第10話 褪せる事無き全ての中で。


 その、齢二百を超える羽根を生やした小さな女性は知らずの内に涙を流していた。

沸き上がる幾百もの記憶とただ一つの感情が薄く広く沁み込むようにして次第に入れ替わっていく。

それに彼女は気が付かない。ーー気が付けない。

やがて彼女は己が飛べる事、浮いている事を思い出す。

 「バベリュ……」

喉の奥から言葉を絞り出し、風に煽られているかのような覚束ない飛び方で名を口にした男の下へと彼女は飛ぶ。

 「バベリュ……?」

 「おう。一週間ぶりだな、シャクリー」

何かに吊られるようにゆっくりと持ち上げられる両手は酷く震えている。

まるで全てが覆されたかのような痛々しささえ覚える仕草だ。

……そして。

 「バベリュ!!!!!!」

彼女の感情は崩壊にも似た形で弾けた。

 「生きてる!生きてる!!生きてる!!!」

疾風よりも速く飛び、親を想う子よりも強くぶつかり、恋人同士よりも篤(あつ)く相手の頬に身を寄せる。

 「おい、痛いだろシャクリー」

 「本物だ!本物だ!本物なんだ!!」

 「当たり前だ。俺みたいな奴がそうそういるかよ」

 「あは、あはは!あはははは!!間違いない!間違いないよ!アンタ、本物のバベリュだ!」

身を離し、顔を見て、言葉を交わして、シャクリーはバベリュの周りを何度も何度も飛び回る。

彼の全身にくまなくフェアリーの鱗粉が掛かるように。二度と彼を失わぬように。

それを彼は鬱陶しそうに、けれど楽しそうに笑いながら好きなようにさせていた。

その、あり得ぬはずの再開が行われている後方で。

 「リューン!なんっでこんな無茶な戦い方……!!」

 「もっと早く駆けつけるべきでした……!このままではリューンくんの足が!!」

全身に幾重もの切り傷を帯びた地に伏しているリューンの下にシャルとキャムルが駆け寄っていた。

 「はは。こうでもしなきゃアレは見れなかった。そうだろ?」

リューンは浅い呼吸を誤魔化すための軽口を彼女達に向けるが今はどちらにも余裕はない。

シャルもキャムルも怒るでも呆れるでもなく、ただ沸き上がる本心を言葉にするだけだ。

 「気持ちは分かるけど!でも、だからってこんなの無茶苦茶でしょ!?死んじゃったらどうするの!?」

 「だからだ。こっちが命懸けて相手はやっと全力になる。半端な気持ちじゃ疑わせておしまいだ」

 「そうだけど!!」

地面に染み込むほどに全身を脱力させているリューンを抱きかかえたシャルは苦言を飛ばすも彼は力なく笑い否定を漏らす。

声のか細さとは比較にならない強い意思を乗せた言葉をだ。

その中でキャムルはシャルを押しのけるようにしてリューンを奪う。

 「え、え!?」

 「退いてください!!今はそんな話をしている場合じゃありません!治療を始めますから、シャルさんは彼の足首から先を持ってきてください!!」

 「は、はい!」

キャムルのあまりの剣幕に一瞬気圧されるもシャルはすぐさま立ち上がり僅かに遠くに転がっていたリューンの足首から先を拾いに走る。

 「ひ、酷い……」

どろりとこぼれた血痕を辿って足先に近づき、拾い上げるため屈んだシャルは小さく漏らしながら血と血泥と血砂に塗れたそれを持ち上げる。

鉛のような重さだった。否、そう勘違いしようとした。

[これ]を人のーーリューンの重さなのだと理解してしまえば最後、正気ではいられないと悟ってしまったから。

 「早く!!」

 「は…!はい!」

動かせば微かに血が噴き出す骨と肉の塊を抱き上げ、仰向けに寝かしたリューンの足首の切断面を食い入るように調べるキャムルの下へとシャルは急ぐ。

 「持ってきました!」

 「遅い!!!すぐに処置しなければ足先が無くなってしまうんです!今は自分の感情も考えも捨てて下さい!」

 「りょ、了解しました!」

リューンの足先を受けとりながら怒声を上げたキャムルはシャルの返答を一切無視して千切れた足の断面と何度も見比べ、強く歯ぎしりを漏らす。

 「引き千切れた筋肉とその断面のすり削れに、神経・血管の滅茶苦茶な断絶……!そもそも断面や血管の中に砂が入り過ぎてる………!」

 「……マズいのか?」

 「マズいなんてどころじゃない!ここまでくると異物の排除だけでも大変なのに、千切れてからも駆けてたせいで肉や神経や血管が削れてる!これだと綺麗にして繋ぐだけじゃ長さが変ってきてしまう!」

