第6話


 ――また、悪夢を見ている。


 最愛の彼女棗真純が蒸発した。


 世界のすべてが色づきはじめて麗らかな春が吹き抜ける新学期のはじまりに、部屋の明かりも点けず、俺は羽化しそこねた芋虫のように蹲ったままフローリングに転がっていた。閉じきったカーテンからわずかに差し込む日の光で、辛うじて日中だということは分かるけれど、電池切れのスマートフォンは時間を刻むことをやめてしまい、長いこと物言わぬ文鎮と化して久しい。窓を締め切り、換気もしていないから、空気は淀み、饐えた匂いが充満して、ライターで煙草に火を点ける前に部屋がまるごと吹っ飛ぶんじゃないかって感じの空気が沈殿している。煙草の吸い殻で溢れかえる灰皿も、空になった数ダース分の酎ハイの空缶も、最後の一滴まで飲み干したカップ麺の容器で組み上がった発砲スチロールのジェンガも、いつから存在していたのか記憶も朧気だ。このワンルームにはごみと呼べるものしか存在しない。いい加減捨てにいかないといけないのに、微塵も気力が湧いてこない。


 俺は捨てられたのだ。という実感が未だになかった。このまま永遠に現実が伴わなくていいとすら思っている。いや、本当は違う。受け入れないといけないのだ。分かっている。けれど、否定したくて、受け入れたくなくて、だから、なにもできないでいる。なにかを動かしてしまえば、それは前に進んでしまうのと同義だ。とうに彼女は俺の前から消え去り、半月が過ぎて、新学期も始まり、十二畳一間の空間にずっと閉じこもっている俺以外のすべては止めどなく流れている。その事実を受け入れてしまったら、棗真純という最愛の存在が遠い場所へ行ってしまったことを認めないといけない。俺は無価値な人間であることを肯定することになる。それがとても怖くて恐ろしかった。


 数日前に樋口が持ってきたセブン=イレブンの惣菜パンは未開封のままテーブルの下に転がっている。視界の端に偶然みえた賞味期限はエイプリルフール。なにも信じたくない。現実に戻りたくない。なにもかもが嘘であってくれればいいのに。そんな願望は誰も聞き届けてくれやしない。合鍵を預けた樋口も氷堂も三月最後の土日にやってきて以来、顔を見せに来ることはなかった。十日以上、孤独に過ごしている。言葉の発し方を忘れてしまいそうになる。人間としての最低限度の生活とはこういうことを言うのだろうか。無為に寿命を消費している。なんて贅沢なんだろう。飢えて死んでいく子どもがいるのに、俺は与えられた供物に手を付けることもなく、飢えで死んでしまえばいいのにと投げやりになっている。けれど死にきれないことに安堵してしまっている。人間なんて物資さえあれば孤独でも生き永らえることができてしまうんだな、と他人事のように思う。クズの所業だ。

 ああ、そういえば授業の履修登録をしないとならないのではなかったか。先月分のガスと水道と電気の支払いもできてなかったような気がするし、そろそろ社会復帰しないといけないではないか。お節介にも程がある二人の友人の献身を無碍むげにしていいわけがない。なけなしの理性が頭の裏側でがんがん警鐘を鳴らしている。


 それでも、指一本動かせない。どうやって動かせばいいんだっけ。

 俺のなかの時間はもう何週間も止まったままだ。


 呆けている間にも日は昇り、天道を歩み、空の彼方へと消えて、いずれは明ける夜がやってくる。アパートの前の大通りは夜が深くなると交通量が激減して、静寂が支配する。雑音がなくなり、否応にも思考が研ぎ澄まされる。孤独になってから幾度も虚しい夜を迎えて、その度に考えなくてもいいことにまで思考のリソースが割かれてしまう。

