震える葦

丹路槇

震える葦

 窓に差す斜陽の気配にはっと顔を上げる。消音で点いたままのテレビ画面には夕方の情報番組が流れていた。ついさっき朝食兼昼食のような何かを食べたばかりだと思っていたので、午後の記憶がほとんどない。物が雑多に置かれたデスクの左側へ適当に手を伸ばし、探り当てたスマートフォンのボタンを押す。

 端末は新しくしたが番号はおろかキャリアメールのドメインも契約当初からずっとそのままだった。業界で連絡先が変わったら案件が来なくなると噂されていたのは久しき昔、しかし未だにその慣習があるのではと思うと、怖くて元の番号が手放せない。

 二台持てばいいじゃん、と気安く言う光に、うちのどこにそんな金があるの、と子どもじみた八つ当たりをしたこともある。実際ふたりの手取りで家賃を払い食費を捻出し、仕事に着ていく服を最低限買い足すだけで毎月の生活はやっとだ。他に車の維持費もある。貯金はせいぜい財布の残金を繰り越しで取っておくくらい、保険や共済も契約していない、年金については聞かないでくれ。いや、光は社会保険だからもしかしたら年金受給の対象かもしれない。まあ、それまで元気に長生きしていれば、だけど。

 ロックを解除して、画面の下に固定設置しているメッセージアプリをタップする。開いてから、仕事のスケジュール調整で自分が返事をしそびれている用件がないかを先に確認した。直近が明後日のスタジオ、その次は来週のリハーサル二日間、翌日にゲネプロ、公演は二回本番、最終日はマチネ。その後はしばらく何もない。

 いわゆる、売れない演奏家をしている。オーケストラに所属していないフリーランスのプレイヤーとして、人づてに仕事をもらい、単発でレコーディングに参加したり、オーケストラのエキストラとして出演したりが主な仕事だ。時たま請けるものがバレエ公演やミュージカルなど大きい案件なら、巡業まで含めある程度稼げることもあるが、毎月のように声がかかるわけでもなく、オフの日はこうして家で内職をしている。楽器の部品になる素材を削り、加工して組み立て、楽器屋へ納品して小銭を稼ぐのだ。できれば家賃くらいは賄いたいが、なかなか量産は難しい。

 やり取りしているメッセージ画面を開く。最後に表示されている光へ送った吹き出しは、一昨日の晩で止まっていた。その続きに、用件だけの定型句を打ち込む。

「今日、酒の買い出し。駅に着く時間教えて」

 送信したらすぐに画面を消して近くへぞんざいに放った。そうしなくても、すぐに既読がつくことが分かっているのに。ものの数秒で返事がきて、何時の電車で着くからその十五分後くらいにスーパーのサッカー台まで来ればよいと。結局俺は会計が済んだ買い物の荷物運びをするだけの係を任ぜられるのだと、決まり事のように知っているのに。

 光はいつも居候に甘かった。自分ひとりで全て完結させるのが当然と思っていて、こちらは分担しているつもりでこなしている家事のひとつひとつも「ありがとう」としつこく礼をいう性分だった。俺にもっと自分の時間を持てと言い、それでも毎夜の晩酌に誘う。酒が入るといっそう機嫌を良くして、知りもしない音楽の話をせがんだ。

 金が無くても酒は飲みたい。酒の一滴は血の一滴。まあ家賃が払えれば大丈夫だ。車を手放しても時間貸がある。ただ家はそんなに容易じゃない。

 工具が無秩序に散らかったままの作業机をどうにかするのを諦め、散らかったおがくずを小帚で屑籠へ掃いて落とした。狭い部屋を抜け出て玄関にある鍵をポケットにしまい、丸いドアノブをひねってほぼ部屋着みたいな恰好で外へ出る。

 

 指定された時間の三分前、駅前のダイエーで買い物を済ませた光がエコバッグに食品を詰めているところに合流する。俺の姿を見とめてすぐに「来たね、青」と緩んだ顔で言った。

 本当の名前は青人と書いてハルトだが、子どもの頃から家族みんなにアオと呼ばれている。近所の連中も学校の担任もずっとそう認識していたので、大人になって「ハルトさん」などと名前を口にされるのがすっかり苦手になった。

 スーツのジャケットを脱いで袖をくしゃくしゃに捲り、買い物を袋に詰める光の姿は青年と称するには既にややくたびれていた。会社勤めをするのが遅かったとはいえ、俺より年は七つ上だ。就職活動もどこまで真面目にやっていたのかは知らないが、今は小さな印刷会社の営業をやっている。ここから数駅先の職場には、近郊に国立大学がひとつあった。現在はシラバスをはじめ多くが電子化によって消滅してしまった後だが、少部数であっても研究室や学生が要所で仕事をくれるらしく、紙媒体の商売というのは比較的どうにかなるらしい。

 取っ手のない透明袋をローラーから適当に二、三枚ちぎって光のエコバッグへ横から突っ込むと、それを肩に掛けて空になった籠を持った。先に店を出てそのまま同じ通り沿いにあるドラッグストアを目指す。

「あ、セイムスのポイントカード忘れちゃった」

「電話番号で加算できるだろ、レジ打ちに言えば」

 頼りないナイロンの取っ手を肩に掛け直し、少し歩く速度を上げた。きっと次に光はその番号が実家の宅電だと独り言ちるのを知っていて、逃げるように店の自動ドア前のマットを踏む。

 ドラッグストアの店内は、日中の気候に合わせたままなのか、外の涼風を台無しにするような極度の冷気が充満していた。軽装の俺が小さく身震いすると、連れも腕を振ってシャツを下ろしながら「すぐに済まそう」と決まったルートで酒類売り場へ向かう。

