第12話 ルージュと赤いカクテル
年の瀬も近くなり、鈴音はマスターが購入したレジスターをセットアップし、税務申告の準備に取りかかっていた。
大きな会社に勤務していた鈴音は実務で経理関係にタッチした経験はないが、マスターの経営状況なら簡単な記帳でどうにかなりそうだ。
レジスターをパソコンにつないで経営支援ソフトを使えば、仕入れ関係の日々の記帳さえしておけば税務申告は楽勝のはずだ。
しかし、それは一月から始まる次の会計年度の話だった。
十二月末で終わる今年の会計年度についてはマスターがため込んでいる仕入れ関係のレシートや伝票の山と、売り上げ関係の唯一の証拠となるマスター手書きのお会計金額のメモが頼りだ。
課税金額を決める売り上げの証拠書類が、本人手書きのメモしかないと思うと鈴音は汗が出てきそうだが、マスターはそれで無事に昨年度の申告を済ませている。
鈴音は今年も同じ税務署職員が担当してくれるのを祈る気分だった。
鈴音は、レシート類の金額をパソコンに入力して、同時に紙に張り付けてドッジファイルに閉じる作業を地味に進めた。
「鈴音さん、そろそろお店を開けませんか」
鈴音がマスターの声に我に返ると、もう開店時刻が迫っていた。
「すぐ準備します」
鈴音はパソコンや書類を片付けると、電飾の看板を抱えて入口の階段を登る。
看板をセットして、スイッチを入れて店内に戻ろうとした時、鈴音は店の前にたたずんでいる女性に気が付いた。それは尚子さんだった。
ベージュ色のコートをまとった彼女は無表情に鈴音を見つめていた。
「こんばんは。いまから開店しますけど寄って行かれますか」
鈴音は取り合えず声をかけた。彼女の様子から「スモーク」に用があると思ったからだ。
尚子さんは黙ってうなずくと、店内に戻る鈴音の後に続いた。
「いらっしゃいませ。本日のお客様第一号になっていただきありがとうございます。」
店内に入ってカウンターに座った尚子さんにマスターは陽気に声をかけた。
「先日は無理なお願いを聞いていただきありがとうございました」
尚子さんは、無表情なままで答えた。
「何かお飲みになりますか」
鈴音は、お通しのバゲットを乗せた皿を出しながら、彼女に訊く。黙ったままの彼女に鈴音は重ねて勧めた。
「この「あまおう」のソルティードッグはいかがですか。今日から始める季節限定メニューですよ。出回り始めたばかりのイチゴの「あまおう」をぜいたくに使ったカクテルです」
「それをいただくわ」
マスターは手元にある紙切れにメモをしてから「あまおう」のソルティードッグを作り始めた。
何も言われなければ支払いのシステムを変える気はなさそうだ。
マスターは出来上がったカクテルをグラスに注ぎ、コースターに乗せて彼女の前に出す。
「綺麗な色」
尚子さんはグラスを手に取って「あまおう」のソルティードッグを眺めた。新鮮なイチゴをたっぷりと使ったソルティードッグは真紅に染まっている。
尚子さんは一口飲むとグラスを置いた。
そして、鈴音とマスターの目を見ながらゆっくりと言った。
「あなた達でしょう。私の主人の浮気を止めさせたのは」
鈴音は凝固した。先ほどまで鈴音が彼女の応対をしていたので、何か答えないといけないのだが、とっさに言葉が出てこない。
「そう言われたらそうかも知れませんね」
鈴音の代わりにマスターが応える。
尚子さんはため息をつくと、マスターに静かな口調で話し始めた。
「私は夫と離婚しようと思って準備を進めていたの。夫がキャバクラの女の子と付き合っているのは知っていたから素行調査を請け負う業者に証拠写真を押えさせていたし、そろそろ離婚に向けた訴訟を始めようと思っていたの」
鈴音は訳が分からなくなった。
「それでしたら、何故サプライズパーティーなんかされたのですか」
「娘のお友達のパパに弁護士さんがいたから相談に乗ってもらったのだけど、離婚訴訟を起こしても調停で丸く収める方向に持っていかれるケースが多いらしいの。私は確実に離婚して親権を取りたかったので、裁判官の心証を私に有利に持っていく駄目押しが欲しかったのよ」
尚子さんは言葉を切る。鈴音が口をはさむことができずに黙っていると、尚子さんは続きを話し始めた。
