第十八話 蛇足
生暖かい風が吹いた。意外と強く、飛ばされないよう帽子を押さえる。
田んぼと畑と森がどこまでも続いているような、田舎の農道である。蝉の声が鳴り響く。強い日射しが視界を灼く。遠く道の先では陽炎が揺らいでいた。
派手なアクセサリーとキーホルダーの少女は、砂利の敷き詰められた農道を歩いていた。マスクもマフラーも巻いていない。あっっ……と呟いた小さな口には、綺麗に並んだ白い歯が見える。白く細い喉から、汗が滴っている。
目を瞑っても分かるぐらい歩き慣れた道を進む。途中で曲がり、坂道を下り、水路を飛び越える。
そうしてたどり着いたのは、墓だった。付近の集落の人々の墓である。そのうちの一つの前に向かう。
井坂家代々の墓、と書いてある。
持ってきた線香に火を付ける。独特の香りと共に、煙がユラユラと登っていく。
目を閉じ、手を合わせた。
「……」
要は果たしたとばかりに駅へ向かう
迷いはない。その方角へと駆けていく。
「助けて!!」
「こっちか」
木々の間をくぐり抜けて走って行くと、神社の境内へと躍り出た。寂れ果てた神社だ。誰も管理していないように思える。雑草は好き放題に伸び、窓ガラスは割れ、木材は所々砕けている。屋根にも穴が空いているようだ。
そんな神社に、気配がひとつ。
少女が一人、賽銭箱の上に腰掛けていた。
黒髪で、ギザギザの牙がある。竜哮とよく似た、少女だった。いや、今となっては、似ていたと言うべきだろうか。
竜哮を見て、彼女はニタリと笑う。
「来た来た」
「……悲鳴が、聞こえたんだがな」
「面白そうな奴じゃなあと思うての。ちょっとばかし小芝居をさせてもろうた」
纏う気配から、人ではない、と竜哮は看破する。だが、ならばこれは何なのだろう。人ではないが、しかし。
「お前……言霊でもないな」
「あんな新参者どもと一緒にするでない。ワシはこの神社の、神じゃ」
神。言霊とはまた異なる、いや、言霊より遙かに歴史ある超越存在。この時代では、衰退しつつある神秘でもある。出逢う資格のある者が、出逢える時間帯や条件を揃えた上で、相当人里から離れた秘境に向かって、初めてその影を拝める程に稀少な者達。
実在するとは知っていたが、実際に見るのは竜哮も初めてだった。
驚く、が、実在は知っていたのと、警戒心もあり、表情は変えない。
「で、なんで俺様を呼んだんだよ」
「言ったじゃろう、面白そうだと思った。それだけじゃ」
妙に癇にさわるニヤけ面。見ていて非常にイライラしてくる。
「ぶっ飛ばすぞ」
「おお、怖い怖い」
にひひひ、と笑う。黒髪の少女は賽銭箱から飛び降りた。
その時初めて、少女の足下に伸びる影の形がおかしいことに気がつく。太陽が真上にあるのに、夕暮れの時間を思わせる程伸びた大きな影。しかも、人の体をしていない。細く、長く、異形。それはさながら、蛇であるような──いや、四肢があることを考えると、まさしく。
「この神社がなにを祀っておるか、知ってるか?」
「……しらねえ」
「竜じゃよ」
そう、影の形は、竜のそれであった。
「昔はこの一帯も竜神信仰が盛んでのう……まあ、今ではかんっぺきに忘れ去られてしもうたが。残念じゃ。ああ。ワシもな、本来の姿を現せば、竜に変化できるんじゃよ。まあ、竜の姿はだいぶ前に壊されてしもうたが。あの言霊どもめ」
「神様でも言霊に襲われるんだな。聞いたとおりだ」
「最悪じゃよ。おかげで、神主の一家も守り切れんかった。一人娘を逃がすので精一杯じゃった」
言霊に襲われ、神としての力を失い、更に神社の管理者だった神主の一族も絶えてしまった。その結果が、この神社の荒れっぷりであるという。
「まあ日本の言霊どもは全滅したようじゃし? わしもそろそろ去るべきかのうと思うておったのじゃが……丁度、面白いものを見つけたので待っておった」
「竜神様に目を付けられるなんて光栄だな」
「ああ、光栄なことじゃ。存分に誇るが良い。……力の体系は異なれど、同じ竜の力を持つものを、この信仰薄き現代で見れて、良かったわい」
「……それだけか。もう俺様行っていいか?」
「む。つまらんやつじゃのう」
