第15話 巫女という名の呪縛
あの後から。
ブラフの部屋の前で羞恥心に殺されかけた後から、俺はブラフの顔をまともに見れなくなってしまっていた。
『リューン?ホントに大丈夫??』
『あ、ああ、疲れが出ただけだと思う』
『ならいいんだけど……』
一時間ほど前にみんなの待つ茶の間に戻って食事をするため席に座った俺は終始斜め前にいるバルデルか男、もしくは両隣りのシャルかフィルオーヌの方を見ながら話をしていた。
一緒に戻ってきたはずのブラフとは一言も言葉を交わさない……どころか、顔すら見ずに。その事には当然誰もが気が付いていたはずだ。しかし、何かを察して触れてくる事は無かった。
その理由の一つにはブラフが怒っていなかったというのもあったのかもしれない。けれど彼女も平常というわけでは全くなかった。
顔が赤いのを誤魔化すためだったのか何なのか。彼女は茶の間に戻ってテーブルの上に用意されていた液体の入っているジョッキを見つけるや否や駆け寄り一息に煽った。
無論中身は酒。度数などは全く分からなかったが、例え低い度数だったとしてもあの勢いで飲み干せば酔いが一気にまわるのは当たり前の結果だったろう。
だがそれでもブラフは止まらなかった。
『たまには飲まねーとなぁーー!!』
そう言ってバルデルの分のジョッキをひったくると再び一気に煽り、ろれつがうっすら怪しくなり始めた彼女は上機嫌にどっかりと自分の席に腰を下ろした。
それからは滅茶苦茶だった。
どうもブラフは酔うと何かに抱き着く癖があるようで、初めは座っている椅子、次に酒の入った石樽でそれ以降はバルデルとシャルに交互に抱き着いていた。
『うへ、うへへへへ!やっぱ龍族は酒だよなぁー!そー思うだろばるでるぅーー』
『ね、ねぇさん、そっちはシャルさんです。アタシはこっち……』
『えー?あ、ホントだ。ごめんえしゃるぅー』
『あーっと、そっちは妹さんかなぁ~…なんて』
『す、凄いわね、彼女』
『我が娘ながら本当に。普通龍族はあのくらいでは酔わないはずなんだけどね。どういうわけか極端に弱い』
1を入力されると出力されるまでに0.5に減ってしまっているらしく、ブラフは食事が終わるまでずっとこんな調子だった。
ある意味では俺の中にあった羞恥心が霞んで見えるくらいには凄惨な席だったと思う。
けれどやっと、ブラフが眠気に誘われ落ち着いた頃。男が全員に視線で合図を送りお開きの流れになった。
『さ、ねぇさん。今日はもう寝ましょう?』
『んー?しゃ…ばる……?』
ジョッキを押しのけてテーブルに身体が沈み始めたブラフの両肩をバルデルは優しく揺すって立ち上がるように促していた。
……事件があったのはそこだ。
『あー、どっちでもいいか。今日は担い手さまに頼むからいいよぉ』
『……はい?』
身体が硬直したバルデルを……その場の全員を他所に、覚束ない様子で立ち上がったブラフは俺の下へと千鳥千鳥近寄ってきたのだ。
『ほらぁ、行くぞぉ担い手さまよぉー。アタシらだけでしんぼくかいだぁー』
『お、お、お!?力つっよ!?』
疑問を口にする猶予も、抵抗する余裕もなく、無理矢理椅子から引きずり降ろされた俺は引きずられるような形で部屋の外へと連れていかれた。
その間、ずっと見えていたのは目を丸くして俺達の方をーー恐らくはブラフの方をーー放心状態で見つめていたバルデルの顔ばかり。
きっと他の三人も状況について行けていないような顔をしていたに違いないのだが、俺の脳裏に焼き付いたのはバルデルの浮かべていた[衝撃で放心した顔]ばかりだった。
「(……で、今、か。思い返しても酷いなこれ)」
真っ暗闇の中、クッション性のまるでないソファの上で横にさせられた俺は一人用のテーブルを一つ挟んだ先にあるベッドで横になったブラフの方を見つめていた。
今いる場所は彼女の部屋だ。
明かりは一切なく、完全な暗闇なので何も見えてはいない。見えてはいないのだが、彼女が俺をソファに放ってベッドに入った時までは明かりは点いていた。
その明りを消す少し前、ブラフは俺の方を向いた時に一瞬硬直していた。
それが意味するところは恐らく……。
ーーまぁ、あれだけ騒いでれば酔いも醒めるよな。普通。
……恐らく、自身のしでかした行動を正しく認識してしまったんだろう。今のこの状況と同時に。
ーーさて、どうしたものか。
ブラフが正気に戻り、この状況を後悔している可能性がある以上俺はここから出て行った方が良いに違いない。
だが再三把握しても部屋は真っ暗。魔法を使えば暗視もできるが必要以上に鮮明に見えてしまうしそこはブラフの望むところでもないだろう。
かと言って一人部屋という狭さにかこつけて闇雲に進んだしりして万一にもブラフのベッド側に行ったり、躓いて転んだりでもすれば面倒な事になりかねないせいで迂闊な行動はとれない。
ついでに言えばみんなの前に戻るのも若干気が引ける。……いや、これに関しては朝になればなるほど気まずくなるか?
