エピローグ 疾走


東京は今日も、灼熱めいた暑さを更新し続けている。


車道は相変わらずの大渋滞。線路を走る電車は、詰め込めるだけの人員を詰め込み回り続ける。三百六十度どの方向からも絶え間なく音が鳴り響いている。それは音楽であったり、言葉であったり、或いは蝉の合唱だった。静寂とは縁遠い、退廃と欲望満ちる鋼の大都市。


その地獄かと思うような、恐るべき熱気の中を歩き回る社会人達。スーツを着こなした彼らの横を、一人の女性がすれ違った。


スラリとした長髪の女性だった。


熱の世界から切り離されているような。不思議な冷気を纏う、涼やかな女性。その冷たさは、しかし死体や冷酷さ、極寒の冬を連想させるものではない。太陽を浴びて煌めく川面、縁側で謳う風鈴の音色、緑溢れる山頂に吹く風。どこか暖かい涼しさを伴い、灼熱の世界を塗り替えながら、彼女は歩む。


ビルの前。自動ドアが開いた。クーラーのよく効いた建物内に入る。

独特の薫りが彼女を包む。紙とインクの混じった匂いだ。

都会の喧噪が遠くなる。切り取られたような静寂が満ちている。

スタスタと、女性は奥へ歩いて行った。

目的のものは、入り口付近にはないから。

エレベーターに乗り込む。四階へ向かう。

扉が開いた。出て行く彼女と入れ違うように、高校生ぐらいの少年達が乗り込んでいった。


丁度あれぐらいの年齢だったろうか、と。僅かに過去を想う。綻んだ口元は、マスクに隠されて見えない。扉が閉まる音を背後に聴きながら、彼女は歩を進めた。


それは、奥の奥……人気の本のコーナーからはかなり離れた場所にある。


普通の静寂が喧噪に思えるほど、そこは沈黙していた。

女性は細い指を伸ばし、一冊の本に手を触れる。

スルっと、本棚から抜き出した。満足そうに、目を細める。


世間では、彗星が通り過ぎた日であると言われる、とある夏の出来事。

太平洋で決着する、人知れず繰り広げられた物語があった。

当事者となったのは、五名。

彼女はその一人だった。


ページを開く。


──夕暮れの河原で、

一人の少年が歌っていた──


特別さの欠片も無い、ひどくありふれた書き出しだった。

内容も、これと言って特別なものではない。とある高校生が、超能力だとか魔術だとか神様だとか異世界だとか、そんな非日常に囲まれて、戦い抜くという、よくあるものだった。

文章力は並だ。特筆して語ることもない。よく言えば王道。悪く言えばテンプレチック。

なのに、こうして世に出ている。そう多くはないが、ファンもついている。

特別でない、普通。普通のはずなのに、どこかおかしい。

それが、どうしようもなく彼らしかったから、思わずクスリと笑ってしまった。静寂が一瞬だけ乱される。普通と異常が混ざり合う、不思議な人間。それをこの上なく示している。