 買うのはペットボトルに入った3リットルのウイスキーと芋焼酎だ。ひとりで両手に6キロ、駅から自宅まで徒歩二十分は不可能ではないがあまりやりたくはない。ふたりいればひとつずつ、話しながらのろのろ歩いて帰れるのでだいぶ気楽だ。光はそろそろ炭酸水メーカーが欲しいと言って五百円玉の貯金を始めている。きっと年末にはお湯割りばかり飲むからいったん忘れ、金欠になる頃合いにそれまで溜めた小銭に手をつければ終わりだろうとあまり期待しないで見守っているが、本人は毎日のように出先で作った釣銭を自慢げに報告してくるので、もしかしたらそのうち実現する場合も、などと浅はかに思ってしまう。

 仕事はどうだったの、と光に尋ねる前に、向こうから「今日もリード?」と聞かれてしまった。リードは葦の茎を二枚合わせに重ねて束ね、細かな加工を施して製作する部品の名前だ。木管楽器の吹き口につけるもので、俺が作るのはオーボエという楽器専用。吹く人間によって当たりはずれの多い消耗品だし、作り手の母数が限られているから市場価値がある程度保たれている、いい副業だ。ただし、工程をこなすのに多大な心労を要する。止めたくなって叫びだしたくなるくらい嫌いな作業だが、光の前ではそれは言わない。

「そう。十日の納品が、今は全然間に合わない。飯食ったらもう少し削ろうかと」

「じゃあ、帰ったら青は先に風呂入りな」

 信号待ちでたまたま目が合った。俺より5センチくらいしか背丈が違わないのに、光の上目遣いは黒いガラス玉の下に綺麗な白い線が通る。癖毛の前髪を顔の真ん中で分けて、襟足を控えめに刈り、昔開けたピアスの穴が耳朶にほくろみたいに残っていた。子どもの頃からずっと知っている姿が、今に至るまで少しずつ傷つき、歳を重ね、褪せていく様子を目の当たりにするのを、もう辛いと思わなくなった。

「光は、風呂」

 カッコウ、と録音された歩道の誘導音が流れ始め、並んで待っていた歩行者たちが交差点の中を歩きだした。渡り終えるまで返事はないだろうと思いながら、少し間をとって光の脇を進む。仮に何か答えをもらえたとしても、それは居候を素気無くするつもりで彼が苦し紛れに言うような台詞だった。

「今日、頼子から連絡来たよ。あんたが元気にしてるかって」

 ほらな、想像通り。頼子は三つ上の俺の姉、子どものままごとで弟の世話焼きに勤しんでいた時の感情をそのまま残して成人した、厄介な専業主婦だ。大手鉄道会社の管理職の妻、ふたりの間には男と女の子がひとりずつ、手前の人生で忙しかろうといつも思うが、刷り込まれた元来の習性みたくいつまでも弟の存在を追い回す。こちらもそれが心底嫌ではないから邪険にできない。その証拠に、年に一度の誕生日の連絡とささやかな贈り物で、彼女をまた容易に有頂天にさせてしまっている。

「こないだのプレゼント、嬉しかったみたいだねぇ」

「何か月前の話してるの。光もなんかあげてたでしょ」

「兄ちゃんのはノーカウントだろう。頼子は青がくれるものがいいのさ」

 そういう時の、隠そうともしない光の寂然とした顔が嫌いだった。提げていた酒のボトルを、エコバッグを掛けた方の腕に持ち替える。取っ手の痕がついた手で光の胸座をぐいと引き寄せた。

「貴方の狡いところに一々苛立てるのももう疲れてるんだよ」

 そう言いながら、今だって些末なことに十分苛立っていて、全く青はいつまでたっても子どもだと思われていると分かっている。痛いくらい自覚しているのに、狭量から手と口が出てしまうのを止められない。くたびれたシャツを千切られそうに引っ張られ、光はすっかり慣れっこの顔をして、なんなら眉尻まで下げてこの状況を喜んでいた。ばかなやつ。俺を怒らせて喜ぶなんて、この世にきっと光しかいないと思う。

 彼は頼子の四つ上の長男、俺の兄だった。随分前に兄弟という関係を考えるのを、俺たちの間で止めてしまっている。今は売れない楽器吹きを養い、行き場のない感情の出来損ないみたいなのを吐き出すのに付き合う、どこまでも憐れな男だ。

 

 まだ学生だった当時、光にしれっと言われたことがある。

「性の趣向なんて無理に矯正する必要はないさ。合っている人間どうしがくっつけばいいし、具合が悪ければ離れればいい。頼子だって気移りがすごいけど、毎度ちゃんと幸せそうじゃない。それでも、終わりにする代償が大きいと、始めるのは多少、ためらわれるかな。まあ、青は僕とだったら大丈夫でしょ」

 それまでにまともな恋愛をしたことがなかった俺は、兄の言葉を素直に全て受容した。きっかけは自分だったし、光はそれに応えただけ。そんな風に始まり、終わらなくて済むと提言までされたような気分になって、男の肌を知ることに迷うことはなかった。やり場がないと思っていた燻りが一瞬の間、体から抜け落ちたような錯覚を手にして以来、しばらくは憑かれたみたいに光の背に縋って過ごした。

 兄は現役で私大の医学部に進学していて、三年の途中から急に授業に出なくなり、二年間休学したのち、大学を辞めた。一年何もしないで過ごし、それから少しずつ、夜間のアルバイトで家の中にいてもすれ違う時間が増えていく。ある時、おそらく今の勤め先が決まった頃に彼は黙って実家を出た。頼子は短大卒業後に結婚して既に家にいなかった。俺は兄の時に費やされた学納金のことが気になって、親の顔色を窺う前に大学には行かないと宣言した。

