第7話
――やめろ。
あの時と同じようにそう叫んだ瞬間、視界が引っ繰り返って、見知らぬクリーム色の天井が視界に映る。夢だと分かっていても、過ちを犯さなかったことに安堵する。
「悪夢でも見た?」
声のしたほうへ寝返りをうつと、俺に一服盛ったであろう張本人が同じベッドのうえでくすりと笑っていた。窓から差し込む朝日に照らされて麦水のように輝く髪が純白のシーツの上で扇のように広がっている。指先に絡まった彼女の華奢な指が少し冷たい。
「ここは……」
「あたしの部屋。酔い潰れた正義を帰そうにもどこに住んでるか知らなかったから、しょうがないよね」
「……確信犯かよ」
「セミナーで会えたのは奇跡というか偶然というか、って感じだけど」
「……用意周到なこった」
「あれは私が常用してるやつでね。まぁ、本当はやっちゃ駄目なやつだけど。で、怖い夢でも見た?」
「この状況より恐ろしい夢なんざ早々ないよ。つうか、俺、服…………」
「スーツは皺になるから脱がしたけど。暖房効いてるし、上裸でも寒くなかったでしょ?」
そういう問題ではない。
「……脱がしただけ、だよな?」
「さぁて、どうだろうね?」
悪戯な笑みを浮かべる真純を前に、溜息が溢れる。臆病な彼女のことだ、どうせ酒臭い唇に触れるのが関の山だろうし、深く追求はしないでおくことにする。眼福だったなぁ、と弾むような声とともにベッドから抜け出した彼女は腕をあげて背伸びをした。レースフリルがふんだんにあしらわれた黒いネグリジェはあまりにも丈が短くて、健康的な太股や脇腹が無防備に晒されている。酒に溺れてなお意識があったら危なかったろうな、と平静な心地で眺めていると、ご飯作るけど、と聞いてきたので無言で頷いた。俺の反応をみて得心すると、寝間着のまま台所へと向かっていく。
やっとのことでベッドから抜け出して、ぼうっと部屋の中を見渡す。1LDKの部屋はあの頃と変わらずあちこち物が散乱しているが息苦しくない程度には整理がされているようにも思えた。とはいえ、あちこちに積まれた蔵書の山は脱ぎ散らかした衣服でコーディネートされ、見るに堪えない。ベッド側に築き上げられた衣類の山に俺のシャツとインナーが乱雑に捨てられていたのを見つけて、上裸から脱する。
一息ついて、部屋の中央に鎮座する丸テーブルの前に腰を下ろす。その側には真新しいダンボールが3箱ほど積み上がっていて、そこには同じ表紙の文庫本が何十冊と詰め込まれていた。
モノポリーな偏愛 著:夏目 ますみ
「新作か」
「あ、それ触んないでね。今日それにサインする予定なの」
「ご苦労なこった」
コンスタントに新作を出し続けている真純の作品は去年も一昨年も全国の書店員が選ぶなんとか大賞にノミネートされていて、知名度もさることながらデビュー作の映画化、人気作品はドラマ化もしている。文筆家としてはもう一生贅沢ができるくらいには稼いでいるのではないだろうか。
「部屋が散らかりすぎだろ。もっと広い部屋に住めばいいんじゃないのか、これ」
「広いとそれはそれで不便なんだよ。生活レベルを上げるのも一長一短あってね。とくに家のなかをあっちこっち歩き回んないといけないのが面倒極まりないからさぁ」
「ハウスキーパーでも雇ったらどうなんですか」
「他人に勝手にあれこれ触られたり物を移動されるの嫌なの」
「よくこれで他人を連れ込めるもんだ……」
「頭の先からつま先の形まで知ってる人のこと、あたしは他人だとは思ってないからね」
「なんて屁理屈」
「正義さぁ、それのサイン本欲しい?」
「作品のテーマは?」
「独占欲が強い女が好きになった男をなんとか自分のものにしようとするけど、その男にも諦めきれない女がいて、紆余曲折あって、独占欲の強い女は自分の幸せのためにその男を諦める、みたいな話。ラストシーンは女がその男を振ってビンタするの」
気の強い女が好きそうな作品だな、と思ったら。氷堂なんか好んで読みそうだ。
「……俺の趣味じゃないからいい」
「素直に受け取っておけばいいのに。配本も楓ちゃんにあげるくらいしか相手がいないからいつも余らせちゃうし、むしろ引き取ってほしいくらいなんだけど」
「素直にいらないって言ってるんだよ。つうかこの作品の男のモデル、俺じゃないよな」
「…………あはっ、まさか。自意識過剰にも程があるっての。さて、と。朝ご飯できたよ」
丸テーブルに運ばれてきたのはスクランブルエッグにトーストだ。ありがたくいただくことにする。