いずれにしろ直ぐに行動に出るには少しばかり不安要素が大き過ぎる。最低でも室内の暗さに目が慣れるまではおとなしくしていた方が良いだろう。
ーー仕方ない。慣れるまで天井でも見てるか。
方針が確定し、特に意味も無く放られた時のままだった視線を真上へと向ける。
……当たり前だが何も見えない。
記憶が正しければ天井にガラスで覆われた照明器具が付いていたはずだ。まずはそれの輪郭が分かるようになるまで待っててみるか。
ーーそういや、腹が減って無いな。
暗闇を見上げつつ、ふと思い出して腹に手を当てる。
あれだけ心配していた空腹は無い。騒ぎもあって結局口にしたのは用意されていた酒だけのはずだったが、どうやら炎凍龍族に伝わる例の酒というのはちゃんと空腹に効果があったみたいだ。
まぁ、あんな状況で飲んだせいで味はあまり思い出せないが。
「……なぁ、おい」
少しずつ物思いに耽り始めた頃、唐突に、けれどか細く、ブラフの声が耳に届いく。
「…………寝てるか?」
少しだけ考えた。返事をしてもいいモノかどうかと。
「お陰様でぐっすりだよ」
「っは。よく言う」
けれど直ぐに返事を返していた。理由は分からないがそうするのが正しいと感じたんだと思う。
「悪かったな。アタシ、かなり酒癖が悪いんだ」
「しかも弱いんだろ?知ってるよ」
「…そうか。まぁ、そうだよな」
部屋の端の方から小さな笑い声が聞こえる。
彼女のろれつはもう問題がなさそうだった。
「あれだけ恥ずかしいところを見せといて今更知らないふりは無理だよな」
「ま、そうだな」
ほんのりと消えいく声でそう漏らすと少しの間彼女の方からは何も聞こえなくなる。
だが。
「……アタシが巫女の役目を知ったのはすげー昔の事なんだ」
ポツリと。まるで意図せぬ衝動に駆られたかのような唐突さで彼女は昔話を始めようとした。
「別に、興味ねーよ。大事にしとけ」
「気にすんな。アタシが話したくなったから話すだけだ。聞きたくねーなら寝てろ」
ぶっきらぼうに、けれど優しさを感じる声色で。そう吐き捨てた彼女は続きを口にした。
運命(さだめ)を決める神がいるなら苛立ちを覚えてしまうような辛酸な記憶を。
ーーーー
あれはアタシがまだ片手で歳を数えきれるくらいの頃だ。
アタシら炎凍龍族は世界各地に散らばってその地域の情報を集めたり、因果の観測で事件が起きると分かればそれとなく解決に導いたりしながら龍目……人目を避けて暮らしてるんだが、それは当時も同じで今とは全然違う場所で暮らしてた。ただアタシらは他と少しだけ事情が違くて、より誰も訪れないだろう秘境に住んでたんだ。
その事情ってのが[巫女の血を引いている]事だ。だから火氷界じゃ滅多にお目に掛かれない、どんな生物でも安全に生きていける滅茶苦茶な洞窟に住んでいた。
他の炎凍龍族にすら会うか分からない場所だ。普通の龍族が来る事はまずあり得ない。
その洞窟でアタシはバルデルの生まれる瞬間を見た。落ち着いているようで慌ててる親父と、産婆の炎凍龍族二人と一緒にだ。
当然母さんもそこにいた。バルデルを生むために懸命に戦っていた。
安産とは言えないが難産ってほどでもねぇ、まぁちょっと大変ってくらいの格闘の末にバルデルが産まれた。
何でか分かんねぇのに泣いたのを覚えてる。親父も泣いてた。産婆は疲労困憊ながらも笑顔だった。
けど、母さんの顔だけは思い出そうとしても思い出せねーんだ。
それから半年くらいした日。アタシは母さんを探しに洞窟の奥に行ったんだ。
親父が因果の観測で視た内容を近くの居住区に住む龍族に伝えに行ってる間に目を覚ましちまったバルデルをどーにかして欲しかったんだよな。
まぁ洞窟の奥っつっても家からはそんなに離れちゃねぇ。精々五分も歩けば行き止まりの湖に着くくらいの場所だ。
そこに母さんはいた。
自分の胸元にでっかい風穴を開けて、血を流して倒れてたんだ。
っは!いきなり過ぎて訳がわからねぇか?
アタシもそうだった。
けど、現実ってのはアタシの心構えとは関係なくこっちに向ってくるもんだ。
『ごめんね。なすり付けてごめんね』
立ち尽くしてるアタシを見つけた母さんが最期に言った言葉がそれだ。
何言ってるか分かんなかった。ただ、目の前で母さんが死んだ事だけははっきりと分かった。
何処からか聞こえてた小さな風の音が止んだんだ。それが胸の穴を通って出ていく呼吸の音だと気が付いたのは多分、生物としての本能的な何かだったんだろうな。
それからどれだけ立ち尽くしてたのか分からねぇ。もしかしたら座り込んでたかもしれねぇ。仰向けだったのかも、うつ伏せに倒れ込んでたのかも、全然覚えちゃねぇ。
次に意識がはっきりした時には親父に背負われてた。
あの親父が泣いてたよ。バルデルの時はともかく、結構酷い観測をしても平気なツラしてる親父がな。
それで母さんは、……アタシには判別がつかなかったがどうやら自殺だったらしい。使ったのは矛盾なる賢者って話だ。
アタシよりも上手く使えた母さんは指先サイズの球にまで形を留める事が出来たんだとよ。んで、それを自分で自分の胸に押し当てた。
結果はアタシの見た通りだ。
二日後、母さんの献杯式をした。人間風に言うなら葬式ってヤツだ。
で、その日の夜。アタシは親父に聞かされた。
母さんが前代の巫女で、最初の子であるアタシが産まれた時、母さんからは巫女としての特性が失われてアタシに移り変わっていたって。
それで理解できたんだ。『なすり付けて』って言葉の意味が。
けど、母さんが自殺した理由はそれだけが原因じゃ無かったんだよな。
同じ日の遅く、いつもは必要分しか酒を飲まない親父が珍しく茶の間で何杯も煽ってたんだ。
それをアタシは扉の後ろに座って部屋の中の雰囲気と親父の声を感じてた。丁度今日のお前みたいな感じでな。
