終息
いきなり背中に抱きつかれ、浩市はハッと我に返る。同時に、声が聞こえてきた。
「もういいよ! こいつは死んでる! それより誠司くんを見てあげて!」
理恵子の声だ。浩市は、すぐに立ち上がった。
「誠司! 大丈夫か!?」
叫びながら、誠司のそばに駆け寄る。弟の体からは、さほど血は流れていない。にもかかわらず、顔は青白い。
先ほど誠司は、田山の拳銃で何度も撃たれた。数発の銃弾が、その体に命中している。即死させるには至らなかったが、銃弾は内臓をズタズタにしている。血はあまり出ていないが、内出血がひどいようだ。
もはや、助かる見込みはなかった。
「兄貴……痛えよ、めちゃくちゃ痛え。寒いよ」
誠司は、弱々しい声で訴える。頭もまともに働いていないらしい。それでも、浩市は抱き起こした。
「今すぐ病院に連れて行ってやるからな!」
「死にたくねえよ……死にたくねえ……こんなのってありかよ……」
言った直後、誠司の首がガクンと垂れる──
「誠司! 誠司!」
激しく揺さぶるが、誠司は動かない。
今まで生きていた、そのこと自体が奇跡だった。拳銃の弾丸を腹に数発撃ち込まれ、体の内側はズタズタの状態だ。しかも、覚醒剤の乱用により内臓もおかしくなっている。それら全ての影響が、今になって襲ってきたのだ。
これまで、家族に迷惑をかけ続けてきた弟。浩市は、何度縁を切ろうと思ったかわからない。だが、最後の最期に命を捨て、浩市と理恵子を救ってくれた……。
不思議な気分だった。
涙は出なかった。悲しみというよりも、喪失感の方が強い。まず母が亡くなり、父も死んだ。そして今、誠司も死んでしまった。これで、本当に天涯孤独になってしまったのだ。
若い頃は、家族のことが嫌で嫌で仕方なかった。高校を出た後、単身で東京に出ていった時は……本当に満ち足りた気分だった。家族とは、一生会うまいとさえ思っていた。
ところが、現実に家族を失い天涯孤独となった今、たとえようもない寂しさと孤独感に襲われている。
俺には、もう何もないのだ──
「浩市、誠司くんは死んだ。もう、仕方ないよ。行くしかない」
理恵子の声に、浩市は顔を上げた。虚ろな目で聞き返す。
「どこに行くんだ?」
「わからない。でも、ここじゃないどこかに行くしかないんだよ。もう、ここにはいられないから」
言った後、理恵子はそっと手を伸ばした。浩市の腕を掴む。
立ち上がるように促されているのはわかった。確かに、こんなところを他の者たちに見られては終わりだ。いずれ、ここにも人が来る。
浩市は、どうにか立ち上がった。その時、自身の手が目に入る。
返り血にまみれ、傷だらけになった拳。これで、田山を殴り殺してしまった。
その田山は、仰向けで倒れている。血で染まった顔は原形を留めておらず、もはや誰であるかもわからない。その手には、拳銃を握りしめている。死んでしまった今でも、拳銃を手放す気はないらしい。
この男は、誰も信用していなかった。信じていたものは、あの拳銃と金だけだった。
「俺、あいつを殺しちまったんだな」
「そう。でも、あれは仕方なかった。獣に襲われれば、かわいそうでも殺すしかない。それと同じだよ」
彼女の言っていることはよくわかる。ただ、それでも割り切れないものがあった。
もう一度、自分の手を見る。この手で、人を殺してしまった。どうすれば、これを避けられたのだろうか。
いや、避ける道はなかった。全ては、あの日から始まっていた。
誠司が父を殺してしまった日……あの時、無理やりにでも弟を警察に突き出していれば、ここまでの事態にはなっていなかったのかもしれない。
だが、もう遅い。戻ることなど、出来ないのだ。
「俺はもう、戻れないんだな」
ボソッと呟いた。
そう、もう戻ることなど出来ない。実家は、今では恐ろしい災害現場である。湖にいた人懐こい未知の生物は、人間を殺して食らう恐ろしい怪物になってしまった。父も弟も死んでしまった。
そして、自分は人殺しに成り果てた──
自分には、もう何も残されていない。
幼き日々の思い出の残っていた食堂と貸しボート屋は、人間と怪物により跡形もなく破壊されてしまった。自分の両手は、田山の流した血により真っ赤に染まっている。この汚れは、何度洗っても落とすことは出来ないのだ。人殺しの記憶は、一生消えることはない。
今、村の方向からは微かにサイレンの音が聞こえる。あの怪物が起こした騒ぎは、今や全国区……いや、世界レベルの大事件となっているだろう。
それもまた、自分たちのせいだ。怪物の恐ろしさを知っていたにもかかわらず、マスコミに告げなかった。結果、大勢の人間が死んだ。
改めて、自分たちの罪深さを思った。誠司……いや、家族ぐるみで行なった犯罪の隠蔽のために、大勢の人間が死んだ。浩市と誠司が殺したようなものだ。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