あまりにつれない反応を返すので、竜神は不満そうに顔をしかめた。
「ここまでつれない奴は生まれて初めてじゃわい。昔は良かった。昔の人間は皆、わしみたいな神様を見たら、全力で崇め奉るものじゃったのに」
「俺様はドラゴンだからな。人間とは違う」
「いつまでそう誤魔化し続けるつもりじゃ?」
竜神を名乗る少女が、踏み込む。今まで誰も突っ込んだことのなかった領域に。井坂竜哮のアイデンティティにおける地雷原へ。土足で、踏み入る。
「あ?」
日光が降り注いでいるはずなのに、その場が一気に暗くなった。そう錯覚する程の雰囲気の変化。空気が殺伐としたものに切り替わる。
少女は、歴戦の圧力をさらりと受け流しながら、笑った。
「本当は分かっておろう。己は竜などではないと。本当の己は、人間であると」
「……」
「己を竜と誤魔化し続けても、その先には何もないぞ」
「……そうかもな。ああ、分かってるさ。俺様は、人間なのかもしれないって事ぐらい」
ふっ、と。迸っていた殺気が消失する。
ピリピリとした空気は変わり、先程までの生温い空間が戻ってくる。
「七海が何か調べてたみたいだし、いい機会だから俺も自分のルーツを探すかと思って、わざわざこんな田舎まで来て調べてたんだ。結果は、まあ、何もなかったが。……どうやら俺様に、竜の血は流れてないらしいな」
まあ、記録以前に混じった可能性はあるかもしれないけどな、と付け加える。
「だからまあ、記録付けるよりも前に混ざったんだろうさ」
「……逃避し続けると言うことか。己を竜だと騙り続けるのか」
「さてな」
理想の竜へと己の姿を変化させる能力は、究極の現実逃避とも言えよう。通常の己では困難の達成が不可能であるが故に、解決可能な姿へと変異する。それも、単なる変異ではない。
彼女の能力発動のトリガーは、思い込みだ。自分が竜だという狂気的な妄想。それが名前に込められた願いと結びついたことで、能力の覚醒、発動に繋がった。
真名覚醒者とは、己の名に込められた意味合いに、狂気そのものとも言える感情を流し込むことで異能を発言させた者のことを言う。一つの単語に何十何百何千年もの想念が注ぎ込まれて生まれたのが言霊であり、そのシステムを応用し、言霊成立に匹敵する感情を己の名前に注ぎ込むことで異能者となるのが真名覚醒者。成り立ちがそうである以上、大なり小なり、異常な思考や思想、性格の持ち主となる。
その極端な例が、己を竜だと思い込むことで理想の竜の肉体を顕現させる能力を得た竜哮である。
始まりが欺瞞である以上、現実を直視してしまえば、能力が揺らぐ。自分が竜ではないと僅かでも自覚してしまえば、全ての力を失う可能性もある。
それを無意識に理解していたからこそ、彼女は常に「ドラゴンはこうだ」「ドラゴンだから、こうする」といった発現を繰り返していた。自己洗脳。言葉にすることで自分を洗脳し、騙し続けてきたのである。
恐らく、それはこれからも続いていくだろう。自分は竜の末裔なのだと、ことある毎に彼女は強調していくだろう。そうしなければ、能力を失う可能性があるからだ。
神は、それを糾弾していた。己を騙し、偽りの竜であることを。
「その生き方は、滑稽で醜いものではないか?」
「お前の視点からしたら……いや、周りの大半の視点からしたら、そうかもな」
滑稽であることも、醜悪であることも、彼女は理解していた。
この夏の戦いを経て。
問題を超克するために能力を発展させ成長し続けた
そして、認識した上で、彼女は言い切る。
「だが、これで救える人間が一人でもいる限り、俺様は現実から目を背け続ける」
一人でも多くの人に、救いの言葉を届ける為なら、どれだけ醜かろうが関係ない。
偽りでもいい。間違いでも、嘘でも構わない。
あの日の惨劇を、死んでゆく兄を、真実だとか現実だとかで助けられるか。
否だ。だからこそ、彼女は騙す。
いや、騙し続けていた。
「だがまあ、心からはもう信じられなくなってきてはいるんだよな」
先日、両親が普通の人間だという証拠を目にした数秒後、彼女の特徴の一つだった牙が消えた。一晩経ったら、喉から逆鱗も消失していた。