 「それだと身体測定がしにくくて仕方ないな」

今までに見た事の無い焦りをキャムルは見せる。だがリューンはあくまで他人事のような言葉を口にした。

それが切断面の若緑色をした魔法を使って異物を排除し始めたキャムルの神経を僅かに逆撫で、彼女の苛立ちが怒りに向ってしまった。

 「冗談言ってる場合!?左右の長さが違うって事は平衡感覚から何からが今までと変わってくるから戦い方も何もかもを変える必要が出てくるの!最悪、日常生活すら難しくなるのよ!?!?」

隣に座っているだけになっているシャルですら身を竦ませる怒声に、流石にリューンも態度を改めるべきだと考えたのだろう。これまでとは一変し、真剣な面持ちで答えを返した。

 「それは流石に嫌だな。……悪い、綺麗に治してくれ」

 「そんな簡単に……!」

 「けど、出来るから駆けつけてくれたんだろ?頼む、後でちゃんと礼はする」

 「そういう問題じゃ……!」

リューンの返答が再びキャムルの神経を逆撫でる。

けれど、彼女にはそれ以上の怒りの感情が湧いてこなかった。……湧かせられなかった。

 「頼む。まだ始まったばかりなんだ」

彼の瞳の奥に灯る決意。

色は形容しがたく、けれど焔に似たその色。それを視た時、キャムルの内にあった彼への怒りは焼き消える綿のように瞬く間に消失した。

 「……そういうところ、結婚したら直してもらうからね」

 「は、はは。……やっぱり治すの辞めてもらおうかな」

 「もう遅い。今の約束がお礼って事で手を打った。だから、取り消せないから」

 「……そうか。じゃあ治っても大変だな。くそっ」

リューンはそう悪態を突くも嬉しそうに微笑んだ。彼の今の瞳に先程までの焔はもう視えてはいない。

だが消えたわけでは無い。ただ隠れただけだ。彼の心の中に、必要な時再び燃やせるように。

そうだと察する事ができたキャムルは僅かに俯くと小さく笑い、傍で見ているばかりだったシャルも飽きれたように笑みをこぼす。

 「シャルさん、今は貴女しかいません。なので処置を行う私の助手になってもらいます。何かを要求したら即座にそれを行ってください。必ずです。私語は厳禁。感情も今は捨てて下さい。拒否をすれば彼の足は二度と元には戻りません。良いですね」

 「了解です!!断る理由はありませんから、何でも言ってください!」

一瞬の平穏の後、キャムルは性格が変ったように真剣な表情へと戻る。

その彼女が口にした言葉に完全な同意を示したシャルは指示を待つ姿勢に変わった。

 「それと、リューンくんは暫く寝てて。言い忘れてたけどこれから行う治療は尋常じゃない激痛を伴う魔法を使うの。下手をすればその痛みで死んでしまいかねないから絶対に寝てもらうわよ」

 「わ、分かった」

射抜かれるほど真っ直ぐな瞳で告げられた、怖気を覚える事実にリューンは一瞬言葉を失いながらも頷く。

 「だいじょーぶ。私達が治療するんだし、間違っても失敗は無いから!安心して寝てて平気だよ」

 「……それもそうか。ああ、なら任せた」

若緑色の魔法の中に絞り出された泥と砂。それを丁寧に地面に置き、魔法を解呪したキャムルはシャルからリューンの足先を受け取る。

 「じゃあ、麻酔効果のある魔法を掛けるから。眼を瞑ってゆっくり呼吸をしながら十数えて」

 「了解だ」

リューンにそう言いながらキャムルは同様の魔法を受け取った足先に行い異物を取り除くと断面に接するように地面に置く。

その後、リューンの額の上から顎にかけてまでを三度、右手で撫ぜるように移動させる。

するとリューンの呼吸は小さくなり、小さな寝息を立て始めた。

 「これで前準備は終了です。いよいよ本格的な治療に入ります。覚悟してください」

キャムルは小さく息を呑むシャルを僅かに覗き見つつ足首と足先の真上に手をかざし、更なる魔法を使用し始める。

それは上級回復魔法よりも更に上位に位置する、凡百の者にはまず使用できない超級回復魔法の一つだった。

名を[治速癒接(ちそくゆせつ)]。

[治速]と呼ばれる治癒力と速度を飛躍的に向上させる中級上位の回復魔法と、[癒接]と呼ばれる切断面同士を本来の通りに再生・癒着させる上級の魔法をかけ合わせた複合型の回復魔法だ。

二つの高難度の魔法を全く同時に狂いなく行わなければならないこの魔法は桁外れに難度が高く、下手をすれば異形に繋がってしまい二度と戻せなくなってしまう非常に危険な魔法でもある。