そもそも、自分は何を望んでいた? ただ、平穏に生きていたかっただけだ。
なのに、今は平穏とは永遠に無縁の人生を歩むことなってしまった……。
「あたしたちは、もう戻れない。あとは、前に進むしかないんだよ」
理恵子に促され、浩市は車に乗り込む。理恵子がハンドルを握り、車は走り出した。助手席には、スーツケースが乗っている。
その中には、五億円が入っているはずだ。これは、今やふたりのものである。にもかかわらず、心には虚しさしかなかった。
ふと外を見ると、夕焼け空が広がっていた。あかね色の空が眩しく、雲まで赤く染まっている。
浩市には、その赤は血の色に思えた──
その時、理恵子が口を開く。
「あんたが何を考えようと、それはあんたの自由だよ。でもね、忘れないで。あんたには、あたしが付いてることを」
「そうだったな」
そこで、浩市の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
確かにそうだ。家族も、実家も、まともな人生も、全て失ってしまった。
しかし、残っているものもある。というより、浩市にはそれしか残されていないのだ。
理恵子がそばにいる限り、何とか生きていける。また、生きていかねばならないのだ。
でなければ、死んだ誠司に申し訳ない──
・・・
怪物は、森の中を進んでいた。
銃で武装した数十人の警官隊が、慎重にその後を追っていく。猟銃を持ったハンターも数人、警官隊と同行していた。彼らは、このあたりの地形を知り尽くしている。狩りにも慣れていた。市から緊急の要請を受け、同行しているのだ。
さらに、上空にはヘリコプターも飛んでいる。パタパタという音を立て、周囲を旋回していた。その音は、怪物にとって耳障りなものだった。
突然、怪物はしゃがみ込んだ。直後、凄まじい勢いで跳躍する。
大木に飛び移った……かと思いきや、太い幹を蹴る。さらに弾みをつけたのだ。
ヘリコプターの下部に付いているランディングスキッドを、強い両手で掴んだ。あのソリのようになっている部分だ。その鉄棒を両手で掴み、ぶら下がっている形になった。
と、ヘリコプターの動きに異変が生じる。怪物の巨体が急に飛びついてきたことにより、バランスを崩してしまったのだ。大きく揺れ、ぐるぐると回転を始める。
怪物も異変を感じ取った。すぐさま手を離し、大木に飛び移る。その急な動きにより、ヘリコプターはさらなる衝撃を受けた。もはやバランスを修正することは出来ず、そのまま墜落する──
ヘリコプターは、地面に激突した。異様な音とともに、金属の固まりが有り得ない形に歪んでいく。乗っていた人間たちは、ひとりも生きていなかった。
その様子を見下ろしていた怪物は、体が打ち震えるような感覚に襲われていた。あの空飛ぶ巨大なものを倒したのだ。もう、自分に勝てるものなどいない。
己の強さに酔いしれ、怪物は空を見上げる。その時、銃声が響いた──
警官隊とハンターが、大木の上にいる怪物を発見し一斉に発砲したのだ。銃弾は、怪物の硬い外皮を貫く。外れた弾丸もあったが、かなりの数が命中していた。
怪物は、すぐさま木から降りた。どこから弾丸が飛んで来るのかわからないが、わかることはある。今すぐ、この場を離れるのだ。今ので、かなりのダメージを受けてしまった。体液も流れている。
次の瞬間、怪物は走った。人間はおろか、この世界に存在する全ての生物には出せない速度で走る。あっという間に、警官たちの視界から消え去っていった。警官隊も慌てて追うが、徒歩では追いつくことなど不可能である。
怪物と警官隊との距離は、どんどん離れていく。このまま行けば、逃げ切れるはずだった。だが、怪物は途中で足を止める。
地面に、人間の死体が転がっているのが見えた。それも二体だ。片方の顔には、見覚えがある。
腹が減っていたが、それよりも気になることがあった。周辺からは、懐かしい匂いがした。あいつの匂いだ。あいつの血の匂いである。
怪物は、そっと片方の死体を持ち上げた。見覚えのある方の体だ。
こちらの方が、あいつの匂いを強く感じられた。いろんなことを教えてくれた人間の香りがする。様々な記憶が甦った。
もちろん、目の前の死体があいつとは違うことはわかっていた。おそらく、先程までここにいたのだろう。
「ア、イ、ア、オ、ウ」
懐かしくなり。そっと声に出してみた。他にも、いろいろ言っていたのを思い出す。何を言っていただろうか。ただ、この言葉がもっとも記憶に残っていた。
まあ、いい。とにかく、今はこいつを食おう。怪物は、指で器用に衣服を引き剥がした。大きく口を開け、死体にかぶりつく。
