこちなく回れ右して逃げていった。


「はぁ……やるせないね」


 溜息をついて塀を降り、すたすたと庭を横切る。


「大丈夫かい」

「ああ、問題ないよ。石が当たったわけでもないし、逃げられることも納得はいかないけど悲しきかな、慣れた」

「彼らとは友だちにならないのかい?」

「…………どっちのことを言っているのかはわからないけど、会うたび石を投げつけてくる友だちも、話しかけたら怖がって逃げてしまう友だちも、僕はほしいとは思わないね」


 人語を喋る動物。そんな奇妙奇天烈摩訶不思議な異物と出くわした人間の反応は、金儲けや欲を満たすための道具にしようとするか、面白がってこちらがまったく面白くない遊びを強要させるか、恐怖を感じて逃げるか、あとは研究所に連れて行こうと追いかけ回してくるか。だいたいそんなところだ。僕が好きな子の誕生日の夜みたいに綺麗な黒色の毛並みを揃えていたら、また違った反応を期待できたのだろうけど、あいにく僕はキジトラ。魔女の横は似合わないので、楽しい反応は基本的には望めない。


 だが、基本的にはということは、例外がある。僕は少なくとも僕が知る限りでただ一人の例外である、僕が人語を話す猫でも変わらず接してくれる人間の横にまた座る。

 いつだったか主人にその話をすると、飼い主なんだから当たり前だ、例外なんかじゃないよと言われた。だけど僕は飼い主にすら見捨てられる動物たちを、人語を喋るなんて奇怪な特技を会得しなくても捨てられた彼らがいることを、知っている。だからそれが当たり前なんかじゃないことを知っているし、それを当たり前だと言い切れてしまう主人の横に座れるのは、とても幸せなことだと、本当に心から思っている。


 だというのに。


「僕は、お前が心配だよ」


「……また、その話かい」


 主人はいつも申し訳なさそうにその言葉を繰り返す。


「せめて、他の猫たちとは仲良くよろしくしてくれていればいいんだが」

「それができていればとっくにしているさ。逆の立場で考えてみたまえ。人間たちの中に、人語を喋らずずっとにゃーにゃーなーなー言っている奴がいるんだ。仲良くよろしくする気にはならないだろう」

「君もにゃーにゃーなーなー言えばいい」

「残念ながら、僕がにゃーにゃーなーなー言っても、もう猫の言葉にはならないんだよ。君たち人間がにゃーなー言ってるのと一緒さ。意味を持たないんだ」


「難儀だね」


「まったくだ」


 呟くと夏風が、同情するように僕と主人の間を通って、仕舞われることのなかった風鈴を鳴らした。


「こんな会話をもう半年以上続けていることも含めてね」


 それがなんだか気に食わなくて、僕の口から嫌味が零れた。


「……僕はお前が心配だよ」


 そして主人はまた申し訳なさそうに繰り返す。


  *


 人間界にも猫コミュニティにも馴染めず、僕は今日も一匹街を歩く。


 猫たちから爪弾きにされている僕が語るのもおかしな話だが、猫は自由気ままな生き物なので、街を探索するのに決まったルートはない。気になる方向へ時間も気にせず脚を運んで、気が済んだら気が向いた方に歩を進めて家に帰る。


「なぁ、お前らのその制服、そこのお坊ちゃん高校の制服だろ? ってことはお金いっぱい持ってるよな?」

「俺たち喉乾いたから飲み物買いたいんだけど、お金足りないんだよねー」

「その余ってるお金さぁ、平民の俺らにわけてくんねえ?」


 にしても二日連続でガラの悪い人間に遭遇するのは稀である。

 夕方前のコンビニの脇。ジェンガの勝敗がついた瞬間もかくやというほど制服を着崩して髪を派手に染めた三人組が、きちんと清潔に制服を着用した大人しそうな男子高校生二人組をカツアゲしていた。


「そ、そんな……」

「ぼ、僕たちも、今、手持ちなくて……」


「えー、そんなことないっしょ」

「その手に持ってるカード何よ? 今日発売の新作のパックだろ?」

「さっきもう一パック買おうかなーとか言ってたんだから、あるじゃんね、お金」


 二人組がふぅっと息を吹きかけると消え入ってしまいそうな声で抵抗するも虚しく、意外に理詰めで逃げ道を塞がれる。


「そ、それは……」

「それは、なんだよ?」

「えーと……」


「もしかして、カードゲーム買うためのお金だって言いたいの?」

「えっ、ひっどーい。困ってる人を見捨てて、自分たちのたかが遊びのためにしかお金使えませーんってこと?」

「うわっひくわー。金持ち坊ちゃんまじひくわー」

「そんなのママが聞いたら心配しちゃうよー? うちの子はなんてひどい子なの、って」

「いやむしろ俺らがお前らを心配するわ」


 下品な笑い声がギャンギャン響く。二人組は完全に萎縮し、ガチガチと震えて声も出せずに立ち竦んでいる。


 泣き出しそうな彼らに情が移ったわけでも、曲がったことが許せない正義の味方を気取りたいわけでもない。猫は気まぐれな生き物なのだ。だから、見ず知らずの二人を助けるのは、ただの気まぐれ。気まぐれのはず、なのに、どうしてだろう。