その時に口を滑らせてたんだ。
『ブラフを産んだのは愛だった。けどバルデルを産んだのは血を残すためだけだった。お前は本当にそう思ってたのか?カルデラト』
ってよ。
ーーーー
「ーー以上が巫女であると知った経緯だ。ま、おまけも少し話しちまったが」
全てを話し終えたブラフはそれ以上言葉を続ける事は無かった。
俺は彼女のその話をただ黙って聞いていた。
憤りも、苦しさも、自嘲するような含み笑いも。全て。
ーーろくでもねぇ。
掛けてやれる言葉を見つけられない自分の不甲斐なさに腹が立った。
今すぐにでも何かに当たりたい気分だ。跳ね返りで自分の骨でも折れればなお良いと本気で思えてしまうくらいに自分が情けなくて仕方が無かった。
これはーー巫女は、呪縛だ。
フィルオーヌのように最初から自分で抱えていたのならまだいい。祀り上げられたにしても当事者であるのなら心構えってモノがまだ何とか出来るはずだ。
けれどブラフのように何世代にも渡って継承し続けているような場合、そこに意図を挟む余地が無い場合、もう、どうしようもできない。
しかも彼女達は因果の観測で未来が視える。だとすれば彼女の母親までの代は生涯を棒に振るような悪辣な苦しさに苛まれずに済んだはずだ。けれど、役割を果たさなければならない巫女を……ブラフを生まなければならなかった彼女の母親はどれほどの針の筵の上にいたのだろうか。
同じ血を残すためにはもう一人の子をもうけなければならなかった彼女の母親は一体どれほどの葛藤があったのだろうか。
[死なせるため]に産み、[一人目の代わりに]産むーー。
そんな行為、親であるなら到底許容できないだはずだ。
はずなのに、やらざるを得なかった。
巫女としての役目を果たせなかったのならば同じ特性を孕む可能性がある血を残さなければならない。巫女としての役目が果たせると仮定したとしてもやはり子を一人失わなければならない。
家族を持つという本来なら祝福されて然るべきはずの幸福がそこには無い。
そしてそれは同時に、ブラフに無償で付随しなければならないはずの[存在]という事実が決定的に欠落していた。
「嫌んなるよな。どう転んでもアタシに幸せはねーんだぜ、この話。なにせアタシは魔王退治に成功してもしなくても結局いなくなるのに変わりはねぇーんだからな。それでどーやって楽しく生きろって話だよ。ははっ」
「だから俺がいるんだろ」
「…あ?」
「だから俺がいるんだよ」
理解し難い現実だ。
違う。理解してはいけない戯言なんだ。
「さっきも言ったよな?俺を利用しろって。アレ、少し訂正だ」
知らぬ間に暗闇に慣れた視線をブラフの方へと向ける。
そこには薄っすらと彼女の顔の輪郭が見える。
表情までは伺えない。けれど、何故こっちを向いているのかはなんとなく理解できた。
……ずっと、心細かったんだよな。
「俺はお前に生きていて欲しい。巫女とかそんなの抜きにしてもだ。こんな泥の中を這い回されたお前には本来の心で色んなものを見て欲しい。だから俺を利用しろ。俺を利用して生きて帰ってくれ」
誰がなんて言ってくれたとしても結末が変らないと分かってればそんなのは戯言にも程遠い虚言や妄言でしかない。
なのに自分で自分を慰める方法も、奮い立たせる手段も分からない。逃げる事だってきっとできなかったんだ。
だから自分で自分を丸め込んで、納得したふりをして、結局独りきりになっちまった。
どうせ周りを見回しても誰もいなくなってしまうから。
最期は自分の意思なんて関係なく死ぬしかないと知ってしまっているから。
だが、だが。そんなのは俺が認めてやらない。
独りきりで逝くなんて認めない。存在の否定なんて許さない。
「それでもし、帰って来ても行く先が分かんねぇってんなら俺とこい。お前が添い遂げてもいいと思える相手を見つけられるまで、死ぬまで傍にいてやる」
身体を起こし、ソファに座り直して手を差し伸ばす。
ブラフに見えてるとかどうとかそんなのは関係ない。
もし少しでも、俺のこの気持ちが伝わるのなら……雰囲気だけでもいい、少しでも多く伝わるのなら何だっていい。
お前はもう独りで抱え込まなくていいんだと知って欲しい。
「……そんときゃ、シャルも一緒か?案外嫉妬深いかもしれねぇ~ぜ、アタシもあいつも」
闇の先からブラフの声が聞こえる。
その声からは俺の想いが伝わったかどうかまでは分からなかった。だが少なくとも、言葉ほど否定的に受け取っているわけでは無いとだけは分かる。
「なら尚更いい。ケンカだって仲間でやりゃ楽しいだろ?なんなら俺を追い出して巫女とシャルとの六人で暮らしたっていいんだからな」
だからシャルの代わりに答えた。今の話を聞けばあいつは間違いなく俺の提案に賛成してくれる確信がある。だから代弁をした。
他の巫女は……正直分からないが、ブラフと似た境遇の子がいるとすれば一人くらいは頷いてくれるだろう。
例え頷かなくとも、シャルでさえ嫌だと言ったとしても、俺だけは拒まない。それだけは絶対だ。
「…っは。そうかい」
伸ばした手の先で小さな笑い声が上がる。
同時に、暗闇に浮かんでいた影が大きく動いた。
「後で後悔したっておせぇからな。男に二言はねーだろうなぁ?」
「あるかよ。そのくらいの甲斐性は持ってるつもりだ」
影は数歩傍へと寄ってくる。
そして、俺の伸ばしていた手に温かさが灯った。
「良いぜ。てめーの口車に乗ってやるよ。どうせなんにも変わらねぇって分かってるけどな。死んだ後の駄賃にはなるだろうぜ、お前のその心はよ」
「後悔はさせない。利用しろ」
「ああ、きっとしねぇよ。アタシはもう、きっとな」
隣に影がーーブラフが、腰を下ろす。
そうして直ぐに俺に身を寄せた。
「じゃ、早速利用させてもらうぜ。一度でいいから柔らかいモノに身体を預けて寝てみたかったんだ」