妙な味がした。この肉塊は、今まで食べたものとは違う。だが、気にせず食べ続ける。あっという間に、一体を食べ終えた。次いで、もう一体の方にかぶりつく。
その時、銃声が鳴り響く。それも、立て続けに十発以上だ。うち数発は、怪物の体を正確に貫く。
怪物は、さっと立ち上がった。死体を投げ捨て、すぐさま走り出す。
しかし、体がガクンと沈んだ──
怪物の体に、異変が生じていた。
突然、手足が上手く動かせなくなってしまった。視界も歪んでいる。何が起きているのだろう。怪物は、ふらつく足で立ち上がろうとする。
次の瞬間、予想もつかない事態が襲う。頭の中で、おかしな感覚が広がっていった。頭の中で、得体の知れない何かが続けざまにバチンバチン弾けてる……そんな異様な気分だ。さらに、周囲では鳥のようなものが大量に飛び回っている。
これは何なのだろう。怪物は、両手を振り回して追い払おうとする。だが、当たっているはずなのに手応えがない。それどころか、ますます増えていくような気さえしていた。
怪物が先ほど食べた人間は誠司だった。死ぬ直前に、大量の覚醒剤を摂取していた。その影響が、彼の肉を食べた怪物にも出ていたのだ。しかも、怪物は地球上の生物とは体の構造が違う。したがって、人間とは違う効果が出ていたのだ。
もっとも、そんなことを怪物が知るはずもない。混乱し、さらに両腕を振り回すだけだった。だが、またしても異変が襲う。
突然、全身の力が抜けていった。腕が動かせなくなる。それどころか、立っていることすら出来なくなった。怪物は、バタリと仰向けに倒れる──
体から、緑色の体液が大量に流れ出していくのが見えた。いつの間にか、体に大量の傷が付いている。弾丸によるものだ。
そう、怪物は気づいていなかった。自分の周りには、何もいなかったのだ。虚空に向かい、ひたすら攻撃し続けていた。
その姿は警官やハンターらにとって、格好の標的でしかない。しかも、射殺の許可は出ている。彼らは、容赦なく撃ちまくった。
大量の銃弾が、怪物の体を貫いていた。通常なら、すぐに癒えるはずの傷。しかし、今は傷がふさがらない。その上、痛みも感じない。撃たれたことにすら、気づいていなかったのだ。
何が起きたのか、怪物にはわかっていなかった。覚醒剤を大量に摂取した人肉は、彼の体にさらなる害悪をもたらしていたのだ。先ほどの幻覚に続き、今は体の機能を蝕んでいる。持ち前の特殊能力が大幅に阻害され、再生不可能な状態になっていたのだ。
怪物は仰向けのまま、空を見上げる。突き抜けるように青く、太陽の光が眩しい。
思えば、この光に憧れて地上に来たのだ。
「ア、イ、ア、オ、ウ……」
口からは、そんな言葉が出ていた。
その意識は、徐々に闇へと沈んでいく。これが死ぬということか、と怪物は悟った。
これまで、多くの生命を奪ってきた。もっとも、それは生きるためだ。捕まえ、殺し、食らう。単純な生活だった。湖の底にいる限り、平穏に暮らせたかもしれなかった。
ところが、上の世界に興味を持ってしまった。光の当たる場所。しかも、そこでは様々な生き物を見た。巨大なものがいる。異様な音を出すものもいる。痛い思いをさせるものもいる。
そして、あいつとの出会い──
「ア、イ、ガ、オ、ウ……」
ただひとつ覚えている言葉を、そっと繰り返した。
あいつは、他の人間と違っていた。いろんなことを教えてくれた。一緒にいる時は、本当に楽しかった。
他の人間……いや、他の生き物といる時には、感じることのなかった感覚。それを、あいつは教えてくれた。
出来ることなら、もう一度会ってみたかった──
「ア、リ、ガ、ト、ウ……」
それが、最期の言葉だった。
直後、怪物の意識は闇に消えていった。
息絶えた怪物の周辺には、大勢の人間が集まってきている。勇気ある者が、恐る恐る死骸へと近づいていった。しかし、怪物はピクリとも動かない。
怪物が死んだと見るや、人間たちは一斉に動いた。獲物に群がる蟻のように、彼らは怪物の死骸へと群がる。
その後の行動は様々であった。死骸を足蹴にする者がいるかと思えば、カメラを向ける者もいる。中には、笑いながら死骸の上に立ち記念撮影する者までいた。
人々は今、勝利に酔いしれ死骸を蹂躙している。彼らの目は、狂気にも似た光を帯びていた。
人間たちは、まだ知らなかった。
世の中には、単為生殖が可能な生物がいる。この特性を持つものは、たった一匹で子供を生むことが可能なのだ。怪物も、この単為生殖が可能な個体だった。
湖の底には、怪物の遺した卵がある。大量の水草に覆われたまま、誰に知られることもなく置かれていた。
湖に棲むもの、その周りに住む者 板倉恭司 @bakabond
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