第8話

 果たして、俺の心配は杞憂に終わり、真純の言うとおりに事は運んだ。


 現職が日下部商事という聞き慣れない中小企業の法務担当であることを理由に「大手への転職は厳しいかもしれない」なんて前情報を転職エージェントから受け取っていた。けれど、そんな怪しい雲行きを蹴散らすように採用選考は良い方向に転がった。

 新卒入社後満3年を迎えるまでは第二新卒というカテゴリに含まれるらしく、松川総合電機をはじめとして仕事で多少の付き合いのあるメーカーからはどこからも歓迎してもらえた。中途採用の選考もしている真純による履歴書の手解きもあって書面審査での通過数は思った以上に良く、いまは絶賛売り手市場であることや、業務で押しつけられてきた契約やビジネススキームの整理、ビジネスリスク分析などができることを語ると、おもしろいようにウケた。



「あたしの言ったとおりだったでしょう」


 苺がたんまり盛られたフラペチーノを頬張りながら、真純が真向かいの席で得意げな顔を浮かべている。


「なんだか複雑な気分ですけどね。潮目ってものを感じましたよ」


 たった一ヶ月ちょっとの転職活動により晴れて松川総合電機の中途入社内定の通知をもらったことを報告するやいなや六本木ヒルズのスタバに呼び出され、俺は言われるがままに奢らされていた。対面に座る元カノはサンドイッチとスコーンをたいらげてご満悦の様子でなによりだ。


「ちなみにあたしはあんたの採用選考にほとんど関わってないから。大学の後輩が採用面接にくるかもしれないって部長には伝えてあったけど、それだけ」

「俺がもし面接駄目だったらどうするつもりだったんですか」

「でも他の会社からも内定もらってたでしょ? いまの会社よりずっと労働環境のいいところ。しかも複数」

「それはそうですけど……」


 他にも3社から内定通知をもらったが、それらはすべて断った。そのどれも新卒採用のときは藁にも縋る思いでエントリーして箸にも棒にも引っ掛からなかった会社だったので、ほんの少しだけざまぁみろと清々しい気持ちになったのはここだけの話である。


「どうするもこうするも、うちに決まったんだからどうでもいいでしょ。それよりも大事なことがあるんだから」

「いまから気が重い……」


 当たり前のことだが、転職するということは、退職することを告げなければならない、ということだ。その意思を上司の春日に告げた後の状況が目に見える。想像するだけで水月のあたりがきりきりして、胃袋はなにも受け付けない。自分用に注文したアメリカンコーヒーはなみなみ注がれたまま熱はとうに逃げてしまった。


「正義の会社、ブラックなんだからきっちり逃げ切りなさいよ」

「そうっすね……どうやって切り出そうかな……」

「搦め手とか通用しないことが分かってるなら下手に話すより真正面から伝えなさい。その代わり、後ろ髪を引かれないように」

「あの会社に思い残すことなんてありませんよ」

「そう? それならいいけれど。あと、どうせ有給がたんまりあるんだろうし、ちゃんと全部消化しなさいよ。まとめて使い切れる機会なんて転職のタイミングくらいしかないんだから」

「でも、その間は真純さんの下で働けないですよね」

「そんなの気にしてたらこっちきても有給取得なんて不可能でしょ。いなくなっても大丈夫なように日頃の業務をしっかりやりきりなさい。うちにきたらそれが大前提だから」

「そんな業務のやり方をしたことないので、松川に入社してから頑張ります……」

「有給期間はどう過ごしてもいいけど、嫌じゃないなら課題は出してあげる。強制はしないけれどね」

「一応、あとで教えてください」


 一ヶ月も有給を取得したところで、時間の潰し方に迷うだけだ。さして金もないから旅行するような贅沢ができるわけでもないし、金を使わない趣味があるわけでもない。急にできる暇の潰しかたは、なかなか悩ましい。


「とにかく、週明けには会社に伝えます」

「あまり心配してないけど、健闘は祈ってる」



 そんなふうに背中を押され、迎えた週明けの月曜日。異常気象のせいで季節はずれの夏日が続く十一月末はスーツを着ているだけで変な汗が出てくる。いや、きっと暑さのせいだけではないんだろうけれど。


 始発で出社すると、すでに部長の春日は役員会議資料の最終チェックに取りかかっているところだった。何人をも寄せ付けまいとする張り詰めた空気を前に、尻込みしてしまいそうになる。

 だが、ここを逃せば春日は定時を過ぎるまで春日は掴まえられない。

(切り出すなら、どのみち今か……)

 自分の席に荷物を置いた俺は、意を決して眉間に皺を寄せて唸る春日のデスクへと歩み寄り、切り出す。


「部長、話があります」

「忙しいのは分かってるな。用件は手短に」

「……っ」


 何度もシミュレーションした簡単な動作が、できない。口が、思ったとおりに動いてくれない。


「どうした、早くしろ」

「…………っ、俺、…………っ」

「……もういい。雰囲気でわかった。法秤みたいに仕事に生真面目なやつはこういう場面になるとてんで駄目だな。辞めるんだろ」


 声に出そうとしていた言葉を先に言われ、まごつきながらも「そう……です」と掠れた声で返す。数拍置いて、手元のキーボードを静かに弾き出した春日が深い溜息を溢した。


「その緊張癖はいつか致命傷になるから、次の職場に行く前に訓練して治せよ。そういう仕事をさせなかった俺が悪いが、踏んだ場数がものを言うから、経験させてもらえるようにアピールするんだ」