右肩から全身にブラフの体重が掛かる。
はっきり言えばかなり重かった。それこそ見た目にはまるでそぐわない質量を感じる。まるで鉄や鉛のような重さだ。
けど、それだけだ。
「…どうだよ、寝心地は」
「悪くねぇ」
「……そうか。なら良かった」
この会話を最後に、ブラフの声は聞こえなくなる。
代わりに耳に届いたのは、聞いているだけでこっちまで眠くなってきてしまいそうな穏やかな寝息だけだ。
「………絶対、笑わせてやるからな。余計なしがらみ全部取っ払って、心底から、絶対に」
自分でも知らずの内に伸びた左手で彼女の頭を胸元へとゆっくりと滑らせる。
それから俺が下敷きになるよう、ゆっくりと仰向けになった。
ブラフの望みが少しでも多く叶うように。
ーーーー ーーーー ーーーー
翌朝、目が覚めた時にはもう部屋にはブラフはいなかった。
代わりにテーブルの上に置かれていたのは薄い正方形の石だ。
そこには何か文字のようなモノが彫られている。
「……置手紙、か?」
背中に襲い掛かるこの世の終わりのような痛みに顔を歪めつつ石を拾い上げる。
平面に彫られているのはやはり文字のようで、かなり拙かったが俺達人間が使っている文字だ。
「『ありがとよ、お陰でぐっすりだったぜ。んでもってアタシは出かけてくる。親父にはどこに行くか伝えておくから後で来い』……か?」
若干勘に頼りつつ置手紙をーー置手石?を解読し、ポケットにしまってからブラフの部屋を後にした。
ーーさてと、早速呼び出しか。そうこねぇとな。
廊下を進んでバルデルの部屋を通り過ぎて昨日食事をした茶の間の扉を開ける。
「や、おはよう。…で、挨拶は良かったかな?」
「ああ、おはよう。合ってるぜ」
開扉早々届いたのは男の声だ。
彼はテーブルに一人で腰かけ、朝食の入ったジョッキを片手に人間風の挨拶を向けてくれた。
「昨日は大丈夫だったかい?乱暴するような酔い方はした事は無かったが、もしかしたらというのもあるからね」
「問題なかったぞ。なんならあの後少し話せたし、少しは親睦が深まったと思う」
「はははそうだろうね。でなければあの子があそこに来いと君を呼ぶはずが無い」
「そうそうそれだ。俺はどこに行けばいいんだ?」
相変わらず嫌味なのか何なのか分からない口ぶりでそう言った彼はジョッキを置くと立ち上がって部屋の隅に置かれている棚らしき家具へと向かう。
「なぁ」
ごそごそと俺に背を向けて棚を漁っている男に問いかけるが返事は直ぐには返ってこない。
「まぁそう焦らないで。今地図を……あぁ、これだこれ」
棚底の方から拾い出したのか、男は取り上げ難そうに二つ折りになっている薄くて平らな石を取り出す。
「行ってもらう場所は結構遠いんだけどね、昨日シャルさんから聞いた話じゃ君は移動魔法も使えるらしいしそれほどかからずに行けると思うんだけど、どうだい?」
「あぁ、まぁ、飛行の真似事もできるが……」
「ならいい。行ってもらいたいのはカルデラトの……あの子の母親の埋葬されている秘境さ」
「……!」
二つ折りの薄くて平らな石ーー地図を手渡されながら男が口にしたのは少し以上に衝撃的な場所だった。
ブラフの母親の墓がある場所って事は、昨日言っていた例の秘境の事か!?
「場所が場所だけにもう全然行っていなかったからね。……私自身、近寄り難い場所なんだ。だから君にも代わりに伝えてきてほしい。私はのうのうと元気にしていると妻に伝えて欲しいんだ」
普段と同様の口振りで、しかしその目の奥を深く沈ませながら男は笑う。
「…そうか、分かった」
胸中にせり上がってくる悲しみに蓋をし、地図を受け取った俺はただ頷いた。
忘れていた。妻が艱難辛苦の末に自ら命を絶ったと言うのなら、残された夫にも耐え難い苦しみがあったはずなんだ。
けれど、母に続いて父も消えれば子供は路頭に迷いまともには育たない。それだけはならないと自身を奮い立たせて彼は戦ったのだろう。
……彼もまた巫女の呪縛に生涯を狂わされた一人に違いない。
「あぁそうだ。この際だからいい加減聞いておくか。あんた、名前は?」
踵を返し、茶の間を後にしようとしながら男に問いかける。
このタイミングで聞く事に理由なんてのは無い。
ただ、あるとすれば。今の彼が思い出してしまった底知れぬ悲しみから少しでも気を紛らわせる事が出来ればという思い付きだけだ。
「私かい?私はヴァヴァル・アイン。ブラフとバルデルの父でカルデラトの夫。そして君達の世界に異変を伝えた者だよ。……下手に先入観を抱かれると面倒だからね。黙っていたんだが、もういいだろう」
「……そうか。あんたが」
そうして知った彼の名前はサリアンス王に魔王の復活を伝えた者の名だった。
「ああ、黙っていて悪かったね。シャルさんとフィルオーヌさんにはちゃんと私から言っておくよ」
「そうだな、そうしてくれ」
言葉では驚きつつも不思議と衝撃は無かった。
いや、あるはずも無いか。
因果の観測なんていう規格外の力を持つ種族だと知った時からもしやというのはあったんだからな。
「じゃあ行ってくる。シャル達によろしく」
「うん、行ってらっしゃい。気を付けて」
ようやく判明した彼の名前にどことなくすっきりとした感覚を覚えながら部屋を後にする。
それから少しだけ玄関までの道に迷いつつもなんとか外に出られた俺は飛行の真似事をするために両足の裏に魔力を込めた。
ーーーー
空を駆けるように両脚を動かす。
真下には紅と蒼白い地上が見える。
「久しぶりにやってみたけど案外覚えてるもんだな」
地図を片手に空を駆けながら思わず言葉を漏れ出る。
俺が今使っているのは移動魔法の中級上位に類される[空歩]という魔法だ。
理屈的に言えばこれは飛んでいるわけでは無い。