使用できる者は確かに存在するが、皆一様にして使用を渋る魔法だ。理由は成功率が極端に低いため。

立場上、何度か行っているキャムルでも成功率は三割を切っている。

 「この魔法を使っている間、私は治療とリューンくん本体へ起こる副作用を抑える事に手一杯になってしまいます。ですから、必ず私の指示には従い代わりに対処してください。でなければ取り返しがつかなくなってしまいます」

故に、キャムルは必要以上の強い言葉でシャルに警告した。

成功率に大きく関わってくるのは術者本人だけでなく助手の技量に寄るところも大きいからだ。

 「了解です。なんでも言ってください!」

 「良い返事です。頼りにしていますよ」

そんな彼女の言葉にもシャルは臆する事無く答えた。

そうして処置の準備が完了したと判断したキャムルは魔法を唱えた。

赤みを帯びた緑の光を放つ魔法がキャムルの両手の腹に蟠(わだかま)るように発生する。

それは最初不定形の靄のように蠢くと次第に落ち着きを見せ、形は切断面同士を覆える程度の大きさの正方形に整っていく。

 「まずはリューンさんの足先を足首に押し付けず離し過ぎない位置に移動させて下さい。そうしたら私が魔法を押し当てます。そうすると強い反発と吸着反応が交互に起きますから、極力位置が変わらないように足先を抑えて下さい。これが最も難しくその後の治療の成功率に大きく作用します。絶対に気を抜かないで下さい」

 「はい!!」

一切の遊びが無い真剣そのもののキャムルの言葉に同様以上の真剣な返事を返したシャルは即座にリューンの足先を手にすると切断面同士を絶妙な位置に移動させる。

 「良いです。とても良い位置です。……では、いきます!!!」

 「どーぞ!」

返事が聞こえると同時、キャムルは二つの切断面が赤緑の正方形の中に収まるよう上から押しあてる。

瞬間、シャルの手が激しく引かれた。

 「う!?こ、このぉ……!!!!」

座りながら綱引きを行っているかのような体勢を取らなければ抵抗できない力だった。

半端な踏ん張りでは抵抗しきれないその異様なまでの引力はまるで自己の大きさを超えるほどの巨大な磁石同士が引き合いくっつくのを阻止しているかのようだ。

しかしそれは即座に反転する。

 「落ち着いてください!次、来ます!!」

 「!?!?は、弾き飛ばされ…!?」

唐突に、大槌を打ち込まれたかのようなとてつもない衝撃がシャルをーー彼女の持つリューンの足先を襲う。

 「こ、こなくそーーーー!!」

 「その調子です!負けないでください!!」

反射的に体勢を整える事でなんとか治速癒接の範囲外に出る事だけは免れたシャルだが先程までとは全くの逆の力に焦りを覚えてしまう。

 ーーこ、こんなデタラメな力が交互に何度も起きるの……!?

言葉を出す事すら出来なくなるほどの衝撃の中、元の位置ににじり寄りながらシャルが想像したのは最悪の光景。

それは足先を固定する事が出来ずに異常な処置に終わってしまう未来。

もしもそうなってしまえば責任は誰にあるのか。

そう、思考を巡らせてしまいそうになった時、キャムルの声が届いた。

 「踏ん張って!予兆は私が伝えますから、今は加減を把握する事に集中してください!何時間続くかだけは私にも分かりませんから!」

 「わ、分かりました!!!」

彼女の怒声にも似た声で何とか我に返り、おろそかになりつつあった力の加減に集中しながら位置を戻す事に成功したシャルは加減に注力しつつキャムルの指示を聞き逃さないように意識を耳にも傾ける。

それから約三時間半。繰り返し起こる反発と吸着反応、時折起こる一切の反応の無い完全な無力状態とシャルは格闘し続けた。

気が付けば空は橙色に染め上がり、僅かな肌寒さを覚える時間へと変わっていた。

ーーそして。

 「はぁ…!はぁ…!!」

 「お、終わった…の……?」

 「……はい、治療完了です。今まで行った中でも最上の治療でした。まず完璧に治ったと思っていいでしょう」

キャムルの荒々しい呼吸と共に治療の終わりが告げられた。

 「お、終わった……」

 「と言いましても、あくまで治療の終了であって完治したわけではありません。これから数日間は安静にしつつ慣らしを行わなくてはなりません」

 「そ、そうですよね……」

 「……まぁ、安心はしていいでしょう。癒接した部位が勝手に取れたり神経や血管が繋がっていなかったりといった事はありませんし」

弱々しく項垂れたシャルを見かね、キャムルは優しい言葉を後に続ける。

 「リューンさんが目覚めるのは恐らく明日以降でしょう。私の麻酔魔法の効力自体はそろそろ切れると思いますが、治速癒接による回復や治療による疲労が一身に掛かっている状態ですから、そこから体力の回復が行われるのはもう少し先……つまりはそれが明日以降という事です」