 中学高校と六年間続けていた吹奏楽部で上達した楽器を気に入って、父の勤め先の社長に中古のオーボエを譲ってもらい、何度かプロの演奏家のところへレッスンに通ったこともあった。音大を夢見る時期もあったが、国立に受からなかった時の家庭の様相があまりに悲惨だと先読みするとふんぎりがつかず、結局は一度、全く関係のない地元企業へ就職した。

 働き始めてから、いっそう兄のことばかり考えるようになっていく。自分が高校生の頃にほとんど家に居て、就職する少し手前でぱたりといなくなった光のことを、気にせずに生きろと言われる方が無理だった。過保護な姉が別の職や新しい家の世話をしてくれようとしたこともあったが、面倒事は母に任せて逃げるように実家を去った。

 就職先は小さくていい会社だったが、不真面目な自分が何もしていない時間にまで給金を得ていることがいたたまれなくなり、半年ほどで辞めてしまった。風の噂で聞き知った、国立大の夜間の科目履修制度を利用するため、一年間受験対策の生活を送り始める。しかし仕事を辞めた後にできることといえば不定期にシフトを入れられるアルバイトくらいで、稼いだ金は瞬く間にレッスン代に消え、想像より数倍早く生活費が底をつく。その時にはもう、頼れる人なんてひとりしかいなくて、楽器と着替え数枚だけ持ち、辿り着いた光の家の前で土下座していた。

「具合が悪くて離れたんだろ。知ってる、でもごめん、光にしか金、借りられない」

 久々に見た兄は俺と同じくらい殺風景な身なりで、記憶より少し痩せており、泣くのをやっと堪えたみたいな声をこぼしてその場へしゃがみこんだ。

「青、おいで。ばかだね、こんなところまで来て。あんたが出られなくなるよ」

 押せば破れそうな軽い木の扉に古い砂壁、小屋みたいな木造二間の家が兄の棲家だった。袋小路に同じような家が八軒ほど、外塀を擦り合わせるようにして立ち並んでいる。心配そうにこちらの様子を伺う斜向かいの婦人に小さく会釈してから、光は俺の腕を取った。

 

 唐突に兄のところへ転がり込んで半年後、音大の夜間学校の入学試験に通り、俺は演奏の勉強をしながら働く生活を始めた。二年間の履修生活はただただ苦しかった。はじめは純粋に演奏がもっと上手になりたくて進学をしたのに、日本じゅうから各地域の天才たちが集結するところへ、ひとり凡才が何かの手違いでここへ来たらしい、それくらいの、どこへ行っても居場所がないような中で時間だけが過ぎていった。

 修了の時、同門の先輩が祝儀代わりにひとつ仕事を用意してくれて、映画のサウンドトラックの録音をやらせてもらった。はじめてのスタジオの現場、自分の評判如何などまったく分からなかったが、その後も細々と仕事は続いた。しかしそれだけでは食っていけない。家計はいつも水面すれすれをゆらゆらとおぼつかなく飛行していた。借金持ちの弟がいつまでも家に金を入れない、それどころか食費や光熱費を毎月潰し続けていくのを、兄はよく一度も叱らず悠然としていたなと思う。

 彼もまた金に執着しない男で、散財もしないが貯金の才能がとにかく無かった。些末なことだが、スーパーで値引きシールがついた物が買えない。「だって美味しくなさそうなんだもん」とにべもなく言う。散髪は億劫がるのにすぐに温泉へ行きたがる。週ごとに弟に褒美をあげたがってすぐに高い酒を買って帰る。あまりにそれが普通のことなので、俺が経済的に独り立ちしないのを、いなすどころか気づいてもいなさそうに見えるほどだった。

 時折、出先で光の同僚に近所でばったり会うことがある。むこうは家族連れで、こちらは百円ショップで買った揃いのエコバッグを提げたりしているものだから、あいさつのついでに身内の者かと尋ねられる。

「居候です」

 先にそう答えると、光は心底驚いた顔をしてみせる。これでいいのだと言い聞かせるように視線を返して黙らせた。すると彼は小さく微笑んで「いい子なんだ、すごく」と同僚に言い添え、またのんびりと歩き出す。

 帰宅して玄関にどさどさと荷物を下ろした。袋に入れたままの食品トレイと野菜を順々に冷蔵庫の中へしまっていく。冷凍の枝豆を買いそびれていると指摘すると、光は残念そうに肩を落とした。

「どうしよう、青が風呂の間、ローソンまで出ようかな」

「いいよ、明日で」

「今日、欲しかったんだよ。食事が済んだら、しばらく飲むだろう」

 二枚扉の小さな冷蔵庫の前から光が立ち上がる。折り目に沿ってエコバッグを丁寧に畳み、今に失くしてしまいそうな小さな収納袋に入れてボタンを閉じると、とんとんと促すように肩を叩かれた。

 立ち上がった時に短い屁が出た。居直っていると先に光が笑う。斜陽にかかる年の、緩やかに下降していく最中でも、ふとした柔らかい感情の表れは変わらず綺麗なものだな、となんとなしに思った。

 前にもたれて、光の背にごつんと額をぶつける。後ろから抱くというよりも、やはり背にしがみついている格好にしかならない。彼が外から持ち帰る、汗とか雑踏とか煙の臭いが好きだった。光、と名前を呼ぶと、かさついた手の平が手探りに俺の髪と頬に触れた。