足の裏に一定量溜めた魔力を定期的に破裂させる事で推進力と足場を用意している。だから[飛ぶ]というよりも[歩く・走る]といった表現の方が適切だ。
速度に関しても魔力の破裂させる勢いや量を調整するだけで好きな速さで飛ぶ事が出来るという移動魔法の中でもかなり利便性の高い魔法で理論上では無限に加速できる。魔力を使い切らない限り空に居続ける事も出来るので逃げるのにも適している。
ただ、[速度が出る]事と[速度が出せる状態]は意味が全く違う。
速度が速くなれば速くなるほど使用者を襲う空気抵抗や風圧は必然的に増していく。それでもなお速さに挑もうとすればそれらは使用者に危害を加え始める。
そしてそれらの危害に対する耐性は使用者によって大きく異なってくる。
所謂パイロットスーツやヘルメットのような特化した装備を真似た膜を使用者は魔力を使って身体を覆うようにして張って疑似的に再現するのだが、その耐久値の最大値がほぼ才能に依存している。
特にGが掛かる速度に耐えられるかどうかは完全に才能に左右されると言っていいのだとモルモル村で唯一空歩が使える村人から話を聞いた。
幸い俺は2Gまでは問題なく速度を出せるらしく、3Gは極短時間なら何とかというところだった。
しかしこの魔法は完璧に一人用のため使える者と使えない者で組んでしまうと途端に扱いにくい魔法になってしまう。なので使い手が少ないらしい。
ちなみにシャルはてんで駄目だった。
ーーだからまぁ、本当はもっと速く行けるんだが……。
今回は地図を見ながらの移動なので速度を出し過ぎると見逃す可能性がある。なのであまり速さを出せていない。
今の時速五十キロ程度が注意深く捜せるギリギリの速度だ。
ーー……さて、この辺か?
地図と地上を交互に見比べながら駆けていた俺は記されている秘境の地形と近い場所を見つけて一度立ち止まる。
「真上から見た感じだとこの辺りで間違いなさそうだな。一度降りてみるか」
二、三度地図と地上を凝視したところ違いはあまり見られなかったので秘境に繋がる洞窟を探すために灼熱と極寒の地の間に降りる。
すると。
「お、ドンピシャ」
二つの地の境界線上で大きな穴の空いている場所を見つけた。
その穴は真横に空いているのではなく斜め下に向っているようで、ぱっと見は奈落への一本道のような印象を受ける。そもそも入り口から既に塗りつぶされたような黒さをしている。
上空からは見えないように突起した大岩で隠されていたため地面に降り立たないと発見できなかったみたいだ。
「………行くか」
地図を二つ折りにしてカバンにしまい、指先に小さく火を灯して洞窟の中へ足を踏み入れる。
中は暗い。外から見た第一印象に間違いは無かったと直感するくらいには暗い。
今点けている火だけでは明かりとしては心許ないと思い、二回りほど火を大きくする。
結果的に大きめの松明程度になった炎で照らし出された周囲は既に秘境と呼べるほどに特殊だ。
洞窟の壁や天井や床は基本的には氷で出来ている。しかし、ひび割れのように走ったジグザグさを思わせるあらゆる線は炎。
それらは光を放つ事無くメラメラと燃えている。けれど周囲の氷からは一滴の水滴も垂れていない。なのに手を近付ければ徐々に熱さを感じる。
「はは、何が暮らし易い場所だよ。一番おかしなところじゃねぇか」
見ているモノ、感じる事、全てが自然の摂理に合わない。
熱は光だ。氷は熱で溶ける。そもそも氷と炎は共存できるはずが無い。
ないはずなのに、現実として目の前に存在している。
「……やめよう。頭が痛くなってきた」
あまりに意味不明な事実に何とか答えを見つけ出そうとしたがやめた。
そもそもここは異世界で、相反する二つが共存している場所。ちょっとやそっとの法則の違いくらい起きて然るべきだろう。……と、いう事にした。
「それよりブラフを見つけないとな」
指先に灯した炎を前へと突き出し洞窟の先を見据えてみる。
が、現状確認できるのはイカれた自然の法則だけ。もっと奥まで行かなければブラフ達の暮らしていた家の扉は見えないのだろう。
「…とにかく進むか」
突き出した炎を戻して歩き出す。
ーーそうして、景観が変わらなければ分かれ道も無い一本道を暫く歩くと。
「やっとか……」
それまでの壁や天井とは違い、ごく普通の岩壁が広がる開けた場所へと出た。
その中央には同様の岩を用いて造ったのだろう家がある。
扉は微かに開いており、ブラフが訪れているのだと直ぐに分かった。
「おーい、来たぞー」
一先ず大声を出して呼びかけてみるがちょっとした自分の声の反響はあっても彼女からの返事は無い。
「……入るぞ~?」
なんとなく断りを入れてから微かに開いていた扉を開ける。
開けた先に見えたのは天井の燃える石を覆った丸ガラスとテーブル、それと四人分の椅子。
そしてその椅子の一つに座り、テーブルに突っ伏して寝ているブラフがいた。
「…不用心だな。まぁ、誰も来ないとは思うけどさ」
奈落を思わせる洞窟ーーであるならば近寄る者はそうはいない。仮に足を踏み入れても先に何があるのか分からなければあんな道は途中で引き返しているだろう。
だから不審者に対する心配はあまりしなくてもいいとは思うが気持ちとしてはやはり小言を言いたくはなる。
ーーなんて考えても仕方がないな。起きるまで待つか。
先程の呼びかけで起きる気配が無かった。なら無理に起こしてもかわいそうだ。
自然に目が覚めるのを待つため、指先の炎を消しつつ音が極力立たないように気を付けながら正面の椅子に座る。
「ん…んん……」
寝息なのか声にならない寝言なのか。ブラフはどちらともつかない音を何度も出しては頭の向きを変える。
だが目は覚めない。
それほどここは彼女にとって心の休まる場所なのだろう。やはり幼少期に過ごした家だからだろうか?