「おい、お前ら!」


 今、こんなにも、怒りを感じているのは。


「あん? ––––って、え? 猫?」

「キジトラじゃん。かわいいー」

「いや待て、今こいつが喋んなかったか?」

「え? 嘘?」


 抱きかかえようとこちらに手を伸ばしてきたやつの注意がそれた瞬間を狙って、手に爪を立ててやった。


「痛ってえぇええ」


「ふん。ざまあみろだね。カツアゲなんてしている奴に、僕の高潔な体を触らせるもんか」


 右手を抑えて飛び退く奴に僕は吐き捨てる。


「ちょ、マジでこの猫喋ってんぞ」

「嘘だろ。どうなってんだ」

「おい、誰か俺の心配もしてくれよ。すんげえ痛いんだけど。ああ腹立つ。かわいい猫だと思ったのによ!」


 ああ、まただ。どの言葉が癇に障るんだろう。尻尾がばんばんと激しく地面を叩く。


「僕が喋る猫だろうがそいつが怪我しようがどうでもいいね! とにかく火急の問題はお前ら三人のカツアゲだ。そこから論点をずらさないでもらおうか!」


 僕は啖呵を切るが、あまりにも感情に任せすぎて論理的じゃない。いつもはこんな行き当たりばったりで口出ししないだろう。頭ではわかっているのに、どうにも煮えた思考が冷えてくれない。理性が溶けていってしまう。


「いやカツアゲって、そんな人聞きの悪い。いや、この場合は猫聞きか?」

「俺らはただ飲み物が欲しかっただけで、その子らにお金くれないか相談してただけじゃん」

「カツアゲなんてしてねえよ。猫にはわかんなかったかもしれないけど」


 ああ、ほら。ナメられてる。平常時でもただでさえ話を聞いてもらえないんだ。だから落ち着かないと。


『僕はお前が心配だよ』


 わかっている。君に心配をかけてしまっていることくらい。きっと、君が僕に申し訳ないと思ってくれているのと同じくらい、僕も、申し訳ないと思っているよ。君に余計な心配をかけたくない。いつも思ってる。


 そう、だから僕は、考えなくちゃいけない。君がそう言わないで済むように。君の目にまた、悲しみが積もらないように。


 これ以上主人の幻聴に頼らないために、意識を内から外に向ける。目を瞑って耳をすませる。コンビニの自動ドアの開閉音、人の足音、車の通る音……。そしてひらめく。


「…………ああ、そうかい。お前たちは僕が猫だから、今の行為をカツアゲだと勘違いしたと言いたいんだね?」


「そうそう」

「わかったなら早くどっかいってくんね?」

「喋る猫なんて、きしょいし」

「お前一番に触ろうとしてたじゃねえか」

「うっせ」

「お前動物ならなんでもすぐ触りたがるよな」

「ついでに女子にもすぐ手出すよな」

「それはホントにうるせえ」


 そうやって話題を別のことにすり替えて嗤う。完全にナメられている。いいだろう。僕を、喋る猫を、ナメたこと、後悔させてやる。


 僕は彼らの嗤いを強引に遮る。


「ご歓談中申し訳ないけど、猫の僕じゃ判断できないようだから、人間に判断してもらうね」

「あ? 俺らがカツアゲじゃねえって言ってんじゃねえか」

「それともなに? 俺らが人間じゃないって言いたいわけ?」

「自覚があるなら訂正はしないけど、今言いたいのはそういうことじゃないよ。君たち当事者以外の、第三者に判断を仰ごうってわけさ」


 僕はにやりと笑い、振り返る。それから大声で呼びかける。


「おーい、おまわりさん、こっちだよ」


 すると僕の叫びに応じるように、パトカーのサイレンの音が近づいてきた。


「え、おいまじかよ」

「なんでこの猫サツ呼べんだよ」

「とにかく逃げろっ」

 言うや否や、パトカーが姿を見せる前に三人組は走り去って行った。


「ふん、ざまあみやがれ」


 そしてパトカーは、三人組はおろか、僕らすら気にも留めずコンビニを通り過ぎて行った。おそらく交通違反の取り締まりだろう。実際に起きたかどうか不明なカツアゲに、サイレンを鳴らして急行するパトカーがいるわけない。三人組のおめでたい頭に思わず笑いが漏れる。