 「分かりました。……だとしたら、とりあえず移動させないと、ですね」

キャムルの言葉を受け、シャルは大きく息を吐いた。

同時。

 「あ、あれ?」

彼女はその場にぺたんと尻もちをついてしまった。

 「……ですが少し休みましょうか。流石に疲労困憊です」

彼女の驚いている表情に小さな笑みを溢しながら隣に腰を下ろすキャムル。

その表情は笑みを差し引いたとしても晴れやかで、曇りやつかえなど一つも無い。

 「そ、そうですね。あはは」

つられて笑うシャルは、だが表情は僅かに引きつっている。

何故ならそもそも座ろうとしたわけでは無いのに腰が抜けてしまっているからで、安心よりも不安や心配の方が今は大きいからだった。

その上、緊張が解けたからか処置中以上の汗がどっと噴き出してきている。

本来なら心地よく感じられるはずの夕風も今は風邪を思わせる寒さを全身に走らせてしまっている。

……けれど。

 ーー良かった……。成功して。本当に。

全身で主張する疲労に微笑みながら、シャルはリューンの寝顔を見つめた。

 「ホンット、こーんなに私達が苦労してたっていうのにさ。楽そうな顔して寝ちゃって」

大の字に寝転がり、夕焼けの空を見上げながらそう漏らしたシャルは同意を求めるようにキャムルへと視線を向ける。

しかしキャムルはシャルの視線に気が付いていないようで座ったままリューンの方を見ているばかりだ。

 「あはは。本当に好きなんですね、リューンの事」

彼女のその姿に一瞬呆気にとられたシャルは身を起こすと冷やかすような雰囲気でキャムルに身を寄せる。

だが、返事は無い。

 「……キャムルさん?」

初めは冷やかしの言葉に怒っているのかとも思ったシャルだが何か様子がおかしい。

不穏に思い、彼女の顔を覗き込もうとするとーー。

彼女の身体は糸の切れた人形のように後ろへと倒れた。

 「きゃ、キャムルさん!?」

想像もしなかった事態にシャルの身体は瞬間的な金縛りを起越した。

緩慢で酷く緩やかな速度で倒れていくキャムル。頭から倒れてしまっている彼女はこのままいけば頭部に強い衝撃が訪れるのは考えるまでも無く、身体の動かせないシャルはそれを見届ける事しかできない。

 ーーどうしよう……!動いて!!

言葉すら出なくなってしまったシャルには最早できる事は何もない。

そんな中で、本来ならあるはずの無い場所に誰かの足が見えた。

その足は透明のガラスの靴を履き、白く美しい一枚の布で出来た服の裾を靡かせている。

 「…ふう。間に合って良かった。みんなの目を盗んでの移動はやっぱり大変ね」

聞こえたのはシャルも知っているエルフの女性の声。

柔らかく暖かみがありながらも神々しさを纏った品のあるあの声だ。

 「ごめんなさい、シャル。本当は手を出すべきじゃなかったんだけどね、見ていられなくなっちゃった」

声の持ち主はフィルオーヌ。しかも一般的なエルフと同じ背丈になった彼女だ。

 「フィルオーヌさん!?どうしてここに……。って言うか、どうして普通の大きさに!?」

安心が訪れたからか瞬間的な金縛りが解け、言葉を発せるようになったシャルは押し寄せてくる疑問を連続して吐き出す。

それにフィルオーヌは耳を傾けつつ悪戯っぽく微笑んだ。

 「勿論、私の開発した魔法よ。生物の大きさを自由に変えられるの。それと、ここに来てしまった理由はさっきも言ったように見てられなくなってしまったから」

微笑んだまま、腕の中で意識を失っているキャムルに目を向けるフィルオーヌ。

彼女の表情は自分の娘を見守る母のような慈愛に満ちている。

 「せっかく代替わりの宣言を正式では無いにしても行ったのに助けては格好がつかなくなってしまう。それでは象徴であり支配者でもある長の役目に支障が出てしまうから本当なら来るべきではなかった。……けれど、ね」