…それとも。母の残り香が彼女を包んで離さないのだろうか。
「……いずれにしろ罪な場所だな。ここは」
椅子の後ろ脚二本のみを接地した状態でゆりかごのように身体を揺らして辺りを見回す。
造りはどことなく今彼女達が住んでいる家の内装に似ている。大きく違う点は家具がこのテーブルと椅子しかない事ぐらいだ。
住む者がいないのだから当然と言えば当然なのだが、そのわりには部屋がかなり綺麗だ。隅々まで掃除……とまでは言わないが、目の付くところは埃が殆ど無い。
一番埃が溜まりそうなテーブルや椅子に至ってはしっかり掃除されていて生活感すら感じてしまう。
だとすれば。
「………ん、ん?りゅーん…か?」
「おう。やっと起きたか」
だとすれば、ブラフは定期的にここに来て掃除をしていたんだろう。
「…っは。女の寝顔を盗み見か?いい趣味だな」
「美人だけだよ。だからお前のは見てねぇ」
「は?」
口元を小さくかつ一瞬で拭いながらブラフは身を起こす。
彼女の目には僅かに殺意が灯っているがそういう気分ではなかったのか直ぐに殺意を引っ込めると椅子の背もたれに深く背を預けながら大きなあくびを一つ溢す。
と言うか咆哮する。
「す、凄いあくびだな。思わず耳を塞いじまった」
鼓膜に残る極大の反響音に顔を顰めつつ、思わず感想を漏らしてしまう。
「あぁ?まぁ人型気取ってても結局は龍族だからな。本質はそっちだからどうしても時々出ちまうんだよ。バルデルはアタシよりも隠すのが下手だからあくびなんかはかなりデカいぜ」
「……お前より?」
「アタシより」
「……想像できないな」
「だろうな。アタシでもたまにビビる」
脳にまで響き、ハウリングを起こしているブラフのあくびよりも大きいと聞き背筋に寒気が走る。
今のより大きいとか言ったら鼓膜が持たないぞ?シャルとフィルオーヌは無事なのか??
「っと、んなこたどーでもいいんだよ。ついてこいリューン。見せてぇのがあるんだ」
「あぁ?見せたいのって何だよ」
「見りゃ解るさ」
怖いもの知りたさでバルデルのあくびを想像しているとブラフは思い出したように椅子から立ち上がって振り返る事無く部屋の奥へと進みだす。
俺の呼びかけも完全に無視。一人でズンズン進み、丁度入り口の扉の直線上に位置する奥の扉を開けて影の先に消えて行ってしまう。
「お、おい待てよ!」
「やーだよ。さっさと来やがれバーカ」
何故挑発されたのか理解はできない。が、彼女についていかなければここに来た意味が無くなってしまう。
「くそ。直ぐ行くから待ってろ!」
「やーだって言ってんだろ?まぬけー」
あいつを見失うのだけはまずい。仮に複雑繋道だった場合、迷ったらここに戻れる自信がない。
さっきまでの会話の余韻など無視して急いで椅子から離れて後を追う。
ーー確かブラフは右に曲がってたよな!?全く!!