「あの……ありがとう」


 そんな、少し意地の悪いことを考えていたから、聞き逃すところだった。


「助けてくれて、ありがとう、ございました」


 だけど耳が二人に向いてから、改めてもう一人が言ってくれたから、聞き逃さずに済んだ。


 お礼を言われるなんて、とても久しぶりだった。人語を話すようになってからは、はじめて。


 助けるために口出ししたのではないのに、もっと自分勝手な都合であの三人組を追い払ったのに。


 少しだけ、期待してしまった。


 この子たちとなら、もしかしたら……って。


「そんな、お礼を言われるようなことはしていないさ」


 鼻をぴくぴくさせながら振り返り、彼らの目を見ると、聞こえた。


 その期待が脆く崩れ去る音を。


 彼らから発せられた言葉は感謝だったけど、目に宿っていたのはそれじゃなかった。


 もう何度も見た、見飽きた感情––––恐怖。


「そ、それじゃあ……」

「僕らは、この辺で……」


 言うと二人はそそくさとこの場を後にした。いや、逃げた、と言った方が正確な表現だ。とにかくここから早く離れたいという、足音。よく、知っている音。


 あの子たちが、悪いんじゃない。あの子たちはしてもらったことに、ただ正しくお礼を告げただけだ。それは、わかってる。わかっている、けど。


「やるせない、ねえ……」


 今日ばかりはどうしてか、心が折れてしまいそうだった。逃げられるなんて、何度もあったのに。もう、慣れたはずなのに。僕が人間だったら、塩辛い味が目から口に広がっていたかもしれない。


 なんだか無性に無精髭の主人の声が聴きたくなった。幻聴じゃなくて、本物の。だから僕も早く帰ろうと思った。だけど、そうできなかった。


「お前、一人ぼっち?」


 声を、かけられたから。


「…………正確に言えば、一匹だね」


 おそるおそる答えると、質問者であるワンピースに身を包んだ小学生くらいの少女は、にっこりと笑って、僕と目線を合わせるようにしゃがんだ。


「わたしと一緒だ」


 この時点ではじめてのことが、三つあった。喋る僕を見て笑顔になったこと。目線を合わせてくれること。一緒だと、言われたこと。


 ただでさえつぶらな碧色の瞳を、僕はより一層丸くした。キュートな口から言葉を吐き出そうとするけど上手く出てこなくて、よく考えたら僕はこの状況で発するべき言葉を持ち合わせていなかった。


「ねえ、なんで、パトカーがくるってわかったの?」


 はじめてのことが、もう一つ増えた。会話を、してくれる。自分の膝に手を置いて首をかしげる姿は、話し相手がまるで猫じゃないみたいだ。


「……猫は、人間よりも耳がいいんだよ。だから、パトカーがくるのがわかったんだ」

「へえ……」


 なんとかひねり出した回答を聞いて不思議そうに耳を注視する少女。いつもなら人間に体を視線で弄られるのは不快だけど、何故だか今は心地よいとすら感じている自分に驚く。


「うわっ」


 すると少女におもむろに頭を撫で回された。物理的な驚きに、思わず声が出てしまう。

 だけどその少女の手は、暖かくて、まるで誰かの声のように、落ち着く。


 優しい。この、永らく忘れていた感触に抗えず、身を委ねてしまう。


「お前、優しいんだね。聞いてた話と、違う。クラスの奴ら、見る目ない」

「い、一体どういうことだい?」

「クラスの奴ら言ってた。俺らは喋る化け猫退治のために石を集めてるって。なんで退治するのか聞いたら、あいつ説教ばっかしてくる厄介猫だ、って」

「ああ……あいつらか……」


 悪ガキどもに僕の親心が届いていなかったことに、ショックを受ける。だけど、頭を撫でられていると、どうでもよくなってくる。


「ねえ」


 不意に少女は手を止め、再び膝の上に戻した。僕は名残惜しくその手を目で追ってしまう。


 少女はそんな視線を気にも留めず、僕が今までに一度だけ言われたことのある言葉を、まるでそのときを再現するかのような笑顔で僕に告げた。


「わたしの友だちに、なってくれる?」


 再びこちらに差し出された手と少女の顔を交互に見つめる。


「こんな僕で、いいのかい?」


 だって僕は、人語を喋る猫なんだよ。君たち人間が、金儲けや欲を満たすための道具にしようとするか、面白がってこちらがまったく面白くない遊びを強要してくるか、恐怖を感じて逃げるか、研究所に連れて行こうと追いかけ回してくるような、生き物なんだよ。


 それなのに、君は––––


「うん、お前がいい」


 その少女の花が咲くようなあたたかな笑顔は、他でもない、今ここにいる僕だけに向けられていた。だから僕は、それ以上は何も言えなかった。

 代わりに、差し出された少女の右手に、僕の右前脚を乗せた。


 握り返してくれた少女の手は、やはりとても優しかった。


  *


「ただいま。帰ったよ」


 ブロック塀をひょいっと乗り越え、庭を歩いて、少しばかり古めかしい平屋の縁側に飛び乗り、僕は続ける。


「今日はね、珍しく話したいことがあるんだ。僕と君のマンネリ化した会話に、ようやく変化をもたらすことができるんだ。新しい風ってやつだね。––––って、なんだい。もういないのかい。そんなに急だなんて、聞いてないよ。せめて最期に僕の自慢話に付き合ってからいったらどうなんだい」


 ぐるりと家の中を一周して、主人の姿が見当たらなかったので、僕は一輪挿しが置いてあるだけの簡素な仏壇に飾られた写真に向かって言った。


「まだ君に話したいことがいっぱいあったのに」


 僕はお前が心配だよという声は、庭のハナミズキが風に揺れる音で、聞こえなかった。


                              (了)

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