乱れているキャムルの前髪を何度か指先で直すフィルオーヌはシャルに視線を向け直して言葉を続ける。

 「取り返しがつかなくなってしまうよりはいいと思って来てしまったわ。本当、子離れのできない親のようで嫌になってしまう」

その表情は痛々しさや苦々しさ、嘲笑や安堵の含まれたような笑みではあった。だがそれ以上に[気高い]笑みだとシャルは感じた。

 「……さて、私が抜けられるのはそう長い間では無いわ。シャルには悪いけど、直ぐにリューンを背負ってもらうわよ」

 「わ、分かりました」

フィルオーヌの笑みに見とれてしまっていたシャルは彼女の声で我に返ると急いでリューンを背負う姿勢をとる。

未だ麻酔魔法の効いているリューンに目覚める様子は無く、背負うと彼の全体重と装備品の重さがモロにシャルの背を襲うが彼女は潰れ気味の態勢のまま小さな声で身体強化の魔法を唱え、背負っている重さがまるで嘘のようにスッと立ち上がった。

 「じゃあ行きましょうか」

 「はい!」

シャルの準備が整ったと判断したフィルオーヌは歩き出し、その後にシャルが続く。

そうして開かれたままの玄関の目前まで行くとフィリーとシュイーが大慌てで中から飛び出してきた。

どうやら彼らはフィルオーヌの不在にいち早く気が付き、他の者達が騒ぎ出す前に見つけようとして城内を飛び回っていたようだ。

そのせいかどちらも軽く息が上がっており、キャムルを抱きかかえているフィルオーヌを目にした瞬間は言葉も無いほどの驚きを顔に浮かべていた。

 「ふぃ、フィルオーヌさまぁ~~~!」

 「流石に誰にも何も言わずに行くのはちょっと……。せめて書置きくらいは欲しかったす」

 「ふふ、ごめんなさい。代替わりもした事ですし、もういいかと思ってしまったの」

 「いーーーわけないですよぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

 「何千万年長やってたと思ってるんすか……。歴代最長どころか前任者二名の任期を合わせても足りないんすよ?ほぼ名誉長なんすから何かあったら……」

 「はいはい、分かっています。それより彼女達の休める部屋を用意してください。何かあってもいいように私が付きっ切りで看病しますので、四名部屋以上でお願いしますね」

 「りょ、了解ですぅ…!」

 「りょーかいす。直ぐ用意するんでほんの少しだけお待ちを」

 「よろしくお願いしますね」

終始泣いていたフィリーと呆れていたシュイーは返事をすると大きく羽根を広げ疾風の如き速度でその場を後にした。

それからほんの数分後、隠しきれないくらいに上がる息をひた隠しにして再び目の前に現れたシュイーにフィルオーヌとシャルはついていき、豪華に過ぎる飾りつけの成された十名部屋に案内された。

ーーそうして数日の時が過ぎた。

リューンの傷は九割方癒えたのはフィルオーヌの手筈で次の異世界に繋がる道が開かれた翌日の事だ。


                          ーーーー    ーーーー    ーーーー


 外に明かりはまだ見えない。

だとすれば、この世界の太陽が俺達の足元を照らす事は暫くの間はないはずだ。

 「リューン、シャル、準備は出来た?」

 「うん。私はもう大丈夫」

 「俺もだ」

レースのカーテンから透けて見えた夜空から目を離し、後ろにいる彼女達に振り向く。

そこにいるのは旅立ちの日と同じ姿のシャルと、エルフの標準的な身長に変わっているフィルオーヌだ。

フィルオーヌの装備はエルフが着用している白い一枚布で出来た薄手の服と、穂先と柄をリングで繋いだ身の丈ほどの槍だけ。

とても戦闘に赴く格好とは思えないが、この世界で対峙したエルフやフェアリー達は皆軽装だったし、魔法にも長けていそうだった事を考えると彼女達の中ではこれが普通なんだろう。

それにフィルオーヌから聞いた話では彼女は補助系の魔法しか使えないらしいのであの槍は護身としての意味合いが強いんだと思う。

 「……けど、良いの?フィルオーヌさん」

 「ん?なにがかしら」

 「その、キャムルさんに何も言わないで出発しちゃうこと」

部屋のドアの前で立っているフィルオーヌにおずおずとシャルが質問をする。

この数日でフィルオーヌと親しくなったシャルは彼女に敬称は付けるものの敬語を使ったりはしなくはなった。が、だとしても今の質問はかなりデリケートな内容だ。踏み込み過ぎな気もする。

心配は心配だが傷つけたくもない。……と思いつつ後悔もしてほしくないと考えを巡りに巡らせた末の質問なんだろうと容易に想像が出来るがどうなんだろうか。

俺と同様シャルのそんな気持ちを見抜いていたフィルオーヌは優しいく笑いながら口を開く。

その言葉に詰められていたのは目一杯の優しさと感謝だ。

 「心配してくれてありがとう。でもね、今顔を合わせたらもう一日滞在したくなっちゃう。そうしたら明日も、その次もって、きっとそれの繰り返し。だからいいの。これで、ね。それにこの歳で寂しいなんて言えないわ。第一私には彼女と過ごした三千万年っていう時間があるんだもの。楽しかったその日々だけで、それだけでもう充分」