「甘えてるの、これは」

「何年俺の兄貴をしてるの、貴方は」

「くすぐったいね、兄貴やめて何年、とかならいいのに」

 枝豆は諦める、と言って、光はそのまま台所の薄っぺらい床板の上でスーツを脱ぎ始める。スラックスとジャケットを隣室のラックにあるハンガーへ適当に引っ掛け、ワイシャツと下着と靴下だけの姿でまた台所を横切り、洗面所で洗濯機の蓋を開けた。そこでまた服を脱ぎ、洗濯槽へそのまま入れていく。風呂の引き戸を開けて中に片足をつっこんだ光が蛇口をひねった。シャワーの高い飛沫音が浴室に響く。冷蔵庫のそばにある給湯器の画面が点灯し、小さな炎のマークが赤くなった。

「頼子が今度、切符を譲ってくれって言ってたよ。バレエが観たいって」

 輪郭がぼんやり霞んだ光の声が聞こえる。先に体を流し始めているがドアは閉じられない。このまま一緒に入れということらしい。固辞する理由もなくその場で靴下を片方ずつ脱ぐ。

「あいつめ、バレエなんか招待券が出るわけないだろ。切符くらい自分で買えって言っといてよ」

「そういうものか」

「そういうものでしょ。光も買い与えちゃだめだよ。頼子はいつも貰って当然みたいな顔をする」

「先回りが巧いな」

「もう、だからよしてよ、その話」

 シャツを首から抜き取り、ズボンは足に落として裾を踏みながら脱ぎ、最後に手にしたボクサーパンツを洗濯槽へぞんざいに放った。光は湯船の方へ入って泡を落としていて、こちらへ頭だけひょいと出すと、タオルの支度を忘れた、と呑気な調子でこちらへ言ってくる。

 洗濯機の上にあるラックから毛羽立った古いタオルをふたつ取り出して洗面台の縁に置いた。どちらも白地に紫色のプリントで業者の名前が入っている粗品のタオルだ。たまにはこういうところに金をかければいい、と思うが、翌週にはもう忘れてしまう俺も大概だと思う。三面鏡の右側の鏡を開けて、中のラックからシェービングローションを取り出した。光に入るよ、と声をかける。洗い場へ入って屏風型のドアを内側からぴたりと閉めると、白くけぶった熱気がむわっと広がった。湿っぽい匂いの向こうに、光が使っているボディソープの香りがふわりと浮かぶ。

 兄は前に屈んで洗髪しながら、狭いね、と幾年も繰り返している儀式を欠かさずにやった。シャワーヘッドを持ち上げてホースを引き、頭の上からばしゃばしゃと湯を浴びる。密室特有の、喉がつかえるような気怠さと蒸気の思考を失速させるような飽和性に、長々と息を吐き出した。大学を中退したのも、冴えない零細企業で甘んじて働くのも、家庭を持たないのも誰ひとり友人とも会わないことも、ぜんぶ兄が自分で決めてそうしているはずなのに、一瞬油断すればそれが一から終いまで何もかも自分のせいで、その枷によって彼を侘しく生きさせているような気がしてならなくなる。

 それにひきかえ、見よ貴様は、貧しい中でも望んだ職を手にし、まるでさも潔癖とでも言いたげな燕尾服などを纏い、ステージで熱いくらいのライトを浴びて聴衆の拍手に包まれる。無名でも数千の観客に囲まれる商売をしているのだ。働きが良ければ他の演奏者にブラボーと労われ、名を憶えられ、また同じところへ呼ばれる。今の光にとれば全く無縁の、別世界の出来事に違いなかった。

 なぜ医者にならなかったんだ、と理不尽に怒号するのも勇気、それすら今の俺にはなかった。ただ適当に泡立てたソープで全身を洗い、また頭からシャワーを被ってすすぎ落とし、手の平で顔の水気を払ってから頭を軽く振り、飛んだ水滴に驚いて笑った光の声を聞きながら湯船の隙間に足を入れた。そのまま縁に手を添えて底に両膝をつく。

「頼子にもう何も寄越さないで」

 シャワーを背に立ったままの光はそっと手を伸ばして、微かに強張った顔で笑った。もう兄貴面なんてとっくにできなくなっているのだから止めろ、と頭の中で呪いみたいに唱えると、思慮が伝わったのか、彼の頬から力が抜けた。

「ねえ、バレエってそんなに高いの」

「本当に止めてよ、貴方またそういう、どうでもいいところに金をさ」

「ああ、そうじゃなくてね。お客さんってすごいなと思って。みんながお金持ちってわけじゃないだろう。この日のために切符を用意して、仕事を休んで観に来るひともいるかもしれない。一生に一度の場合もあるよね」

「まあ、そうだね」

「言ってみれば夢の世界じゃない。そんな人が客席いっぱいにいる。それで、そのピットの中に、青がいるんだと思うと」

「思うと?」

 シャワーの音が変わったのに気づく。勢いを調整されたのではなく、近くでぶつかった物が除けられて反響が小さくなったようだった。流れる飛沫を背にしたまま、光がゆっくり膝を折り湯船に座り込んだ。大人の男がふたり、縁の太い古びた浴槽に詰め合わせになって窮屈なのに、そんなことなどすぐにどうでもよくなった。屈んだ光が作る影、うねった毛先から膨らんだ雫がぽつぽつと落ちる音、薄く開いた唇、視線を少しずつ上げていくと、光はいつも居候を連れ歩く時と同じ温和な表情をしている。

