第49話 過去の日系人による犠牲
アメリカに来たばかりの頃、真奈はお小遣い稼ぎにアメリカ人の子供のベビーシッティングをするバイトをした。男の子たちが戦争ごっこを始めると、悪者はいつも日本人だった。彼女はその度に日本人として肩身の狭い思いをしていた。
その上、毎年、真珠湾攻撃記念日の12月8日(アメリカでは12月7日)が来る度になんとなく居心地の悪い思いをしたものだった。テレビのニュースは必ず、日本人が卑怯な手段という意味を込めたSurprise Attack(奇襲攻撃)を使ったと報道するからだ。
アメリカの古いコメディの中でも、時々日本人を軽蔑する「ジャップ」という言葉が聞かれたが、その頃はどうやって日本を弁護して良いのかの言い訳さえ知らなかった。
90年代、日本や日本人に対する反感が高まっていた頃、真奈はジャパンバッシングに負けないようにデトロイトにいる日本人を勇気付けようと地元のラジオ局で日本語放送を毎週担当すると同時に、アメリカ人に日本人を理解してもらう一手段として、日本語と英語のバイリンガル雑誌も始めた。
日本語雑誌に載せる記事として、第二次大戦中、日本人収容所に入れられていたという日本人にインタビューを入れてみた。
その人はカリフォルニアの収容所を出た後にデトロイトにやって来ていた。
ところが、当時はまだ戦後の日本人に対する偏見は強く、アパートを探していても、「空き部屋あり」とあったサインが、日本人と分かった途端、「空き部屋なし」に変わったと言う。
またある時には、バスに乗ろうとして拒否されたので警察に連絡をすると、日系の人はまったくお酒をやらない人だったのに、バスの運転手はその人が酒に酔っ払っていたから引きずり降ろしたのだと出任せを言った。
彼は真奈の方を向いて、真剣な表情で質問してきた。
「今までデトロイトにおいて、日本人だからということで差別をされたことがありますか?」
「ジャパン・バッシングの犠牲になったことはありますが、それは皆狂った人々によるもので、良識のある米人からは差別など受けたことなどありません。黒人の子供にチンク(中国人に対する軽蔑語)と呼ばれたことぐらいです。」と答えると、
「そうでしょう。それは先にデトロイトに来た我々が、どんな嫌がらせに遭っても日本人の評判を悪くしてはならないという思い一筋で、ずっと耐え忍んだからなのですよ。どうぞそのことをけっして忘れないで下さい」と、きりりとした口調で訴えた。
真奈も、
「分かりました。有難うございます。どんなことがあっても忘れません。」と真剣に答えたものだった。
普段、平和で何もない時代はいい。
しかし、ひとたび日本やアメリカで何かネガティブなことが起きた場合、現在アメリカで問題なく暮らしている我々日本人も、突然「日本人」として色眼鏡で見られ始められるようなことが再びあるかもしれない。
また同時に、今後日本からやってくる新しい世代の日本人のためにも、常に故国、日本の人々が誇りに思ってくれるような行動を取らなくてはならないと真奈は肝に命じたものだった。
残念なことに、新型コロナウイルスに関するつい先頃のアメリカでのアジア人攻撃は、そのいい一例となってしまった。
To be continued...
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