「えっ……」

「次は決まってるのか」

「え、いや……はい……」

「ったく、それくらいはっきり言ったらどうなんだ。まぁ、法秤の若さとここでの経験があるなら引く手数多だろうし、心配いらないか」

「え、えっと、あの……」

「いつまでまごついてる。いま人事にはメールを出しておいたから、あとで手続きに必要な書類一式、受け取ってこい。用件が済んだなら席に戻って仕事の棚卸をしろ。残件は顧問弁護士に頼んで巻き取らせるから」

「……わ、かりました」

「溜まってる有給使うんだろ。最終出社日は今週中に決めて私に連絡しなさい。取り急ぎは以上だ」


 意表を突かれ、こちらからなにを言うわけでもなく、やるべきことが片付いてしまった。

 席に戻りメーラーを立ち上げる。CCに自分が入ったメールが春日から人事宛に出されたメールを開封し、しばらくの間、ぼうっと見つめることしかできなかった。あそこまですんなり話が通るということは、もしかするとこの一ヶ月の間に勘づかれていたのかもしれない。無機質なメールを読んでいるだけなのに、変な感情が沸き上がってくる。

 正直、春日に怒鳴られたり叱られたり引き留められたりするものだと思っていた。そうなれば勢いそのまま辞表を叩きつけることもできたかもしれない。あれこれ言われながら引き留めてくるかもしれないと構えていたのもある。

 それが、こんなにもあっさり辞職願いが受理されるだなんて、拍子抜けもいいところだ。


(後ろ髪をひかれるって、こういうことじゃあねぇよな……)


 キツネに摘ままれた心地で社内の退職手続き情報を漁り、そうしている間に人事から案内された各種の書面や情報に目を通していく。法学部を卒業したとはいえ労働法や保険関係は苦手意識があり全然勉強をしてこなかったため、知識はない。必要な書類をすべて受け取っているのか判然としなかった。白い目を向けられそうだが、あとで真純に頭を下げて教えを請えばいいか、と整理をつける。


 たいした量ではないものの、契約や取締役会、総会手続、登記関係、業法対応、訴訟紛争対応……とそれぞれフォルダを作り、社内クラウドにアップロードはしてある。引き継ぎ対応もやることはほとんど残っていない。

 途端にやることがなくなってしまい、手持ち無沙汰になった俺の脚は自然と休憩室へ向かった。


「あっ……」

「お、法秤くんじゃないか」


 休憩室で飲みかけのリポビタンDの空き瓶を捨てていた山川が仏頂面で俺を睨んでくる。


「……なんか俺の顔についてます?」

「……いや。だが、まぁ、なんだ。纏っている空気でわかったよ。次は決まってるのか?」

「部長といい山川さんといい……エスパーですか、ここの人たちは……」

「トップが一族企業だとな、ついていけねぇって辞める奴は大抵似たような空気を纏うもんなんだ。俺も春日も何十人……いや、何百人と見送ってきたから、さすがに分かっちまうんだよ」

「そうですか……」

「辞めてく奴を引き留めるだけの材料はねぇんだ、この会社。同業と比べても金払いはそれなりだが……まぁ、いまの時代、馬車馬のように働けだなんてウケやしない。若いうちは金よか時間と経験のほうが大事だ。WLBだのサステナビリティだの謳ってる取引先をみながら土日も働くなんていつまでも続くはずねぇ。そう気付いた奴から後腐れなくここを辞めていく」


 働きかたについてはブラックもいいところなのは言うまでもない。山川のような営業ですらそう感じているということは、全社的にもそれは自明というわけで……。


「でも、それなりに色々と経験もさせてもらいましたよ。酸いも甘いも」

「前途有望なこった。こちとら25年も営業やってきて、まだまだ学ぶことばかりだ」


 はっ、と短く息を切るようにして山川がわらう。


「たかが数年で、しかもバックオフィスにいて触れるビジネスの範囲なんざ太平洋に混じる小さじ一杯の塩くらいなもんだ。そんくらい分かってるだろうけどな」

「……お世話になりました」

「まぁ、頑張ってくれや。そういやどこ行くんだ? 俺と同じ交渉のテーブルに着くのは勘弁だろ? 俺も願い下げだ。春日にも黙っておいてやるから教えてくれ」

「……言ったら訴えますからね」

「安心しろ。こうみえて人事についちゃあ口は硬い」

「本当に秘密ですからね。転職先、松川総合電機です」


 言うと、山川がほぉと感心するように声をあげた。


「そうかい。そいつはまたなんとも……まぁ、頑張ってくれ。だが、ここ以上に仕事はきついぞ。俺から言えるのはそれくらいだな」

「……こことも付き合いはそれなりにある会社ですから、本当に勘弁してくださいね」

「俺の得意先だが、窓口担当をうちのエースに引き継いでおくさ。負け戦はしたくないんでな」

「僕と仕事するのはこりごりってことですか」

「……謙遜もどほどにしておけよ。それじゃあ達者でな」


 覇気のない別れの挨拶を残して、山川が給湯室を後にする。その背中が妙に寂しげに見えたのは気のせいだろう。退職に向けて動いている俺の心が見せる都合のいい幻影だ。

 腕時計に視線を降ろす。役員会議の終了時刻までアニメ一話分ほどの猶予がある。


「折角だし、もう少し時間を潰していくか……」


 たまったツケを回収するような気分で、俺は二杯目の珈琲にありついた。

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