 どうして。なぜ。

 狂おしいほどの熱を纏った恋心から生まれる疑問と疑念が正面衝突して空中分解し、四方八方へばらばらに散らばった疑心は彼女への愛情を黒く焦がしていく。


 天才の考えることはなにも分からない。それでも自分なりに理解できていたはずだった。努力してきた。でも、それはただの勘違いだった。無駄なことだった。彼女に対する気持ちが焦がされた砂糖のようにどろどろと闇夜に溶けていく。棗真純という存在の輪郭が砂上の楼閣のように曖昧になって、俺が付き合っていたはずの彼女は本当に彼女だったのだろうか、そもそもあんな常識の埒外にいる人間など端から存在しなくて、集団幻覚でもみていたんじゃないだろうか、なんてファンタジー小説でもボツ設定になること必至なトンデモ詐欺にあった心地になる。金も土地もなにも騙し取られていないからロマンス詐欺でもなんでもないけれど、徹底的に心を破壊されて再起不能に陥っているのは確かで、いっそ詐欺なら生涯手持ちのワイルドカードとして酒の肴にできたのに、冗談抜きでフラれて捨てられたのだから笑い話にもできやしない。


 このまま一生孤独な夜に閉じ込められて、楽に死ねればいいのに。けれど飢餓で死ねるほど日本は貧困ではないし、天才に選ばれた天才たちが俺を放っておかないのだ。それに、自殺するには向かない季節だ。そもそも、自暴自棄になって命を投げ出すほどの勇気もない。やっぱり死ぬのは怖い。前に進む以外に道は残されていないことを否応にも自覚させらてれるのに、どうにも脚は動いてくれなくて、年を越してから一度もクリーニングに出していない厚手の毛布に五体を包めたまま、ぼうっと薄暗い天井を眺めてはこれからのことをぼんやりと考える。


 わかっているのだ、このままではいけないことくらい。


 そんな気持ちを嗅ぎつけるように、玄関のあたりでがちゃり、と鍵が開く音が鳴った。近づいてくる気配にあわせて身体を起こす。


「なんだ、案外元気そうになってるじゃん」

「…………」


 氷堂は遠慮の欠片もなく台所を占拠しはじめると、そろそろ片付けしたらどう? 足の踏み場ないんだけど、と絶望の底で蹲る家主に文句を言う。


「律儀に風呂と洗濯だけは欠かさないくせに、他のことは一切やらないままでさ、いい加減に立ち直りなよ。そりゃあ棗さんのことは残念だろうけど、いつまでもへこんでたらもったいないよ」

「……そうだよな、俺にはもったいなかったんだよな、あんな人…………」

「そういうことじゃないから。もう一ヶ月も連絡取れないなら仕方ないじゃん。正義だってさすがにどこに飛んでいったか、なんてことくらいは教えてもらったんでしょ? こっちから会いに行ってみたらいいじゃん」

「……留学の相談すらしてもらってなかったんだぞ? 押しかけにいっても無駄足だろ」

「あんなに好きだったくせに、諦めるんだ……」

「俺の気持ちなんか分かるかよ……」


 諦めているわけじゃない。

 ただ、怖いのだ。


「正義だって、私の気持ちなんて少しも知らないじゃん」

「んな余裕ねぇよ。もういっぱいいっぱいだよ。どうすりゃいいかわかんねぇんだよ。どうやったらこんな思いをしなくて済むんだよ。誰でもいいから、助けてくれよ……」


 覇気の伴わない慟哭どうこくが漏れる。


「……なら、さ――」


 いつの間に、鼻先と鼻先がぶつかる距離に氷堂がいた。黒くて、昏くて、引き込まれそうな瞳のなかでひどく憔悴した俺の顔が揺れている。ばかみたいに長いまつげがふわりと揺れて、愛用している櫻の甘い香水が俺をゆるやかに非日常へ引きずり込んでいく。瑞々しい薄桃色に染まる唇から微かに伝わる微熱と息づかいに酩酊感を覚えたまま、俺は氷堂のされるがままに身を任せて、


「――私が、連れ出してあげる」

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