 「……フィルオーヌさん」

 「だから行きましょう?[道]はここから少し離れた場所にある木々に覆われた崖の洞窟の中に隠しておいたから。今から出れば朝焼けが見える前に着くわ」

言い終え、フィルオーヌはドアノブに手を伸ばす。

彼女の言葉に俺達は何か気の利いた言葉を返してやることができないまま、ドアを開けようとする後ろ姿を見守る事しかできずにいる。

今の彼女の言葉は自分の気持ちを押し騙す[言い訳]にしか聞こえていないと分かっているのにだ。

……いや、そうじゃない。

俺達は何も言ってはいけないんだ。

どんな意図があろうと、どんな風に自分を騙していようとそれが彼女の決断だと言うのならどう足掻いても彼女にはなれない俺達が口を出すべきではないんだ。

例え仲間だろうと決意の一線だけは越えてはいけない。

それが歯がゆくて仕方が無かった。

 「……ふっ。大方、そんな事だろうと思っていたが。まさかそのまま的中するとはな」

何も言えないまま開かれたドアの先。正面の壁に背を預けた誰かがそこにいる。

その声は男で、聞き覚えもあった。

ダークエルフのエルフィムだ。

 「お前、何でここに……!?」

 「なんでもなにもそこにいる前長のフィルオーヌに呼ばれたからに決まっているだろう」

 「城にいる理由なわけあるか。なんで俺達の部屋の前にいるのかを聞いてるんだよ」

 「む、そっちか。それはだな……」

どう考えてもそっちしかないだろと思いつつエルフィムの返事に思わず固唾を飲んでしまう。

悔しい。こいつの場合本気でああ思っているのに、それでも秘密裏に行動しようとしていた俺達の前に突然現れたのだから何か意味があると思い緊張してしまうのが非常に悔しい。

大ボケのこいつだ。どうせトイレだの夜食だのって理由に違いないが……。念のためにだ聞いておこう。下手に大事になって皆が目を覚ましてフィルオーヌの同行がバレでもしたら面倒間違いなしだからな。

……などと考えていると、無意味に沈黙を作っていたエルフィムがようやく口を開いた。

 「うん、上手い言い回しが思いつかないな。だから単刀直入に言おう。お前達とフィルオーヌ宛てに言伝を預かっている。少し時間を貰うぞ」

 「な」

 「…それは」

 「私にも、ですか?」

大した事ではない……どころか、くだらない事に決まっていると決めつけていた俺には鈍器で頭を殴られたかのような衝撃だった。

俺、シャル、フィルオーヌ以外には誰にも口外しなかったはずの出発日がエルフィムや他の皆にもバレていたのか……?

 「まさか本気で誰にも勘付かれていないと思っていたのか?ふっ、先が思いやられるな。退任して一週間も経っていないんだぞ?いきなりはいさよならとなるわけがないだろう。それにお前達ニンゲンの方は場合によってはこの世界を変えた大恩者もしくは大罪者なんだぞ?ただでさえ別の種族なんだ、そう簡単に目が離されるわけないだろうが」

やれやれと首を傾げ、大げさに呆れてみせるエルフィムを俺達は開いた口が塞がらないまま見つめている。

言われてみれば確かにそうなんだが、フィルオーヌはともかく俺とシャルはこの世界では超が付く異端なのをすっかり忘れていた。

無論、それでも口外自体をしていなかったにも関わらず出発日から時間までがバレているのだから、この城の監視役達の能力は侮れない。

……ん?それってつまりフィリーとシュイーなのか?アイツらが?え、ホントに??

 「さて、どうやってお前達の動向を探っていたのかはどうでもいい。さっさと本題に入ろう。まずはニンゲンのお前達に対しての言伝だ」

 「あ、ああ。分かった」

まさかあのどことなく抜けているフェアリーが?と頭を悩ませている中、エルフィムに呼ばれて心の中で頭を振る。

そうだ、バレている以上今更そこを気にしても仕方がない。出発を知らない皆が起きる前に言伝を伝えてもらって急いだ方がいい。

 「言伝の主は俺の仲間のカルサとダモルファだ。『今度は余計なしがらみ無しであーしと戦え。勿論全力でだ』これがカルサ。『私達を信じてくれてありがとう。するべき事が終わったら寄ってくれ。お礼がしたい』これがダモルファ。ついでに言っておくとダモルファの言葉はそのまま俺や俺のランゲド全員の言葉だと思ってくれていい」

