無重力ピザ

シロメ朔

無重力ピザ

「凄い、無重力ピザだって」

 僕は言った。

「なにそれ、気になる」

彼女は僕が思った以上の反応で、文字だけのメニューを覗き込んだ。

実際のメニューには、「新スタイルの“重くない”ピッツァ」と書かれていた。

僕はまた、嘘にならない「嘘」をついた。


代官山の一角。

その淑やかなレストランの前には、既に行列ができていた。

僕と彼女は大通り沿いのテラスに並べられた椅子に、二人で腰掛けた。

僕はお気に入りのセットアップを着ていて、彼女はシンプルな白いシャツにアジアンテイストの不思議な模様が入ったパンツをはいている。

半年ぶりに会う彼女は、髪を暗めの茶色に染めていた。

以前会ったときに、黒髪は嫌だと言っていたことを思い出した。


順番を待つ人の中には、黒くもこもことした犬を連れた女性がいた。

「そういえばさ、昔、犬飼ってたよね?」

 彼女はその犬を見ながら言った。

 実家が厳しかった僕は、一度も犬を飼ったことはなかった。

 飼ってないよ、と僕が言うと、彼女は不思議そうに自分の中にある「僕が飼っていた犬」のイメージを語り出した。

 茶色と白で、大きくて、アルプスの少女ハイジに出てくるみたいな。

 彼女がアルプスを駆ける犬の画像を見せた時、僕の記憶にある一匹の犬が優しく吠えた。

 僕の家の、二軒隣に住む大型犬。

 小学校に上がる前くらいまで、飼い主のおじさんと一緒によく散歩をした犬だ。

 スマートフォンを持っていなかった時代の話。

 彼女に見せることができる画像もない。

 僕は彼女にその犬のことを説明したが、彼女はうーんと首をひねるだけだった。

 記憶は歪む。

 もしかしたら小さな僕は、小さな嘘をついていたのかもしれない。

 少しだけ背伸びをするために。


 何台も、何台も、ヘッドライトが通り過ぎて行った。

 久しぶりの会話に、待ち時間は流れるように過ぎていった。

 白いシャツに黒いジャケットを羽織ったウエイトレスの女性が僕たちを呼んだ時に、時計を確認すると三十分ほど経過していた。

 ウエイトレスの女性が、僕たちを中庭のテラス席に案内した。

 彼女はうわぁと感嘆の溜息を洩らした。

 月夜の暗がりを、テーブルに置かれたランプの淡い光が照らしている。

 白い壁に囲まれた中庭の中央には、レストランの天井の二倍以上ある大きな木が植えられていた。

 彼女は大木を見上げていた。

 陳腐な言葉だが、幻想的という表現が最も適しているように思えた。

 