「まさか勤め人だとは思わなかった」
音信不通のまま別れた真純がどうしているかは知る由もなかったのだから当然だが、自由奔放が服を着ているような性格の彼女にサラリーマンなんて属性があまりにも似付かわしくない。だから、勤め人しかいないあのセミナー会場にいるとは露程も想像できなかった。
「ちょっと失礼なこと考えてるでしょ。あたしにも色々あんの。そもそも、いつまでも作家を続けられる保証なんてないし」
「とても才能が涸れるようなタチには見えないんですが」
「書きたいことがなくなればそれまでの商売だから。その点サラリーマンは楽でいい仕事よね。成果を出し続ければ雇用と給与は保証してくれる」
まるで成果ならいつでも出せると言わんばかりだが、彼女の経歴を思えば会社に貢献することくらいのことは赤子の手を捻るようなもので造作もない、というのも納得できてしまう。
「金に困っていない人間の言うことなんすか、それ」
「社会と繋がっていないと小説って書き続けられないんだよ。年を取れば書きたい話も読んでくれる年齢層もステージが変わっちゃうから。年老いた人間が描く青春は、いまその瞬間に青春を生きてる人間が描く瑞々しさには敵わないの」
「そんいうもんすかね」
「そういうものなの」
天才作家が豪語するのだからそうなのだろう。俺にはどこまでも関係のないことだが。
テレビから星座占いの一位と最下位を読み上げるお天気キャスターの声が流れてくる。いつもならそろそろ出社のために自宅を出ている時間だ。鞄からスマートフォンを取り出すと、不在着信が5件。営業の山口と部長の春日の名前が交互に並んでいる。直帰だと伝えていたはずだが、やはり彼らはお構いなしだ。出社してからメールを確認しようと心に書き留める。松川電工との契約の件だろう。出社前からすでに憂鬱だ。
「土日も仕事なの?」
「休みなんかもうかれこれ2ヶ月ないですよ。中小の商社なんてこんなもんです」
「ばりばりの労基法違反じゃない」
「そうっすね……でも、それを労基署に訴えたところでどうしようもないんですよ。俺がやったとバレればクビ。転職できるようなスキルもない。路頭に迷うわけにはいかないんです」
「転職すればいいじゃない。正義ならできるでしょ?」
「そこら中にある一介の商社でたかだが数年、法務業務をやってきただけです。採用なんかしてくれる会社があれば苦労しないっすよ。それに転職活動って、サイトに登録したり履歴書作ったりエージェントと調整して中途採用してる会社にエントリーしたり、めちゃくちゃ時間使うじゃないですか。土日も働いてるのにそんな余裕があるわけ――」
「そんな人生でいいの?」
「…………っ」
あんたがそれを言うのか。
俺の人生をめちゃくちゃにした、あんたが。
「誰のせいで俺がこんな――」
「うちの会社、来ない?」
「――は?」
吐き出そうととした怒りが喉元でつっかかる。
「なにを言って――」
「あたしね、来月に昇進して新しく自分のチームを作ることになったの。ちょうど定年退職する人と他部署に異動した人がいて、法務メンバーは欠員状態。中途採用と社内公募をしてるんだけど、いい人がいなくてね。でも、正義なら採用できる」
「なにを根拠に……」
「これ」
そう言って真純が差し出してきたのは、俺の名刺ホルダーだった。
「あたしのチームに入る候補の子が松川電工の案件を担当してるの。この相手先の法務担当が厄介だからフォローしてほしいって泣きついてきてね。正義でしょ、この案件担当してるの」
「…………それだけですか」
「十分よ。その子、それなりに期待の新人なの。この半年みっちりあたしがしごいたし、ある程度の案件ならそつなくこなせる。法的素養も業務レベルも法科大学院を出てるだけあってそれなり。その子が契約交渉で泣きついてくるんだから、それで十分戦力になる」
「買いかぶりすぎですよ。たった一件の契約をちょっと見ただけで俺の実力なんか見抜けるわけないじゃないですか」
「あたしが言えたことじゃないかもしれない。でも、いつまで腐抜けてるつもり? こき使われて、それで精根尽き果てたら捨てられるだけの環境に浸かったままだなんて、そんなの赦さないから」
「……さっきから言わせておけば、いったい何様のつもりなんだよ」
「放っておけるわけないじゃない。あたしが認めて愛した男がこんなザマでいるなんて知って、そのまま知らないフリなんてできない」
