第5話
「久しぶりの再会を祝して、乾杯っ!」
「…………っ」
あの頃とはなにもかもが変わってしまった。連れてこられたのは新宿にあるおでん屋で、乾杯、という真純の声は周囲で騒ぐ老若男女のガヤに掻き消される。俺は気持ちの整理がつかないまま強引にこんな場所まで連行されて、いまに至る。
「……というか、そうだよね、まずは謝らないといけないね。ごめん」
「……そんなんで済むと思ってるんですか」
「思ってないよ。でも、言わないとなにも始まらないでしょ?」
「……もう、全部、終わったじゃないですか。いまさらなにをはじめるつもりなんですか」
「なにも始まってなかったってことだよ」
「なら……。あの一年は真純にとってなんだったんだよ!?」
「……中途半端で未熟だったから、はじめるのに失敗しただけ」
「……なんだよ、それ」
あんまりに身勝手な答えだ。俺の気持ちも知らないで。
「怖くて逃げ出した。それで、そのまま会うのが怖くなった。でも、今日、正義の背中を見つけて、ああ、あたしって全然忘れられてないんだ、って実感したら駄目だった。これで終わりでもいいから、だから、ちゃんと話しなきゃって……そう思って、声、掛けたの……」
「あの後、俺がどんな気持ちになったか分かるか?」
「……いいよ、全部ぶちまけて」
「糾弾されて赦されるなんて思ってるのかよ」
「それで気が済むわけないことくらい分かってる。なにも言わずに留学して、正義からの連絡全部断ち切って、戻ってきても報告しないで、そのまま今日までなにもなかったよにして、ごめん」
「…………」
言葉が出てこない。詰問するための台詞が、感情が、胸の奥底から溢れ出て喉元でとぐろを巻いている。舌先まで出かかった罵詈雑言を店員に注がれたビールで無理矢理飲み込む。吐き出せば少しは楽になれるのに、なんでそんなこともできないのだろうと困惑して、余計に思考が回らなくなる。期待しているのか。謝罪を受け入れるつもりなんて毛頭なかったのに、はねつける覚悟もできてなかったってことなのか。それとも、全部が壊れて元通りにできるはずないと思っていた関係がどうにかなるんじゃないかって、いまさら馬鹿みたいな夢に縋り付こうとしているのか。
ずっと前は期待していた。いつかはこんなふうに真純が俺のところに戻ってきて洗いざらい罪を告白して懺悔してくれるだろうと。それで、俺も彼女の告白を受け入れればすべてが解決すると信じていた。けれど、社会人になって、仕事に忙殺されるようになってからは期待することをやめた。仕事が彼女のことを忘れさせてくれた。考えなくて済んだ。あれだけ他人に迷惑をかけて、世話を焼かれて、それでも真純のことを忘れたことは片時もなかったくせに。時間が有り余っていた頃はあれほど苦しんだのに、その痛みはいつの間にか薄れていた。他人の親切も憐憫も慈愛もはじめから必要なかったのだ。
なんて皮肉な話だろう。
だから、いまさら洗いざらいぶちまけられてた気持ちを、俺は受け止めきれないでいる。赦したくなかった。謝って欲しくなかった。別れたくなかった。会いたくなかった。どれも本心で、どれも本音じゃないような気がする。自分の気持ちがわからない。探す。酒を呷って、もっと深いところに潜っていけば彼女に伝えたかったことが見つかるような気がする。
霞んでぐらつく視界のなかで、真純はじっと俯いてた。
「真純がいなくなってから、俺がどうなったかくらいは知ってたんだろ?」
「……うん」
「……どうして、いまさらなんだよ」
本当に、遅すぎる。
なんの価値もなかった無為な青春は、もう取り返しがつかない。あの頃あんなに一緒に馬鹿をして笑い合った友達も親友も、真純がいなくなってからあっという間に全部失って、社会に出てからはずっと孤独に生きてきた。
なのにどうして、いまさらになって俺を捨てた女が目の前にいるんだ。
なんで、こんなところで交わってしまうんだ。
「俺は……ずっと、待ってたのに……」
「……ごめん」
「少しでも繋がっていられたら、それだけで大丈夫だったのに……」
「…………っ」
けれど、そんな些細なつながりすら真純を駄目にすることを俺は知っていた。孤独な天才は愛を欲しないよう、忘れようとして手を伸ばせる場所を増やし、背伸びしていたことを。愛情という底なし沼に溺れないよう必死に足掻いて、逃げ続けていたことを。
怖がらないよう、恐れないようにと、恋という楔で繋いでいた、はずだった。
ただ、思い至らなかっただけなのだ。
彼女の臆病は、その楔をいとも容易く食い千切ってしまえるほどだったということに。
「俺、は……」
繋がっているつもりだった。それなのに、彼女は俺とのすべてを断ち切って、あの日、俺の前から忽然と姿を消した。
「なん、で……」
俺を捨てたんだ――その叫びは、いよいよ声にならないかった。
朦朧とする視界の先で、真純が、ごめん、と囁く。その声音に滲んだ感情に、俺は戸惑う。終わったと思ったもの、それがまだ、真純のなかでは本当に終わっていなかったことをようやく悟る。
――はじめるのに失敗しただけ。
獲物を捕食する狩人の眼差し。酒に飲まれてしまったから気づかなかった。いつの間にか、一服盛られていたのか。もう、すべてが遅い。
遠ざかっていく意識のなかで、最後に聞こえたのは、蠱惑的な彼女の嗤い声だった。
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