第9話
11月末で会社を辞めて、年明けから転職先で働きはじめることが決まると、途端に暇になった。有給休暇も消化できないまま春日にこき使われる覚悟だったが、早々にお払い箱となり、そうしてできた時間が丸々一ヶ月だ。さっくり退職できたので予定していなかったモラトリアムを前に手持ち無沙汰になってしまった。
持て余した暇の消化方法について、真純に相談した自分が愚かだった。もし過去に戻れるのなら、数日前の自分に忠告していたに違いない。そんな後悔を嘲るようにして、目の前で俺を見下ろしているのは幾重にも積み上げられた参考書の山々である。
「こいつは流石になぁ……」
法秤正義至上最大の物量である。転職祝いだからと送りつけてきた真純から「暇なら、入社するまでに全部通読しておいてね」と言付けまでもらってしまっている。入社してすぐにあれこれ仕事をぶち込んでくるだろうし、サボるわけにもいかないのだが、量が量だ。これは想定していなかった。
「つうか、これ全部でいくらするんだよ……」
書籍の総額は計算したくもないが、先月の手取りだけでは足りないことは明らかだった。契約書作成の参考書、民法や会社法の基本書、独占禁止法に景品表示法、下請法、不正競争防止法に著作権法……それに特許法まである。松川総合電機の法務は特許まで担当範囲なのだろうか。
「……それはないよな。でも、知財部門と話をするにあたっては基礎くらい押さえておけ、ってことか」
急な長期休暇をもってしてすべて読み崩せるかは甚だ怪しいが、優先順位をつけて読み進めるしかない。
午前は家で、午後は気分転換も兼ねて駅前のチェーン系喫茶店でサンドウィッチを頬張りながら民法の基本書を読み進めていると、LINEのトークアイコンが更新を知らせてきた。
『今日、暇だろ? 久しぶりに呑みに行かないか?』
大学でできた唯一無二の親友と言ってもいいかもしれない野郎からの誘いに、俺は迷わず乗ることにした。
場所を移動し、新宿へ。相も変わらず冷たい風が吹きすさぶ都心の一等地は、駅前の大改装でビル群が取り壊され、抜けるように澄んだ夕焼けが広がっている。震える喉元から吐き出した吐息が白く細く立ち上って虚空へと消えていくのをみやりながら、早足で人混みをかき分け、ここ数年で隠れ家的な人気を誇るおでん屋の暖簾を潜ると、待ち構えていたかのように俺へと振り向く優顔の色男が右手を挙げた。
桐谷友哉。大学の同期で、留年仲間で、神に愛された天才の一人。
「よぉ、絶賛無職」
「随分な挨拶だなぁ、桐谷。そっちこそ年中無職みたいなもんだろうに」
「ははっ。ちげぇねぇ。とりあえず座れよ。今日は法秤の転職祝いってことで。僕のおごりだ」
「ケチで有名なお前が? 明日は雪じゃなくて雹でも降るかなこりゃ。つうか転職のことなんで知ってるんだ。真純くらいにしか話してないのに」
「僕の情報網をなめないでよね。棗さんにしか言ってなかったら僕の耳には入らないから、転職話は迂闊にしないほうがいいということは忠告しておこう。あと、ケチじゃない。将来性のあるやつにしか投資しないってだけでね」
挨拶がてら雑な近況報告をしているうちにビールがきて、なし崩すような適当さで杯を交わして麦芽の濃縮された至高の一杯を胃袋に流し込む。久しぶりに味わうのどごしに思わず感涙しそうになって、誤魔化すように咳き込んだ。
「おいおい……。僕のおごりだからってそんな一気に呷るなよ」
「……本当に久しぶりなんだよ。土日も働きづめで、酒に頼れる余裕もなかったんだ」
「転職できてよかったな。少しはマシな職場になるんでしょ? なんたってあの棗さんの下だ」
「どうだろうな。真純は情け容赦ないからなぁ」
「公私混同はしないでしょ。立場が立場だし」
「そうだといいけどな」
真純は出会った頃から言動も思考も常人の埒外にあって、交友関係にあった俺はもちろん、桐谷も数々のとんだとばっちりを受けた。彼女の破天荒な振る舞いによって俺と桐谷は二人仲良く単位を落とした。こんな話すら前菜のような味わいにしかならない。あの人の隣にいたせいで世界の広さを思い知らされ、物事の尺度も価値観も変わってしまった。
「な桐谷はあちこち手を出してるって真純から聞いたけど、うまくいってるのか?」
「んー……軌道には乗ってるんだけど、刺激が足りないかな」