エルフィムは微笑み、俺とシャルに一本ずつ手を差し伸べる。

 「ニンゲンの習慣、だったな?同時に感謝したい相手が二名いる時はこれでいいのか?」

その手はどうやら握手を求めていたらしく、しかし二人同時に握手をしようと思った事も無かった俺とシャルは一瞬呆気に取られてしまった。

 「む、どうした。早く次の言伝を伝えたいんだ。早くしろ」

なのにエルフィムは少しも疑う事無く、寧ろせかしてくる始末だった。

本当ならこういう事で笑うべきではないんだろう。だが、彼の様子があまりにもおかしくて俺とシャルは顔を見合わせて小さく噴き出してしまった。

 「む……?」

 「はは、いや悪い。忘れてくれ。俺達の世界じゃ両手で同時に握手って習慣は無いんだが……、俺個人としてはいいと思う。凄く友好的に思ってもらえてると感じられる」

 「私も同じです。それに、こちらこそありがとうございました。見ず知らずの私達なんかを信用してくれて」

 「成る程。言われてみれば確かにお互い様だったな」

こんな状況でも変らず天然発言をするエルフィムの手を俺達はそれぞれ握り、固く握りしめた。

 「さて、次はリューンだけに宛てられたものだ。送り主はバベリュとシャクリーの両名からだな」

握手を終えた矢先に告げられた名を聞き俺の呼吸が一瞬以上止まる。

 「…そうか、あいつらにもバレてたか」

 「当然だ。俺が知っていて彼らが知らない道理は無いからな」

シャクリーと対峙した翌日に目が覚めた時にキャムルから聞いた話だとバベリュとシャクリーは積極的に堕天した者としていない者との溝を埋めるために働いていると聞いた。件の集落一つを堕天させたのもあいつらだったと聞かされたが、今は堕天して浅い集落の者を仲介者として利用し少なくとも城内だけでは悪くない成果が出ているんだとか。

あの時の宣誓は嘘では無かった、という事だろう。

しかし、それと同時に大怪我をしていた俺を助けようと何かをしたわけでは無いとも聞かされた。

当然だ。普通に考えて己を殺した相手が死にかけているんだ。放っておくに決まっている。それを責める気にはならない。

寧ろとどめを刺しに来なかっただけ有情な心を持っていると言っていい。

そんな彼らが今更俺に何を言いたいって言うんだろうか。

 「『はっきり言って俺達はお前の事が嫌いだ。一度は殺され、仲間達は大怪我をさせられた。その上でシャクリーにもしもがあれば絶対に許しはしなかった。……だが、同時に感謝もしている。無駄に長いだけの生涯にくびきを打ってくれた。そのお陰で真に正すべきは何かを考える刹那が産まれたんだ。ありがとう』」

最悪は恨みつらみだろうと思っていたところに告げられた全く想定していなかった[感謝]という言葉。

それを耳にした時、俺は。

 「……リューン?大丈夫??」

 「………ああ。大丈夫だ。何でもない」

 「ふっ、お前はこういう時に涙を流すんだな」

俺は、知らぬうちに泣いていた。

 「悪いか。涙もろいんだ」

 「いいや、その逆だ。で、あるからして事はここに至ったのだと思ってな。悪くない男だよ、お前は」

 「はっ!言ってろバカ」

 「おい、覚えているぞ。それは知性を疑う悪口だったな」

少しずつだが確かにこぼれてきてしまう涙を拭い、自分でも分かってしまうくらいの情けの無い照れ隠しを何とか絞り出す。

……そうか。お前は俺に殺された事すらも感謝できるんだな。そんな強い男が力を貸してくれているんだ。きっとこの世界の未来は明るい。

 「まぁいい。続きを言うぞ」

 「はは、まだあるのか」

ようやく止まった涙がまた出てこないよう、今度は気持ちを作ってからエルフィムの言葉に耳を傾ける。

傾けたんだが……。

 「『けど、俺を殺したのは普通に気に入らないしムカついたから放置してやったザマーミロ。俺と同じ目覚めを教えてやりたかったのに残念だぜ。あ、それとシャクリーに手を上げた罰は次会うまでに考えておくから覚悟しておけよ』だ」

 「あ…あぁ……?」

さっきまでの感動が帳消しになるくらいの暴言が飛び出て来た。

 「以上がお前達への伝言だ。最後にフィルオーヌへの伝言がある」

 「う、嘘だろ。そんなひっくり返し方あるかよ……」

 「リューン……。なんて言うか、ご愁傷様」

 「クソッ!俺の涙を返せよ!」

 「やかましいぞニンゲン。最後の言伝なんだから少し黙っていろ」

 「う、うぅ……」

あんまりだ。せっかく先行きが素晴らしいモノになると思ったのに、思ったのに……。

 「さて、私に言伝を残したのは誰でしょうか?」

 「送り主はキャムル様だ」

 「…キャムルが?」

本気で落ち込んでいる俺を他所に話が進められていく。

いいよ別に。ぶっちゃけ弁明の余地ないし。俺も話を聞ける態勢になるまで待ってほしいけどいいよ。ふんだ。知らない!