「ほーらまた曲がっちまうぞー」
「こ、このヤロ……!!」
部屋から出て右に曲がって直ぐに目にしたのは三方向に延びる道。
恐らくは何者かに侵入された時用の罠なのだろう。
とにかく声がした方を選んで進み、同様に三択の道を真っ直ぐに二回、三つ目の曲がり道を左へ行った所でやっとブラフの影を見つけたので急いで駆け寄って隣に並び悪態を吐いてやろうと顔を見る。
「おい!マジで迷うとこだったじゃねぇか!!」
「っはは!そりゃ悪かった!」
……見る。
「お、おい。お前何で」
「あぁ?男のくせにホンットうるせー奴だな。アタシだって女なんだからしゃーねぇだろ」
「ど、どういう意味だよ。いや、そんなのはどうでもいい!」
ブラフの前に出て彼女の歩みを妨げる。
それに素直に従った彼女は両頬を濡らしている涙を拭った。
「っは。本当にお前は女心ってのが分かってねぇんだな。そんなんじゃシャルにも見限られちまうぜ?」
「今はシャルは関係ないだろ!?それより何で泣いてんだよ!!俺がなんかしたのか!?」
「そんな事で泣くかよ。気にし過ぎだバーカ」
「じゃあ何で…!!」
小さく笑って答えるブラフは俺の訴えを耳にしてもどこか上の空のような顔をしている。
けれど、ほんの少しだけ俯いたかと思うと、打って変わって表情を曇らせて無理に造った笑顔を浮かべた。
「…さーなぁ。なんか、想像しちまったらどうしてもダメだったんだよ」
「な、何言ってんだ。わけわかんねぇぞ……?」
「だろうな。アタシにも分かんねぇ。別に見せなきゃいけねぇものってわけでもねーのに、どうしても見せなきゃならねぇ気がしてるんだよ。……だから黙ってついて来てくれ。話しは見世物が終わってからだ」
「見世……物…?」
ブラフの言葉の真意が何も分からない。なのに彼女は言いたい事は全部言ったと言わんばかりに俺の肩を押し退けて更に先へと進んでいってしまう。
それを俺は僅かな間立ち止まって見つめ、言いようのない不安感を払いのけるために後を追った。
………そうして互いに無言のまま数分ほど歩いた後。
「着いたぜ。見せてぇモンはここにある」
大きな湖が広がる巨大な広場に出た。
とても巨大で、それでいて美しい……とてもじゃないが火氷界にこんな場所があるとは思えない神秘的な湖だ。
沸騰もしていなければ凍ってもいないこんなごく普通の湖は、確かに火氷界に於いては異常中の異常だ。ここが秘境と言われるのも納得だ。
「少し離れてろ。そうだな……そこにある母さんの墓の辺りまで行ってろ」
そんな特異な場所に連れて来たと言うのにブラフは何の感慨も無く湖を背に振り向くと辺りを見回した後にかなり遠くにある石ーー母親の墓石を親指で示す。
「…あんなに遠くまでか?」
「そうだよ。黙っていけ」
「……分かった」
……彼女の意図が全く分からないが今は従うしかない。
脚の筋肉に補助魔法を掛けて素早く移動し、墓石に一礼をしてからブラフの方に目を向ける。
すると彼女は移動を確認したという意味でなのか両手を挙げて二、三度振ると……静かになった。
そして。
意図せずに生唾を飲み込んでしまう恐怖が、唐突に、俺の全身に纏わり付いた。
ーーな、何だこれ。何だよ何だよこれ!!
全身が震える。脚も膝も肩も全てが恐怖で震える。
本能が死を求めているのが分かる。この恐怖を放つ存在に目をつけられれば最後、俺は死ぬ事でしか逃げ切る事ができないと本能が叫んでいる。
背負った特大の剣が甘く香る。刃を首に突き立てれば逃れられると囁いてくる。
ーー違う、違う違う違う違うだろ!!!!ダメだダメだ!逃げるんじゃねぇヘタレ野郎!!
理不尽に襲い来る衝動に頭がついていかない。生と死の二つが交互に俺を締め付け続ける。
拒めない呑み込めない。なのに[受け入れたい]。
こんな自己矛盾にいつまでも囚われていたら平気で気が狂ってしまう。異常だ。今までに経験した事の無い恐怖だ。
ーーそ、そうだ。ブラフは、ブラフは平気なのか!?!?
「お。おいブラフ……!!!」
俺の自己矛盾なんてどうでもいい。ここにいないのなら恐怖の元は向こうにいるかもしれないんだ。
ーー言う事を聞け畜生!お前らは俺の筋肉だろ……!!
強烈に強張っている全身の筋肉をそれでもと無理矢理に動かす。
無茶苦茶になっても構わないと、辛うじて従ってくれる筋肉を総動員してどうにかブラフの方を見やる。
瞬間ーー恐怖の正体が理解できた。
「な、何してんだ、あいつ……」
そこに人型だったはずのブラフはもういない。
いるのは、あの肉体からは到底想像できない烈火と氷結の混じる巨大な前腕があの身体から生えているナニカ。
それらは刻一刻と膨張するようにして巨大さを増し、同時多発的に脚や指先、背中にも同じような変化を起こしている。
その変化がもたらす結末はーー龍への変貌。
神話や伝説にのみ現れ、悉くを蹂躙し得る力を有する見上げるような大きさの最強で最凶の生物。
俺を襲う生物的・本能的な恐怖の全てはこれが……ブラフが、原因だ。
「お、俺に見せたいモノってこれか…?だからお前は見世物だなんて言ったのか……!?」
〖…ああ、そうだ。その通りだぜ、リューン〗
ブラフの前腕が…前腕だった前足の指が俺の眼前にゆっくりと下ろされる。
その指先は辛うじて人間の指のようだった。だがあまりにも今の本体と形が合わない。いっそその異常さはグロテスクにも映る。
しかし直ぐにその指は龍の爪へと変貌し、何事も無かったかのように平然と俺の前にあった。
〖これがアタシら龍族の本来の姿だ。生活をする上で何かと面倒な図体だからな。遥か昔の炎凍龍族が因果の観測で視た人間の姿を真似て以来、誰もがそうするようになったんだ。よっぽど生活が楽になったんだろうな〗
「そ、……そうなのか」
〖……ああ。そうらしいぜ〗
ブラフの声がこの空間全体に響き渡り湖の水面を激しく揺らす。
正直に言えば聞き取れるギリギリの声量だった。それでも彼女は相当に声量を抑えてくれているんだろうと分かる。
さっきのあくびに比べればまだ小さい声だから。
〖で、どう思う?アタシのこの身体。中々のバケモンだろ?〗