「お眼鏡にかなうビジネスがねぇってか」
「ビジネスっていうか、人かな。こういうのは縁とか運とかそういうのも大事なんだけど、最近はあんまりないんだよねぇ。こう、びびっ、とくる感じの出会いがね」
項垂れるようにして桐谷が首を振る。
学生時代は数多の学生ビジネスコンテスで最優秀のタイトルを総なめにし、いまではその才能を活かしていくつものベンチャー企業のアドバイザーとして八面六臂の活躍をしている。助言や提案に留まらず、目をかけた企業へは惜しみなく資金を提供し、経営顧問すらしている投資家。
かたや複数の不動産を所有し、ベンチャー企業の不動産賃貸や株式投資でもって莫大な利益を生み出す資産家でもある。
それが桐谷友哉の肩書きだ。無地のトレーナーと年季の入ったデニムというシンプルかつ安上がりなコーディネイトに身を包む倹約家が、ほろ酔い気分に任せてこの世を憂う姿もまた絵になるほどの美男子というのも憎らしい。
「なぁ、法秤。画期的なビジネスを成功させる秘訣ってなんだと思う?」
「藪か棒になんの話だ」
「文字通りビジネスセンスの話。他意はないさ」
「……センスがなけりゃ奢りの話はなしっか?」
「法秤に感性は期待はしてないよ。でも、センスがなくても分かるんじゃない」
「お前ってやつは……」
失礼極まりないな、とふにゃけた面を睨みながら、ふわふわした頭でぼんやりと思考をまわす。辞めた会社の先代社長と当代社長の噂や人柄、それと経営手腕がどうだったか。身近だった営業マンや上司はどういう人だったか。
周囲の喧噪に割って入るはグラスの中で溶ける氷の滑る音。「そろそろタイムアップかな」と桐谷がはんぺんを頬張りながら俺の答えを心待ちにしている。
「……そうだな。強引さ、熱量、気前の良さ、ものを見る目、頭の回転の速さ、大局観。そんなあたりか?」
「数打ちゃあたる質問をしてるわけじゃないんだけど。そのレベルのものを並べだしたらきりがない。この問いに対する本質的なアンサーはたった一つだけだ」
「……なら、やり抜くって気持ち、だな」
「その心は?」
「……なんだかんだで、そういう気概のある人ほど営業成績はよかった。客観的事実から共通項を言っただけだ」
日下部商事の営業である山川は典型的なタイプだった。太客との案件や大手との交渉は必ず最後まで自分で手綱を握り続けてリードを獲得し、そのほとんどを受注まで繋げていた。契約では手こずる取引先も多かったが、俺の知る限り、交渉や取引関係が
出世するのであれば、営業畑ではああいう人間なのだろう。浅い社会人暦なりに人生の先輩方を観察した俺なりの見立てである。
「センスがないなりのいい観察力だね。なかなかいい線を突いている」
つまり正解ではないということだ。
当てるつもりは毛頭なかったが、惜しいと聞けば途端に悔しい気持ちになるのだから不思議なものだ。気持ちを誤魔化すために俺はジョッキに残ったビールを一気に煽り、肩をすくめてみせた。
「で、天才投資家の意見はいかに?」
「単純だよ。“社会や世界を変えてやる”って信念。それが僕なりのアンサー。最近の和解奴にはそれがない。頭が良くてキレるしアイデアもあるんだけど、胆力と気持ちがない」
いつの間にか注文していたのだろう、熱燗の獺祭をお猪口に手酌で注いでぐいっと喉を鳴らした桐谷がこの世を憂うように語り出す。
「ビジネスコンテストで色んな学生を見てきたし、ベンチャーでもあっちこっち投資したりアドバイザーとして口を出しているけれど、どういうわけか、どいつもこいつも熱意がない。最終的にこのビジネスを通してどうしたいのかと問い質せば、有名になるとか、人より金を稼ぐとか、そんな凡俗な返事しか聞こえてこない」
「熱意がないのは桐谷も同じだったろ」
「そうだよ。だから僕はお遊びの範疇で話が終わるビジネスコンテストにしか取り組まなかった。世間から期待されていた起業はおろか就職もせず、投資家サイドにまわった。ビジネスで世界や社会や人を変えたい欲なんて微塵もなかったし、幸いにして実家が太かったから卒業後の進路はどうとでもなった」
――だからこそ、わざと留年した。
桐谷自身が在学時代からしきりに口にしていたことである。わざと留年するなんざ、金持ちの考えることは微塵も理解できない、なんて当時は思ったが、それはいまもさして変わらない。