 僕と彼女は、互いにあたりを見渡しながら席についた。

 テーブルに置かれたメニューは、文字だけが書かれたシンプルで洗練されたデザインをしている。

 ごてごてとした飾りつけのない、余白の美しさ。

 広告業界で働いていると、癖でこういったデザインに注目してしまう。

 そして、もう一つ、悪い癖。

 僕たちはしばしば、「嘘にならない範囲で」話を盛ってしまうのだった。


 無重力ピザという言葉も、思いついた瞬間には口を衝いて出ていた。

 “重くない”という言葉を、さらにプラスのイメージで言い換えたものだ。

 ただのくだらない言葉遊びだったが、彼女は興味津々と言った様子で、メニューを眺めた。

「ピンサ・ロマーナっていうのか。うわ、こっちのリゾットも美味しそう。迷うねぇ」

 文字だけが並ぶメニューは、上品だがイメージが湧きにくい。

 当たり前のような盲点に、その時気付いた。


 優柔不断な僕たちはたっぷりと時間をかけて、とりあえずドリンクを頼むという結論に達した。

「お酒飲む? ノンアルにする?」彼女は尋ねた。

「任せる」

「じゃあ、一杯だけ飲も」

 仄かに灯るランプに照らされたクラシックな雰囲気を楽しんでいると、僕の頼んだジントニックと、彼女の淡い赤色のカクテルが丁重に席に運ばれてきた。

 透明なジントニックにはライムが、赤いカクテルにはレモンが串切りで入っていて、その二つが並ぶ風景はなかなか美しく見えた。

 彼女も同じように思ったのか、二つのドリンクを並べると席を立ち、スマホのカメラを構えた。

 僕はテーブルの上に置いてあった自分のショルダーバッグを手にとって、彼女の隣に移った。

 レンズ越しに映る世界の中に、余計な存在が映らないように。

 彼女は気が利くねぇと呟いて、背景の場所を選んで写真を撮った。

 写真として切り取られたランプの景色は、まるで映画の中の世界みたいだ。

「撮らなくていいの?」

 そそくさと席につく僕を、彼女は勿体ないとでもいうように見ていた。

「今撮ったやつ、送ってよ」

 別に欲しいとも思わない風景写真を、彼女にねだってしまった。


「じゃあ、乾杯で」

 僕たちは軽くグラスを重ね合わせた。

「何に乾杯?」彼女は丁寧に、一口目を口に含んでいる。

「うーん、仕事お疲れさまとか?」

「そうだね。ほんとに仕事お疲れ様だよー」

 彼女はテレビ局の報道分野で働いていた。

 広告業界で働く僕とは、似ているようで全く違う仕事だ。

 彼女たちは起こった出来事を、できるだけ客観的事実に基づいて、そのままの形で伝えようとしている。

 僕はそう認識していた。

「まぁ、ニュースもエンタメも本質は同じかもね」

 しかし、ウエイトレスが運んできたチーズリゾットが机に置かれる様子を眺めながら、彼女は僕の甘い認識を否定した。

「どういう意味?」

「伝えるってことの前提が、視聴されるってことだからね。見てもらわなきゃ、伝わらない。だから色々工夫してるんだよ」

「フェイクニュースとか?」

「それはさすがに無い」

 真剣そうに語っていた彼女が、くすっと笑う。

 どうしようもない冗談だった。

「例えば、ニュースをランキング形式で発表したり、途中に占いを挟んだりとかね」

「なるほどね」

「別に嘘はついてない。でもよく考えてみたら、ニュースの順位って何なのって思うけどね」

 彼女はそう言うと、リゾットの皿を僕の方に渡した。

 どこの業界でも、あるいは人生でも、同じようなものなのかもしれない。

 伝えたいことがあって、できれば良く見られたくて。

 “嘘にならない“くらいの背伸びを伸びしてしまう。

 それは「リラックスできる」清涼飲料水であったり、「全米が泣いた」映画だったりするのだろう。


「ねぇ、遠慮せずにちゃんと上の方の具材も取ってよ? きのことかチーズとか」

 僕が自分の皿に取り分けるリゾットの量を少なめにしていると、彼女はめざとく注意した。

「とってるよ」僕は言った。

嘘にはならない。

ただ、彼女が美味しそうに食べているところを、できるだけ眺めたいだけだった。


 リゾットを食べ終えると、僕たちは再びメニューを眺めた。

「いやーでも、無重力ピザって気になるなぁ」

 彼女はそう言いながら、上質な紙をペラペラとめくっている。

「いや、ごめん。無重力ピザとは書いてなかった」

 僕は彼女がまだ無重力ピザの存在を信じているとは思わなかった。

 彼女は驚いて目を丸くした。

「え、嘘。どういうこと?」

「重くないピザって書いてあったのを誇張して、つい無重力ピザって言っちゃっただけ」

「なにそれ! めっちゃ気になってたのに」

「報道担当なら、情報の精査はちゃんとしないと」

 僕が笑うと、彼女は感心したように頷いた。

「いやぁ。凄いよ。めっちゃ魅力的に感じたもん。才能だよ、才能」

 彼女はそういうと、改めてメニューに書かれた文言を見て、騙された、というように笑った。

 きっと、彼女の方が凄いのだろう。

 何の誇張もない彼女の言葉が、こんなにも僕の心に響くのだから。


 店を出る時には、車通りは落ち着いていた。

 暑くもなく、寒くもない、理想的な秋の夜だ。

 僕は彼女の隣に立ち、改めて店を眺めていた。

 店の中庭から伸びる大木は、いつからこの地に根を下ろしているのだろう。

「素敵すぎたね」

 彼女は小さく呟いた。

 その横顔は、幸せにあふれていた。

 僕は秋風が頬を冷ますのを待ちながら、彼女の横顔をじっと見ていた。


 好き、という言葉では、彼女をうまく表現することができない。

 それはきっと二人にとって、致命的な嘘になる。


 僕たちは結局、ピザを注文しなかった。

 そうすることで、形を持たないピザはいつまでも二人の中に、ふわふわと浮かんでいるような気がした。

 僕たちは重力に囚われずに生きていくのだ。


「次、いつ会える?」


 僕は言った。

 それは、嘘にならない最大限の賛辞であり、僕が伝えられる全てだった。

〈了〉

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