その彼らしさは、嫌いじゃなかったから。


いや、きっと。


好きですらあったかもしれない。


著者名は、十塚剣人とうかそうど

第一作はそれなりに売れたようだが、続く二作目以降これと言った当たりのない、所謂売れない作家の一人だった。



いつからなのか、彼女は覚えていない。

地球全土を覆い尽くす程の能力効果圏。

雨粒のみではない、あらゆる水に伝わる振動や刺激を感知することで、どんな状況下でも盗聴を可能にする精密な能力操作技術。

この二つで、常に彼女は見つめていた。

絶対に届かない敵へ立ち向かおうとする、その無謀を。

助けることなんて不可能な存在を、己の身を犠牲にしてでも助けようとする姿勢を。

最初は、怨敵に繋がる何かがあるかもしれないという疑念と関心だった。


やがて、何度も立ち上がる姿勢に、興味を抱いた。


どこまで行っても平凡の域は出ない。彼女やその仲間のように、特異な力を覚醒させることはない。ごく普通の、どこにでもいる少年。


自分の生涯をかけた復讐劇に混じった、砂粒のような脇役。


なのにどうしてだろう。行動する彼は普通のはずなのに、もたらす結果は普通とかけ離れている。


いつからか、それに惹かれていた。


なんでそう感じたのか。きっと、自分と重ねていたからだろう。


絶対に敵わない敵を討ち果たすために鍛錬を積み続けた、幼いあの頃の自分と、彼を。



水の数滴を初めて操れたあの日や、強大な言霊に紙一重で勝利したあの瞬間を。

きっと重ねて、見ていたのだ。



或いは、そう。

無力のまま不可能を変えようとするその人間らしさに、憧れていたのかもしれない。



だからその日、正直に言えば嬉しかった。泣いてしまうかとも思うぐらいだった。

空から舞い降りた黒竜の背中に、その姿を見たときには。



あの後、どんな道を歩んだのか、彼女は知らない。

どんな苦悩があって、挫折があって、困難があったのか。

想像することしかできない。繋がりは、既に途絶えている。


上層部の流布したストーリーに従い、二人の少女には極秘裏に勲章と栄誉が与えられた。

助けられた一人は、言霊と同化した現状唯一の人間として、十三人目のメンバーに加わった。僅かに宿っている『炎上』の力の残滓を用いて、日々貢献している。監視と有効活用を行える、一石二鳥の対応というわけだ。


そして、最後の一人。

派手な名前の平凡な少年は、どうなったのか。


彼は、何も覚えていない。あらゆる非日常から遠い世界で生きている。

言霊や覚醒者の存在は極秘事項だ。当事者であっても、今後ソレに関わるつもりがないのなら、記憶を処理される決まりになっている。

彼の友人とは違い、何の力も目覚めず、今後関わる事ができない程の存在だった彼は、文句の一つも口にせず、記憶の消去を受け入れた。


普通の人間は、普通の世界で生きるしかない。


少し名前が派手なだけでは、異常の世界では生き抜けない。上層部はそう判断し、彼も異議は唱えなかった。


彗星の翌日、病院のベッドの上で、彼は一週間の戦いの全てを失った。

史上最強の言霊を撃破した功績も、その身を痛めつけ続けた事への対価も、全てを放棄して。


「これでいいよ」


彼は最後にそう言った。


「翔琉が助かったんなら、それでいい。後は、あんた達があいつをちゃんと守って欲しい」


約束だ。それを忘れたことはない。


今、彼はどうしているのだろう。

会計でお金を払いながら、そんな事を想う。

店員の「ありがとうございました」を聴きながら、炎天下へと向かった。

バッグへ本を仕舞いながら、自動ドアへ近づく。

扉が開く。

女性は通り過ぎる。


どうしているか。愚問だろう。彼はきっと、また変わらずに過ごしているに違いない。悩まなくても良いような、共感しづらい内容に悩みながら。立ち塞がる困難を前にしては、そんな拘りは下らないと投げ捨てて。現実的な方法で、抗っているのだろう。


その姿が見える気がした。


ほら、例えば。


正面を見据える視線の先、電話しながら走って来る青年みたいに。


怒られているみたいだ。大方、待ち合わせを忘れていたか、寝坊でもしたか、或いは……急な呼び出しを受けたか。髪が整っていないところを見るに、二つ目か三つ目だろう。電話に出る彼もなかなかに怒っている様子だし、三つ目が有力か。

いや、違う。走っているのは彼だけでは無い。電話も、怒られているわけではなかった。

声が聞こえる。


「待てええええええええええええええッ!!」「止まれカスが!!」「ぶっ殺してやる」

「おい!?どうなってんだよお前の言った通りにしたら追いかけられてんだけど!?」

『悪いな。私が安全な場所にたどり着くまで引きつけてくれ』

「ふざっけんな!!クソ、天才作家様が調子乗りやがって……ッ!! SNSにあること無いこと書いて炎上させてやる!!」

『ははは、今時炎上なんて死語を使うのは君ぐらいだよ。そんなだから売れないんじゃないか?』

「よし、SNSは止めだ。直接ぶん殴る」

「止まりやがれええええええええええええええええッ!!!」


四つ目。追いかけられて必死で逃げる、だ。しかも会話を聞くに、また誰かの為の行動らしい。本当、変わらない。落ち着きのない人生だなと、微笑ましさすら感じてしまう。


同時に少しの嫉妬心も。


自分の知らない彼を知る、電話の向こうの誰かに。


ジャンルの違う物語を、彼と誰かは生きているらしい。己と彼の人生が重なることは、もうないのだろう。


これが最後の交差点だ。

そんな、確かな予感があった。


ここですれ違えば、二度と会うことは無い。


それでいい、と。彼女は思う。彼は日常の住人だから。その世界で、生きていて欲しい。


すれ違った瞬間、彼の体をほんの少しだけ冷やしてあげた。

彼は気付いただろうか。


分からない。気付かなくてもいいと思う。


女性は振り返って確かめたりはしなかった。


「ありがとう!!」


その感謝が、果たして自分に向けられていたのかも、分からないけど。

ただ、きっと、大丈夫な気がした。

彼も、自分も。



青年は、街を駆けていく。

それはいつかの夏の夜のような。

物語の始まりを示す、疾走だった。

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戸塚剣は何も斬らない みやこ @miyage

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