「私が子供と一緒にサプライズパーティーを開いて、その現場に夫が女連れで現れたという事実が残れば、裁判官の心証は圧倒的に私に有利になるわ。加えて子供たちにもパパがいなくなった理由をそれとなく理解してもらえる」
鈴音の頭の中で彼女の言葉が渦巻いた。
この人は何を言っているのだろう。あんなにかわいい子供たちにパパの浮気が発覚した修羅場を見せようとしていたなんて。
「離婚しなくて良かったじゃないですか」
マスターは一言コメントすると、周囲が明るくなりそうな笑顔を浮かべた。
「良くないわ。私は夫の行動を綿密に調べて、計画を立てていたのに。夫が浮気をやめたのは後になってわかったけど、あの日依頼、彼はすっかりマイホームパパになってしまったの」
尚子さんは「あまおう」のソルティードッグをあおった。マスターは笑顔を浮かべたままで言う。
「お子さんのためにはその方がよかったと思いますよ」
尚子さんは黙ったまま、グラスに入った赤いカクテルを見つめていた。
「雨降って地固まるになればいいですね」
尚子さんはマスターの言葉には答えずに、グラスのカクテルを飲み干した。
「おいしかったわ。おいくらかしら」
尚子さんの言葉に、マスターは手書きの紙切れを差し出した。
尚子さんが無言で差し出したお札を鈴音が受け取った。そしてレジスターに金額を打ち込んでお釣りを渡す。
「ごちそうそうさま。これは用が無くなったからあなた達にあげるわ」
尚子さんはハンドバッグからステンレス製の包丁を取り出して鈴音の前に置いた。
柄の部分から刃先までステンレスで一体成型された包丁は鈍い光を放っている。
鈴音が凍り付いていると、マスターはのんびりとした口調で答えた。
「ありがとうございます。フルーツの皮剥きに使わせてもらいます」
尚子さんはマスターの言葉を聞いて微笑を浮かべると、鈴音が渡したコートを羽織り、ヒールの靴音を残して外に向かった。
鈴音はマスターが準備ししていた「さすまた」に目を向け、彼が尚子さんの行動を察知していたことに今更のように気付くのだった。
「マスターはわかってはったんですか」
鈴音は尚子さんの足音が遠ざかってからマスターに尋ねた。
「具体的に何をするつもりかはわかりませんでしたが、何か企んでいるなとは思っていました」
「やっぱり探偵とかしてはると洞察力が違うのですね。でも、包丁なんか振り回したら裁判官の心証が良くなるどころか、尚子さんが犯罪者になってしまうのではないですか?」
鈴音は尚子さんの話と、冷たい光を放つ包丁にギャップを感じてマスターに尋ねる。
「尚子さんは計画を立てるときにサプライズパーティーという可愛いらしい企画にされていました。包丁など用意していたとしても、どこかで周囲の人間が止めてくれるという思いがあったのかもしれませんね。しかし、今回のお手柄は鈴音さんですよ。大胆な直球勝負で広田さんの浮気を粉砕してくれましたからね」
「私は余計なことを言ってしまってマスターに怒られるかと思っていました」
鈴音は広田さんの顔を思い浮かべた。
彼は少し軽薄な感じがするが悪人ではない。
鈴音は広田さんに言い過ぎたのではないかと気に病んでいたのだった。
「とんでもない。あれが無かったらこの店で流血の惨事が起きていたかもしれませんからね」
マスターは「さすまた」を手にすると素早く振り回してから柄の先で床を突いて機嫌よく笑う。
「そんな大事なことに気が付いていたなら、私にも知らせてくださいよ」
鈴音はマスターが何も話してくれなかったので面白くなかった。
「そうですか。実は功労者の鈴音さんに「あまおう」のソルティードッグを味見してもらおうと思っていましたが、褒めたのがお気に召さないようだからやめておきましょうか」
「え?私あれを飲みたいと思っていたんですよ。そんないけず言わないで作ってくださいよ」
マスターはクスクスと笑う。その手元にはスノースタイルにしたロックグラスが二つ置いてあった。
彼は「あまおう」を取り出して既にカクテルを作る準備を始めていたのだった。
京都木屋町姉小路通西入、カクテルバー「スモーク」の物語 楠木 斉雄 @toshiokusunoki2018
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