彼女に問われ、俺はやっとその全容を見ようという気持ちに切り替わる。
……そうして確認できたのは、歪に同居しあった炎と氷の身体を持つブラフの本当の姿だ。
無作為に入り乱れる矛盾した二つーー。火柱が不定期的に肉体から吹き出し、或いはクリスタルのような氷結晶が天を突くように生えている。
瞳の色は人型の時と同じオッドアイだからか微かに以前の姿の名残を感じる。だが、目元では絶えず噴き出す炎が、または鋭利に結晶化した氷が隈取をしていたりとやはり人型の時とは大きく違った。
……いくら、いくら龍と呼ばれる人知を超えた生き物と言えどこれはあまりにも生物からはかけ離れている。
かけ離れているのに、俺を最初に襲った感情はまるで別だった。
「……綺麗だ」
〖……あ?〗
そう、綺麗だと思った。
勿論あの恐怖は今でも俺の背後にへばりついている。けれど、そんな恐怖など気にもならないくらいに彼女の美しさに見惚れてしまっている。
「悪い、悪いブラフ。でも綺麗だと思っちまうんだ。相反する二つが互いに己の持つ特性を最大限に主張してるのに全く同時に存在している歪さ。輝き。それより何より、それを持つお前っていう龍が綺麗だと思っちまう」
〖何言ってんだ、お前〗
「わかんねぇよ。でも少なくともお前は俺の中じゃ化物なんかじゃない。綺麗な龍だ」
勝手に湧き出て来る言葉をストッパーも掛けずにべらべらと口から溢す。
それは紛れも無い本心だ。
ブラフがこの姿を嫌っている事は今までの流れで痛いほど分かってる。だから本当は慰めや勇気づける言葉なんかが適当なんだと思う。
だとしても、俺にはこうとしか思えない。
嘘を吐こうという気にすらならないほどの憧憬が俺を摑んで離してくれない。
「……本当に綺麗なんだ」
ため息のように漏れ出る。
見惚れたままその場で立ち尽くす。
胸の中が広々と澄んでいき、全てを忘れたような感覚に覆われる。
まるで絶景を見た時のような。そんな清々しさだ。
〖…………そうかい。担い手様は大変な御趣味の持ち主だって事がよーっく分かったぜ〗
僅かな沈黙の後、ブラフはそう言葉にする。
「はは。俺も驚きだ」
〖うるせ~よば~~~か。あっち向いてろ。今戻っから〗
「ああ、分かった」
とても不機嫌そうにブラフは言うと爪先で優しく俺の肩を押して後ろを向くように促す。
俺はそれに従い、墓石の方を暫く見ていた。
……すると、ねっとりと背後にへばりついていた恐怖が、ふっ、と消える。
「おら、とっとと帰るぞ。アタシの用事は終わりだ」
振り向きの許可は耳に届かない。代わりにブラフは俺の視界を横切って出口へと向かっていく。
その姿は俺がよく知っている彼女の姿だ。
「だな」
「ったく、調子狂うぜ。全くよぉ~」
通り過ぎる時に確認できた彼女の顔に涙は無く、視えたのは不機嫌そうに尖った口元だけ。
だが声色にその不機嫌さが乗っている様子は無かった。
ーーーー
補助魔法を施した脚を使って帰宅する中で、彼女は俺に自身の事を幾つか話してくれた。
一つはいつかやってみたい事。
火氷界では見る事すら叶わない海で泳いだり、もっと多くの人間に会ったり、動物と触れ合ったり、酒以外の飲み物を口にしたいとも言っていた。
どれも次の世界に行けばきっと直ぐに叶うと言うと、少しだけ尻すぼみしたのか出来ない理由になり得そうな事を彼女は幾つか挙げた。
一つは俺よりも寝心地の良いベッドを見つける事。
『羽毛布団ってのも使ってみてぇ』と言うから『比較にならないくらいふわふわだぞ』と教えてやった。けど、ふわふわという言葉自体を知らなかったらしく首を傾げた彼女を見て大笑いしてしまった。蹴られた尻が痛い。
一つは色んな物語を読む事。
趣味は読書だと聞いて驚いた俺を見てだいぶ睨まれたが、だとすれば俺の本来の世界である探求界には小説だけでなく[漫画]や[絵本]や[雑誌]と呼ばれる種類の本があると教えると機嫌を直してくれた。恥ずかしそうに『恋愛ものはあるのか?』と聞かれたので『むしろ漫画はそれ専門の雑誌とかあるぞ』と教えると少しだけ鼻血を垂らしていた。
そして最後の一つに、子供が欲しいと明かしてくれた。
『他の世界は見る事が出来る、ベッドだって旅をするならそう遠くないうちに色々体感できるはずで、本なんかは道中に買えばいいだけだ。けど、子供だけは作れねぇ。バルデルみてぇに母親も知らずに育つなんてのは、あいつを見てきた身からすると……ちょっとな』。
ニカリと歯を見せて笑ったブラフだが、言葉から感じる悲しみは深かった。
『だから俺がいるんだろ?そうなれるように俺を利用してくれ』ーーそうとしか言えない自分が悔しかった。
いっそこのまま逃げだして、何処かでブラフが恋人を見つけて子を産み、大きくなるまで育ててから戦いに戻るべきなのかもと考えもした。
……だがそれはきっと無理だ。決戦までの時間がどれだけあるのか分からない以上、逃げて目的を達して戻るなんてのは運が絡まないと不可能だ。
『だな、目一杯利用してやるから覚悟しろよ~』
明るく笑うブラフの声に影は無かった。
「だからさ、リューン」
「おう」
「アタシを連れて行ってくれ。そんで、世界の結合とかなんとか舐めた事言ってるクソ野郎をぶっ殺した後の世界を見せてくれ」
「ああ。言われるまでもねぇ。その世界でお前の望み全部叶えさせてやる。そんでもってもっと色んな事を望ませてやる」
「……はは、そいつぁいいな。楽しみだ」
シャル達の待つ秘境の入り口。ブラフの襲ってきた場所で、彼女はそう口にした。
言い出せるものか。『逃げるために利用してもいいんだぞ』だなんて。
結末が予想できるのに、これだけの覚悟を決めている相手に、そんな事が言えるものか。
「担い手の俺に任せろ。嬉し涙を流させてやる」
どこまでも情けない自分に舌を出してくる悔しさを振り払うためにそう言った。
……言うしかなかった。
「あぁ。本当にそうなれたらどんだけいいか。ワクワクしちまうよ。もうずっと忘れてた感情だったのによ」
to be next story.
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