「なんでもなく、不意にこみ上げるものがある。あんたは本当にここへ居ていいのかと思う」

 途端に息の仕方を忘れてしまったみたいに苦しくなって、自分の左胸を拳で叩いた。浅い呼気が漏れて、さっきまでどうやってこの人と普通に会話をしていたのか、自分がどんな顔をしてどんな声を出して向き合っていたのか、まるきり見当がつかなくなる。

 綺麗なもののように扱われるとどうしていいか分からなくなるのが煩わしくてならなかった。今度は腕を伸ばして浴槽を叩く。光は身動きひとつせず、しばらく黙ったままだった。

「ごめんね、青。もう言わないよ」

 入れ違いに組み合わさるように膝が重なって、光の体温が背にじんわりと沁みていく。だから頼子の話は嫌なんだ、と半ば叫ぶように呻くと、兄は情けなく形の崩れた声で何度も謝り続けた。

 

 錠が外れたままの、アルミのポストの蓋を開ける。今日は九時開演のモーニングコンサートに出た後、ホールを出てすぐのカレー屋で遅めの朝飯を摂り、昼過ぎには自宅に戻っていた。光は残業の予定だから遅くまで帰らない。きっと午後にリードのメイキングをしているうちに気づけば買い出しに行く気が失せる時間になっていて、ひとり買い置きのカップ麺でも食べるのだろう。

 ポストの中にはチラシと年金の通告書、それに同じ形の白い封筒がふたつ、入っていた。和紙みたいな触り心地で透かしに小さな箔がきらきらして見える。上等な装い、レタリングみたいな筆致の宛名書き、結婚式の招待状だと開けるまでもなく察知した。ひとつが光の、もうひとつが俺宛、裏返して差し出し人を確認する。頼りない記憶に依れば、父方の従妹である実歩からだ。

 午後十時二十七分、葦を削る作業場の手元から顔を上げてテレビ画面へ振り返る。いくらなんでも帰りが遅いと思っていると、すぐにがちゃんと外から鍵が開けられる音がした。緩やかに外気が流れ込む気配、狭い三和土に光の革靴がぺしゃっと落ちる音、疲れて引きずり気味の歩調が床を行き来するたびに薄板が大げさに軋む。台所と居間を区切った磨りガラスの向こうで、水彩みたいに滲んだ光の姿が浮かんだ。

 飯を食うかと声をかけると、風呂だけでいいと返される。そのままばたばたと服を脱いで浴室へ直行する様子をガラス越しに見届けてから、まだ数本削り始めていない未完成の部品をストッカーに挿し並べてからゆっくりと立ち上がった。

 シャワーを浴びている風呂場の湿気を自然に鼻先で吸って集めながら、彼が抜け殻みたいに落としていった服を拾い集めた。ワイシャツと肌着は洗濯籠へ、靴下が見当たらなくてスラックスをバサバサと振る。茶色の合皮ベルトはいつも通している穴が傷んで割けそうだった。今度のギャラで現金手渡しの時があれば、財布に入れずこれを新調してやろうと思う。

 和室の万年床を踏みながらスーツをハンガーに架けていると、風呂場のドアがもう開く音がした。すぐに片方ずつ洗面所に足が降りる様子がうかがえる。またろくに拭かずに濡れた体で部屋の中をうろつかれるのを止めようと、咄嗟に掴んだパンツとTシャツを持って光の方へ走る。

「なに、慌てて。顔が怖いな」

 今日は端に富士山が書かれている粗品のタオルを使った兄が、すっかり薄くなった図柄を手で持ちながらごしごしと襟足を擦っていた。濡れて毛量が減って見えているからか、薄闇に立つ彼が実家の父と重なり、言おうとしたことが一瞬で吹き飛ぶ。

「……聞いてない、手紙」

 代わりに白昼の不祥をためらわず口に出した。俺の手から自分の服を受け取った光は、さほど動じることもなく小さく頷いて答える。

「僕もこないだまで知らなかったよ。実歩は青と同い年だったね」

「そうじゃない、なんでここの住所に届くの」

「電話で聞かれたからさ、あんたの分も僕と同じところに送ってって言った」

 首元がよれた寝間着のTシャツに袖を通すと、肉が削ぎ落とされ節ばった腕を気怠そうに持ち上げ、ごしごしと両目に擦りつけた。まるでこんな些末なことを気にしているのは俺ひとりだとでも言いたげな態度にますます腹が立った。洗面所を塞いでいるこちらの背をすり抜け冷蔵庫の前へしゃがんだ光は、短く鼻歌を挟みながらドアポケットの発泡酒を物色する。半歩後ろで同じように腰を落とし、無意識に冷蔵庫の中の灯りを見た。

「そんなことしたら、頼子にも周りにも知られる」

 平時であれば、缶ビールは週末まで我慢しろとか、飯を食わないんだったら早く寝ろとか、そういうことを真っ先に言うところを、その晩の俺はやたらむきになって、躱されるほどに足下に噛みつく犬みたいになっていた。バンと小さなチルド室のドアが閉まる。反動で薄い床がゆさゆさと揺れた。光の細い手には発泡酒の缶がふたつまとめられ、そのまま腕を伸ばしてきたかと思ったら首に押しつけられた。怯んでその場に尻餅をつく。退いた俺を四つ這いの恰好で追いかけた光が、缶のプルタブをひとつ開けた。ぷしっと気抜けの音を聞き、まだ憮然としている俺にどうぞ、とそれを寄越してくる。