「仕事ってのは多かれ少なかれ自己実現という要素を取り入れなければならないことは昨今のビジネス書を読めば暗記できるくらいには自明のこととされている。だがビジネスというのは究極的な話、自分のなりたい姿を微塵も投影してはならない。あくまで社会や世界、つまり自分の外側にひたすら意識を向ける必要があるわけだ」
「自分のやりたいことは仕事にするなってよく言うアレみたいなやつか」
「まぁ……似たようなものだな。世のため人のためと言うは易し、行うは難し、って諺のとおりだ。考えたモノやサービスで世界を変えようったってそう簡単にはいかない。想像もしなかった苦難や考えもしなかった反発があるのは当たり前で、それを乗り切るのに必要なのが信念ってわけだ」
まくし立てるように熱弁する桐谷は流麗に辯舌をふるい続ける。
「ビジコンってのは評価者を手玉にとっちまえばいいから、ホンモノのビジネスであればその先にある艱難辛苦なんて微塵も考えなくていい。所詮は学生が学生だからこその視点で考えるアイデア勝負みたいなもんだ。そんな無責任の極みみたいなアイデア一発勝負だってのに、そのアイデアで世界を変えてやるって息巻く奴がいない。スケールがちいさい。端からスケールすること自体を目的にしてないし、諦めている。頭はいいけど失敗したくないお利口か、結局は自分のことしか頭にないかのどっちかなんだよな、いまの学生は」
「俺みたいに大学生活を腐らせるよりはよっぽど優秀な気がするけどな」
「僕らのときと違って優秀で意識高いフリすんのは簡単なんだよ。SDGsだのVUCAみたいなバズワードを舌先で転がして持続可能性のある社会に興味ありますって顔すればいいからな。なのに、ビズコンで捻りだしてくるアイデアはそんなワードとは微塵も関係なかったりする。なにも考えていないから、平気で筋の通らない言動を披露してくる。いやになっちゃうよね」
「……転職祝いに愚痴を聞かされる羽目になるとはな」
「……それもそうか。悪い。酒がまずくなっちまうな」
「お前が苦い話をするもんだから、自然と甘い酒に手が伸びる」
氷の溶けきった白桃酒を飲み干し、俺は同じものをオーダーに入れる。グラスを回収しにきた店員が持ってきた馬刺しをつまみ、「大変そうだな、投資家ってのも」と同情を示してやる。
「酒の席でもビジネスや投資の話をするから、毒抜きはできないんだよな。誰がどこと繋がっているか見えないこともあるから迂闊に愚痴をこぼせないし管もまけない。だからこうして本業に関係ない間柄ってのは僕の支えなんだ」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「なら、嬉しいことついでにもう一つ。クリスマスは暇だよな?」
「……悔しいことにな。で、なんだ、藪から棒に」
「
「……っ」
社会人になってから、その名前を避けていた。年貢たるファンクラブ費だけは贖罪のように払い続けて、けれど就職とともに現場をずっと遠ざけていた存在。
いまをときめくアイドル声優。俺と桐谷の推し。
そして、俺が、この世界で一番、顔を合わせてはいけない相手。
「そろそろいいんじゃないか。もう誰もお前を責めやしないさ。それでもぐちぐち言ってくる野郎のことなんざ無視すればいい。そもそも、すでに身の潔白は証明しているんだし」
「……少しだけ、考えさせてくれないか」
酔った勢いで後先考えずに返事ができれば、どれだけ良かったろう。
足枷となった過去の自分の過ちは、そう簡単に許せることではない。
「連番のチケット、ほかの誰にも譲る気はないから」
「俺のことを見逃すつもりはない捕食者のように釘を刺してくるじゃんよ」
「どうとでも解釈すればいいよ。僕は事実を言ったまでだ」
あとは俺の気持ち次第ということだ。幸いにしてライブ当日まで少しだけ猶予はある。それまでに気持ちの整理はつけないとならない。
「まったく、折角のモラトリアムだってのに。もう少し気楽に過ごしたかったな」
「そうやってなにもしないまま時間を無為に捨てて後悔するのは数年後の自分だよ」
分かったふうな口をきく桐谷に、俺は苦笑を返すだけで精一杯だった。
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