今のところ、声の砲撃は可能だ。しかしいつ使用できなくなるかは、わからない。数年先かもしれないし、明日かもしれない。
背けていた事実に、直視せねばならない日は、近い。
「誰も助けられなくなったら、多分、全部忘れることになるだろうな。小さい頃の妄想だってことにして、非日常から遠ざかった生活を送ることになる。お宝をくれた奴らとか……あいつみたいに」
そういう、決まりだから。
全部忘れることは、怖い。ずっと忘れられる側で生きてきて、覚えている側の辛さを良く理解しているからこそ──その辛さを、他の仲間達に味あわせることになるのが、怖い。
そして、今感じている怖さも忘れるだろう。集めた宝も、つないだ絆も忘れて、昔見た夢だと納得して、無力な現実に浸り生きることになる。
「ならば、ワシが救ってやるぞ」
龍神は、厳かに告げる。
「幸い、ワシには僅かに残った力がある。これをお主に注ぎ込めば──」
「もういいよ、そんな芝居はさ。やめてくれ、
ピタリ、と。
蝉の鳴き声が止まった。
龍神の顔も、硬直する。
まるで時が止まった世界のようだった。
その中で、竜哮の口だけが動いていく。
「お前は神様じゃない。俺様が作った、幻だ。ああ、本当は目の前にお前はいないんだろ。この風景も、現実とは異なってるんだ。俺様が、現実を逃避して、幸せな夢に浸るために、無意識に生みだしたのがこの世界、だろ」
ずっと自分を騙してきた生涯だ。今更、五感を騙すのなんて朝飯前だろう。
そして、何故自分が、そんな幻覚を見ているのかも、よく分かっている。
「お前の手を取れば、俺様は再び竜になれる。だって新しい理由が得られたんだからな。竜の血は引いていなかったが、死にかけた龍神から力を受け継いだっていう、ストーリーが」
「ならば、何の問題がある! 助けたいのだろう、一人でも多くの人間を!!」
「その手を取ったら!
……俺様はきっと、何が幻想で思い込みなのかも分からなくなる」
都合の悪い現実を乗り越えるために、己を騙してきたのが竜哮だ。
力を失い、上の意向やルールに従って記憶を失うという、都合の悪い現実から目を背けて、新たな力を得ることは──超克ではなく、逃避に分類される。
一度逃げてしまえば、限りがなくなる。都合が悪くなれば好きに幻覚を見て、新しい理由を後付けできる、偽りだらけの人生が待っている。助けるべき人を、見えなかったことにして見捨てるかもしれない。或いは敵だったことにして、命を奪うかもしれない。
それは、彼女の願いからもっともかけ離れた行為だ。だから。
「だから、取らない。俺様は今ある全ての手札を使って戦って……使い切ったら、大人しく……大人らしく、舞台から降りるよ」
「……そうか」
神を名乗った己自信の幻覚は、その宣言を聞いて静かに笑った。
「あいつみたいじゃな」
「そうかもな。人間如きに結構影響されちまったよ」
出会ってきた中で、もっとも強く印象に残る存在が頭に浮かぶ。
全ての手札を使い切って目的を果たし、この非日常の舞台から降壇した、勇敢なる凡人。
彼と出会う前なら、この神の手を取っていただろう。
しかし、彼と出会い、現実を直視しないことがもたらした惨劇とその結果を知った。現実を生きることの重大さも。故に彼女には、もう、手を取るという選択肢は存在しなかった。
「ならばせいぜい足掻いて、一人でも多く救ってみるんじゃな」
挑戦的に、相手は笑った。
「言われなくとも。これからもお宝は、増えていくさ。だからお前も、もう二度と、現れるんじゃないぞ」
「はは。そうじゃな──」
気がつけば、空には星が昇っていた。
神を名乗った己はもう、どこにもいない。
古びた神社に背を向けて、木々の間を抜けていく。
ふと、呼ばれたような気がして振り向こうとしたが、やめた。
服を彩るアクセサリーの一つを握りしめる。
その感触は現実なのだと信じている。
駅には最後の電車が止まっていた。
誰もいないそれに乗り込み、大都市へと向かう。
星の下、暗い田舎の線路を、電車はいつまでも走って行った。
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