「どうかな、彼女ら案外、そりが合わなくて話をしない」

「だからって、住所教えたら、行くしかなくなる」

 拗ねたみたいなこちらの言いがかりに、兄はちらと一瞥しただけで、缶に口をつけた。こくこくと喉仏を二度上下させて発泡酒を流し込み、ぱっと短く息を吐く。

 こんなに慎重かつ臆病に、日々逃げるように生活しているのはそもそも全く意味のないことだったのか。根城が露呈されたかくれんぼを続けていたとすれば、途端に何もかもが無為に思える。光はこの生活を誰かに暴かれたいのだろうか。人に咎められて引き剥がされるのを待っており、そろそろ頃合いだと手を離す支度をしているのか。十年逃げればここで静かに暮らせるというのは、俺だけが抱いていたまったくの過信だったらしい。

 手の中にある缶ビールは、握っている間に刻々と炭酸が抜けてぬるくなっていく。

「光は」

 顔を上げて、浮かんだものを言いかけて、すぐにやるせなくなって口を噤んだ。飲むしかないと思って付き合いの一本を一息に飲み干した。手前に当たった焦点の向こう、ぼやけた視界でも光が暗がりの中で機嫌良く笑っているのが分かる。

「今日も具合が良いだろうなぁ、青。布団に行こうよ」

 空になった缶と中身が入ったままの缶がふたつ、並んで台所の床に置かれたまま、二組の足音がその薄い床をみしみしと鳴らした。和室の敷居を跨いですぐの煎餅布団に折り重なるみたいに寝転がる。酒には酔わない。仕事も歯磨きも放り出して、それを寝起きに後悔することを知っていて、光の平たい背中を手でなぞる。

 

 電車を乗り継いで一時間半、光と赴いたのはJRのターミナル駅を一望するホテルの式場だった。楽器ケースに貯めていたへそくりから祝儀を捻出しようとしていると、ふたり分まとめて支度すると光ひとりに片付けられる。うちのどこにそんな金があるの、と久々に怒鳴り声を上げた俺に、彼は答えの無いまま笑っただけだった。

受付で実歩の母親に会い、父と同じ目元のその人に、俺と光が全くそっくりだと言われる。兄は愛想良く笑って、見分けのつけ方は俺の鼻面にあるほくろだと指さした。そうでなくても光と髪質も顔の輪郭も全然違うし、似たようなスーツ姿だが挿しているハンカチの色も違う。だいたいその見分けも今日だけすればいいのだから、なんならどちらでも同じようなことしか話しかけられないはずなのに、そういう他愛無い話で彼は叔母を喜ばせた。

控室には燕尾服の父と小袖の母が既に居たが、頼子の騒々しい声は聞かれない。こちらから話かけるかを迷っていると、袖を抑えた白い手に小さく手招きをされた。体面しかない身内付き合いのこの場では、拒む権利はない。光には目配せせず、ひとりで母のそばへ向かう。

「頼子も来るはずだったんだけどね、悪阻でだめになりました。今日は青人と光さんだけ」

「ツワリ」

 単語をおうむ返しにすると、着物姿のひとはゆっくり微笑んだ。

「そうね、青人の時には何にもありませんでしたよ。悪阻も夜泣きも、魔の二歳も。光さんの時がいちばん酷かったかしら。頼子の時は、もう忘れた」

「そういうものなの」

「そういうものでしょうねぇ」

 間延びした声に、彼女の感情は察せられなかった。光は父から少し離れて軽く頭を下げている。

 挙式は定刻通りに行われた。列席には新郎側の親類なのか、家族連れが多く、泣いている甘ん坊や開式前に寝こけてしまった幼い子の姿があった。鐘が揺れるギミックに合わせて安っぽい電子音が流れ、新郎の入場に続き、叔父に付き添われた白いドレス姿の新婦が現れる。

実歩は最後の印象より少し太っていて、隣の光も小声で「授かり婚かな」と口にした。おそらくそうではなさそうだと考えながら首を僅かに傾ける。通路側にいる母の鼻を啜る音を聞いてぎょっとしてしまった。まったくどうして、女という生き物の多くはこういう何でもないところで唐突に感傷から泣くという行為を選択するのだろうか。男の怒号や笑い声を厭う女性もそれなりにいると聞くが、彼女らだって大概同じようなことをこうして男に抱かせていることを知らないのだろう。腕時計の留め具を退屈そうに弄っている兄が、こちらを見やってはくすくすと笑う。

「青、眉間の力、抜いて」

 そう言われても体が勝手になってしまうから無理だ。何だかよく分からない署名と接吻を見させられ、花びらを浴びせられながら退場する新郎新婦をようやく見送る。するとまたすぐ控室へ戻るようにと誘導員に声をかけられた。自分ではなす術もなくただ囚人のように歩かされる時間を、今はコンクールやオーディションの前の待機時間と思うことにする。

 式場から移動して、両家の親類が集まり記念撮影をした後、光の姿はいつの間にか見えなくなっていた。母に促されて披露宴の会場へ向かう。途中で化粧室へ寄ると言うので、少し離れた隣の男性トイレに入った。既に喉が渇いていたが、後の宴席で酒を少々は飲むだろうと思い、白磁の器の前で薄く身震いして全て絞り出そうとする。

 短く息を吐きながらスラックスのジッパーを上げると、個室のドアがかたんと鳴った。その後は何の気配もない。施錠したドアが遊びで動いただけかと思い、洗った手をペーパータオルで適当に拭くと迷路みたいなタイル地の通路を出る。

 宴席のテーブルは両親と兄弟でひとまとめになっていた。不在の頼子を挟んで光と俺の席がある。母はこちらの左隣に席札があった。彼女は黒革の小さな鞄を帯の少し下に抱えたまま、小袖を擦らせて先に腰を下ろす。