 「伝えるぞ。『これまで、本当にお世話になりました。心より感謝申し上げます。貴女の顔に泥を塗らぬよう精進致しますので、どうかご心配なされぬよう。私の事で旅に支障が出るなどあってはなりませんから、どうか。どうか。……そして』」

そこまで言葉にし、エルフィムは一呼吸置く。

 「『そして、どうかフィルオーヌ様のこれからに幸多からん事を願って。貴女と過ごしたこれまでの時間は、月日は、何よりも私を支える宝です。リ・キャムル』」

そうして全てを伝え終えたエルフィムは始めと同じように壁に背を預けると腕を組んだ。

 「これで全部だ。さぁ、さっさと行くといい」

 「…………ええ。そう致します。行きましょう、リューン、シャル」

 「…ああ」

 「うん」

振り返らず、歩き出すフィルオーヌの後を俺とシャルは荷物を手に続く。

……雄弁だった。

言伝で、本人の声ではないにも関わらず、痛いほど雄弁に物語っていた。

[もう一度会いたい。出来る事なら離れたくない]、と。

キャムルの想いはそれでいっぱいだったはずだ。だが、フィルオーヌには役目があるからと。かつての不始末に赴かなければならない事を知っている彼女は邪魔にならないようにするために言伝だけを頼んだのだと。

 「血は争えない、というモノかしらね。これもきっと。血は繋がっていないのに、不思議ね」

 「そうでもないよ。結局それは言葉のあやだから。私にはフィルオーヌさんとキャムルさんの間には血よりも濃くて強いナニカが流れてると思う」

 「そう、だといいわね」

 「そうに決まってるさ。親だの子だのも結局は言葉だ。重要なのはそんなモノじゃなく、どれだけ強い繋がりがあるかだ。言葉はそれを分かりやすくしたに過ぎない。…だから、我慢しなくていいんだぞ?これからそうなる予定の俺達に今のうちに寄りかかっちまえ」

 「………ええ、ええ。そうね。なら、一言だけ、いいかしら」

 「もちろん」

 「好きなだけ言ってくれ」

何故か開かれたままの門を通り過ぎ、未だ月下の地を踏みしめる。

その中で小さく、フィルオーヌは言葉にした。

 「会いたいよ……。キャムル………。もう一度だけでいいから、会いたいよぉ……」

恐らくはもう二度と聞けないだろう、神とまで崇められた女性のたった一度きりの弱音を。


                                ーーーー    ーーーー    ーーーー


 行って、しまった。

結局、会えず仕舞いだった。

 「良かったのか、キャムル様」

 「……ええ。きっと、これで良かったのです。きっと」

 「…そうか。なら、何も言うまい」

フィルオーヌ様達からは決して見えない壁の陰で、手の込んださようならを伝えるように頼んだエルフィムにそう答える。

 「……さて、俺はもう戻ろう。また夜明けに。キャムル様」

 「ええ、さようなら。これからは頼りにしていますよ」

 「ああ、是非そうしてくれ」

座り込んでいた私はエルフィムの足音が消えたのを確認してから立ち上がり、もぬけの殻となったフィルオーヌ様のいらっしゃった部屋に足を運ぶ。

当たり前だけど誰もいない。さっき自分で確認した通り、誰もいない。

 「……フィルオーヌ様」

そう、きっとこれで良かった。

会えば最後、絶対に送り出す事なんてできなかった。

私は弱いから。こんなにも心が弱いから。

きっと無礼にも抱き着いて離せなかった。

それほどまでに私はフィルオーヌ様に忠誠を誓っていた。生涯を捧げたいと思っていた。

そして何より、もっと御傍で御一緒したかった。

けれどもう、誰もいない。

これから先は私が忠誠を誓われる側で、今まで頼りにさせてもらっていたフィルオーヌ様はもういない。

もう、いない。

二千万と二百四年も付き従えていたフィルオーヌ様はもういないんだ。

 「……だからフィルオーヌ様。一晩だけお許しください。どうか、お許しください」

貴女の消えゆく温もりの中で、霧散してしまう香りの中で。

一晩だけ涙する事を、お許しください。




to be next story.

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