第65話 米市民の義務の一つである陪審制

 米国では、刑事事件以外の事件で陪審員裁判を日常的に利用している。アメリカ市民となると、陪審員となる義務が課せられることが結構頻繁にある。

 

 米市民が陪審員候補として出動する要請がどのように決定されるのかは知らないが、真奈は、少なくとも、アメリカで育っていない者が、この国の習慣、文化、規則までを細かく理解して一個人の人生を決定する有罪無罪の判断をするのは適切ではないといつも思っていた。


 それなのに、真奈がアメリカの市民権を取った途端、もうすでに3度も陪審員の候補となることが要求された手紙を市から受け取った。


 しかも、そのうちの一回は、実際に陪審員となる一人として選ばれてしまったのだった。


 裁判所の事務員は、陪審制こそ民主主義を象徴する素晴らしい制度であると謳っていた。


 しかし、陪審義務のない日本から来た者としては、どうしても陪審制自体に疑問を抱いてしまう。


 それで、真奈は、

「陪審員となることに賛同しますか?」という質問に、

「ノー」と答えざるを得なかった。すると、裁判所は意地悪な質問を出してきた。


「あなたの職業は何ですか?」真奈の書類にはすでに職業として「翻訳者」と書かれてあったので、本当に知りたくて聞いたのではなかったことが伺われた。


 判っていて、わざと真奈に自分が翻訳者であることを言わせたかったのだろう。英語が解る筈なのに、ただの責任逃れの言い訳と取られたのだろうか?


 裁判官と五十人近い陪審員候補のいる前で、なぜ自分は陪審員に不適格だと思うのか、納得の行く説明をすることを強いられてしまった。


 真奈は裁判官の前で、改めて自分のルーツ及び職業自体を思い起こし、本音で話をした。


「私はアメリカの陪審制のあり方自体に大きな疑問を感じています。私が生まれ育った国、日本ではこのようなシステムはありません。法律に通じた専門家たちによって判決が下されています。そういったシステムに慣れた者にとっては、法律に全くの素人である一般市民たちが、感覚に頼って人の運命を左右するような大それた判断を下していいものかと不安に感じてしまうのです。


 また、アメリカで育っていなくて、英語が第二外国語である者の場合、いくら普段英会話に困らないとしても、いつ何時微妙なニュアンスなどで勘違いをしてしまう恐れが全くないわけではないのです。なぜなら、文化の違い、考え方の違いが大きく影響して来ることがあるからです。


 確かに私はこれまで長年の間通訳をしてきました。通訳という仕事をこなすにもそういったことに関する細心の注意が要求されているため、常に緊張と不安の連続でした。それゆえに、きょうの様に人の人生が破壊される危険性を秘めている深刻なるケースを扱うのは私のような者ではなく、アメリカで生まれ育った人の方を優先すべきだと考えるのです。」


 その後、裁判官は何人か別の裁判官とも相談して、やっと真奈の理由を受け入れて陪審員の義務から解任してくれたのだった。


To be continued...

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