 周りを手早く見回してから、左に倣い椅子に座った。見計らったようにウェルカムドリンクのメニューが差し出される。目についたハイボールという文字に惹かれ、どうせ乾杯挨拶で新郎の職場の重役がこちらの知りもしないことを延々話す時間がたっぷりあるだろうと決めこんだ。「角のソーダ割」と黒服の男性に告げる。

 がま口型の小さな鞄をバチンと開けて、母はそこから手鏡を取り出してはしきりに横髪を確認している。今しがた、楽屋ライトみたいなのが当たった化粧室の大きな鏡で丹念に整えて来たばかりだろうに。吐くはずの悪態は聞こえないように小さなため息になって消える。

 カトラリーの傍にあったコース料理のカードを読んでしまったらすぐに手持ち無沙汰になり、テーブルの中央に配置されているブーケの花弁の数をかぞえようと思ったがそれもやめ、退屈に目を閉じたくなったあたりに頼んだ酒が給仕される。母しかいない円卓で断るまでもなく勝手に飲み始めた。唇を当てた後のコップの縁を親指で拭いながら、自然と腕時計に視線を落とす。

「父さんたちは煙草ですよ。あと十分もすれば戻るでしょう」

 先回りをするさらりとした声に僅かな疑念を抱いた。光の中抜けは気に留めていたが、父のことには全く考えが及ばなかった。彼女がひとまとめにそう言うのであれば、光は父と一緒にいるということか。

「喫むの、今。あの人昔にやめたじゃない」

「やめてるわよ、今も。吸うのは光さんの方でしょう。うちへ来ればいつもきっかり三本、貰って帰るくらいだし。あらやだ、知らない?」

 五指でつかんでいたハイボールのグラスが、ぬるっとゆっくり滑ってコースターに底をつけた。結露で湧いた汗玉のせいではない、じんわりと指先が痺れて感覚が分からなくなっていく。

 誰の話をされているのか脳が理解をしていなかった。光が実家へ帰っている? しかも頻回に? 何か理由があるならば金の無心に違いない。何のために。よくやる兄の小さな豪遊みたいな褒美の持ち出しか。だとしても使っている額がもらえそうな小遣いの割に合わない。

 どうしてだ、光は俺が思うより父と仲が良かった? 止むに止まれず頭を下げるような事由を抱えていたのだろうか。あの時の俺のように。俺は、この人たちには、断じてしないと決めていたというのに。

 こちらの無知を蔑むような、それでいて他人事みたいに話す母に苛立って、乱暴な語調で「なんなの、貴方は」と言った。返事は求めない、もう喋るな、という意図で、グラスから離れた手を握り拳にして白いテーブルクロスの上に落とす。

 光がどうやって父に金の工面を頼んだのかを考えれば、手の中の指先が勝手に震えた。一度の諮問で決着していれば足しげく通う必要などないのだ。繰り返し顔を出さないと済まないような用向きがあった。つまり、それは、そういうことなのだとしたら。

 目の端で母がほんのりと笑う。唇が両端に引かれ、歪んだ合わせ目からべっとりと塗られた紅の色が脂っぽく光るのが、心底汚らしいと思った。

「何を勘違いしているのか知りませんけど」

 吐きだされた女の声で鼻が潰れそうになる。広い宴会場の絨毯に短い抗争は全て吸い取られ、周りにいる他の誰ひとりとして、この気配を感じ取らなかった。

「光さんはお父さんの、私たちのものだったんですよ。貴方には今までにやるべきことはやってあげました。次男でしょう、家を出るなら一人でよかったじゃない。それがいつだか、ぜんぶかき回していって、あんなあばら屋、処分すればいいと何度も思ったわよ。でもね、光さんが嫌なんだって。青が気に入ってるからって、ね。ばかばかしい、そんなので光さんを持っていかないでよ。この、泥棒」

 吐き捨てられた台詞に、不思議とそれがすんなり受容できた。幼年から長くしつけられた親の言動に体が無意識に順応したからなのか、冷静に諭されればそれがただひとつの事実であり、今の自分がすべて間違っていることだとつきつけられていることに、今は安堵すら覚えている。

 泥棒という言葉で愉悦を感じる自分がただの意地汚い野郎だと思った。それでも別段構わなかったのは、光がその対面にあったから。綺麗なひとなのだ、本当に。親の偏愛に染められ、弟の飽食に甘んじて血肉を差し出すような憐れなひとだと、それをもうこれ以上、誰の目にも悟られたくはなかった。

「探してくる」

 その頃には鼓動も呼吸も静かに凪いでいて、手の震えもすっかり収まっていた。ただ、この女とは二度と顔を合わせない。いっそのこと逃げ続けて勝ちたいのだ、できるだけ、姑息に。

「よしなさいよ、じきに」

「煩いな。盗ったものを大事にできる人なの、俺は」

 膝の裏でがたがたと椅子を引きずりながら席を立った。氷だけ残したハイボールのグラスを近くのキャストの持つ盆へ置く。母親らしからぬ嫉妬でぬかるんだ声が「恥知らず」となおもこの背を罵倒していたが、そんなことなど、芯からどうでもよくなっていた。

 

 廊下へ出ると、長い通路の端に、父と光の姿が見えた。隠れようとする前に向こうから「青」と声をかけられる。彼らが現れた通路の奥には喫煙所の案内板が立っていた。あの女が話したことが本当だったのだと思い、微かに身震いする。