「一度俺をあんなふうに切って捨てた真純がそれを言うのか? 身勝手にも程がある」
「身勝手で結構。正義になにも言わないで留学したことを後悔してなかったら、あたしは昨日、声なんて掛けなかった。何度も忘れようと思ったけれど、やっぱり駄目だったの」
「っ……」
「あたしは、やっぱり正義が欲しい」
「……それは、どっちの意味で、ですか」
「……どっちも、って言ったら怒るでしょ」
当たり前だ。
「いまさらあの頃の関係に戻れるなんて都合が良すぎる。自分勝手も大概にしてくださいよ」
「諦めるつもりはないからね。ともかく正義の置かれている環境は見過ごせない。だからさっさと転職活動をはじめなさい」
ぐいっと顔を近づけてくる真純の眼力にたじろぐ。これは本気の眼差しだ。こうなると彼女の気の済むまで解放してはくれない。
「仕事を終えたら……やっておきます」
「エージェントなんて使わなくてもウチにはエントリーできるから、それだけさっさとやりなさい」
「……分かりました。って、分かったからスマホ返してくださいって!! 何勝手に個人情報入力してるんですか!? ちょっと、さすがにメールアドレス欄にうちの会社のはまずいからっ!!」
登録ボタンをタップする直前でスマートフォンを取り返し、私用のメールアドレスに書き換えて登録する。Gmail宛に届いたメールで、本当にエントリーしてしまったのだと自覚して軽く身震いをした。
「……はぁ、これでいいですか」
「ブラフでいいから他の会社もちゃんと受けなさい。いまより労働条件がいい会社なら都内にいくらでもある。二ヶ月も休暇なしなんていまどき金融でもベンチャーでもコンサルでもあり得ない。商社でコキ使われてるなら実務経験も社会人経験もそれなりでしょ」
「まだ入社して2年目ですけど」
「第二新卒枠で拾ってくれる会社ならいくらでもある。むしろ育成の手間が省けるから即戦力ね。どのみにうちが採用するようにあたしがなんとかするけど、正義は自信を付けなさい。自分が思っている以上に市場の評価は高いから。とくに正義くらい若手の法務なら、なおさら」
「はぁ……」
受信したエントリー完了メールをぼんやり見つめながら生返事をする。
苦い過去が脳裏を過ぎる。人間性も人生もなにもかもを否定され、この世界にお前は不要だ、という冷徹な回答をオブラートに包まれて突きつけられる、あの悪夢。
他人からの評価ほど怖いものはない。それがたかが数年、馬車馬のように働いてきただけで市場価値など上がるものだろうか。
「正義なら引く手数多よ。数年前は買い手市場だったし、新卒なんて在籍してる大学のネームバリューしか見てないんだから、そこから先は運でしかない。でも中途は違う。たかが数年でもやってきたこと、培ってきたこと、積み上げてきたものがすべて武器になる。ちゃんと履歴書を書いて、やってきたことの棚卸をしなさい。売り手市場の今なら、実績をしっかりアピールするだけでなんとでもなるから」
「……そんなもんですかね」
「あたしが惚れた男なんだから、評価されないわけないでしょ」
「その妙な自信はどこから来るんだか」
「あたしはね、人を見る目だけは違えないのが自慢なの」
そういえばそうだった。冷堂も樋口もそれぞれ学部首席で卒業していったから、その審美眼の例外は俺だけということになる。
「いまの会社、ちゃんと辞める覚悟で転職活動しなよ」
こくりと頷いて、俺はスーツを羽織る。
「そろそろ会社に行かないとならないので。朝ごはん、ありがとうございました」
「身体、壊さないようにね」
「心配無用ですよ。これでも身体のほうは丈夫ですから」
「……クリスマスイヴに風邪引いてデートの約束を反故にした元カレがそれ言う?」
「う、埋め合わせはしたじゃないですか」
ジト目で睨んでくる真純に目を合わせられず、法秤はいそいそと玄関へ向かい靴を履く。
「それじゃあ、またね」
境界線を跨いだ背中に柔らかい声がかかり、法秤は一瞬足を止める。
「ご縁があれば」
「縁は結ばれるのを期待するもんじゃない。その手でたぐり寄せて掴みとるものだからね」
「……さいですか」
さすがに運命力の強い人間の言うことは違う。
だけど、まぁ。
まったくもって、そのとおりだ。
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