 怯んで立ちすくんだ俺に近寄って肩をはたいてきたのは父だった。

「これは、母さんに何か吹き込まれたって感じだな」

 近くにいた光もそれに頷く。

「本当だ、何だろう」

「光の薄給を憂いたのかな。私から小遣いでもやっているとか言われたんじゃないか」

「さすがにそれは嘘だと分かるよ、今日だって、いつぶりだろう」

「いやいや、しかし母さんは女優だよ」

 傍にいる初老の人は、昔から次男にいい意味で無関心だった。放任で、取り上げない代わりに特段何かを押しつけず、与えず、俺が誰かに何をされたかどうかなど、記憶する中でただの一度も言及されたことがない。

 つい先刻の憎々しげに相好を歪めた母の姿と、今の男親が見せた態度があまりに対極にあった。俺にこうして馴れあう父を知らない。肩に置かれた手を跳ね除けたかったが、肘から下の感覚が抜け落ちてしまい思うように動かなくなっている。

 父の調子に合わせてばかりの光の顔を盗み見た。こちらは平常と同じぼんやり惚けた顔をしている。頼子がいない分気楽かと思ったが、かえって気が滅入ったか、とか言われた気がする。もう何を問われてどう答えるべきかまったく頭が働かないから、ここからの遁走以外に何も考えられなくなっていた。

「頼子は、ツワリ」

「うん、三人目だろう? 嬉しいことだけど、少し体が心配だね」

 さらさらと流れていく声は、頼子のことなどちっとも案じていないような色をしている。俺のことも気にかけてなどいないようだった。出かける時と同じ恰好をしているはずなのに、彼が別の身なりで戻ってきたような錯覚が起こる。なぜだろう、俺の思考の散漫のせいか、纏っている匂い……?煙草の臭いはしなかった。光が口を開くと、甘苦く酸化したような香りが漂った。缶コーヒー、いや、それよりも古びてかび臭い感じもする。

 疑心のまま鼻面を近づけようとして、光の手にそれを止められる。顔ぜんたいに被せられた手の平が、血の気も失せたみたいに冷たかった。

「探しに来てくれたんでしょう。戻ろう、青」

 父の手が肩から離れる。短い歩幅で忙しなく絨毯を進むと、先に宴会場の扉の内へ入っていった。燕尾服の尻尾がすっかり消えたのを確認してから、光の冷たい手が一瞬のうちに俺の頬を滑って落ちる。

 開宴から少し遅れて、下手のドアから男ふたりがホールへ戻った。挙式より身軽な正装で姿を見せた新郎新婦は、足に揃いの白いスニーカーを履き、高圧のスポットライトに照らされながら、ぴたりと腕を組んで客席半ばまで入場していく。曲調に合わせていた男女の歩みが、テーブルに囲まれた会場中央あたりで止まり、それからぱっと腕が解かれた。ボリュームがさらに一段階上がると、次の拍から曲の終わりまで、真っ白の衣装の主役がふたり、一糸乱れぬダンスを披露した。自然と手拍子が起こる。ステップに合わせて華やかに舞う白いドレスの残像に重なる歓声。どこからか口笛も聞こえる。

 サプライズのオープニングを無事に終えたふたりは、最後にゆっくりとレッドカーペットの先へ向かっていった。一同へ振り返った主役夫婦が深々と会釈する。ホール全体に巻き起こる拍手喝采。

 唐突に始まって終わった演出に、俺は特段何の感慨もなく静かに手の平をぱんぱんと叩いた。目新しさも独創性もない物だったと勝手に批評して、せっかくの彼らが迎えた晴れの日を自己陶酔の時間だと釘を刺したくもなり、どうしようもなく感情が白々としていく。

 隣にいる光は素直に顔をほころばせ、何度も大きく手を叩いて場を賑やかしていた。眩しそうに細められた目が、夫婦にとって今日この瞬間が幸せの境地だと言っているようで、それがかえって残酷な祝福だと思った。

 下手のドアに寄りかかったまま、俺と光の立つ場所はずっと変わらない。腕を伸ばせば容易に掴むことができ、ただし肩はそうそう触れられないほどに遠く、並べば俺の方が僅かに上背があり、光は母に似て薄闇でも肌の色がよく映えた。

 新郎と手を繋いだ実歩が白手袋の腕を振って拍手に応える。着飾っているものとは別の、実歩が元から持っている、彼女の内に秘められていたものが、風に舞う花弁のように、きらきらと人々を魅了していた。その輝きを、今は美しいと感じられない。

 不意に片腕をくいと引かれる。振り返ると光が困ったように苦笑していた。笑顔を覆う影が濃くなって、肩に押されたドアが徐々に開いていることに気づく。

「退きたい時に、そうしようと思って」

 悪びれずそう囁く声はしっとりとして耳に絡みつく。刺されたのに痛みのないような感覚に、喉を掻きむしりたい衝動が重なった。普段は見えない彼の睫毛の切っ先が、点々と目の下に影になって落ちている。

「光は俺が要らなくなったの」

 掠れ声の陳情は、先行く人の耳には拾われない。そう思ったが、抜け出たドアがぴたりと閉じると、踵を返した兄が片腕を広げ、そのままやんわりと連れ出した弟の腰を抱く。

「昔、あんたに言ったよ。もう出られなくなるって」

 今は容易に出てこられた、と軽口を叩くと、光は嬉しそうにぱっと笑った。笑って顎を引く姿勢になると、首の横側に皺が寄る。何気なくそれを視線でなぞっていると、見覚えのないシミのようなものが目に留まった。

 襟の中に隠し損なった光の白い首には、真新しい小さな痣がある。

 

 〈了〉

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震える葦 丹路槇 @niro_maki

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