第3話


 久しぶりにやってきた六本木ヒルズ森ビルのエントランスは相も変わらずサラリーマンでごった返してた。ビル内のスターバックスで受付開始ぎりぎりまで時間を潰し、頃合いを見計らって入場すると、セミナー会場の中央あたりの席を陣取った。


 セミナーを主催するPNY総合弁護士事務所は、日下部商事と付き合いのある弁護士が在籍する大規模な法律事務所だ。所属する弁護士の人員は500名を超え、事務所も国内に5拠点、アメリカやヨーロッパ、アジア各国にも裾野を拡げている。無論、所属する弁護士はすべからく超一級。俺が逆立ちしたって敵わない秀才あるいは天才たちが集う場所だ。


 弁護士の主な稼ぎは裁判での訴訟対応を中心とした紛争対応や、企業を顧客とした顧問弁護に基づく報酬だ。PNYのような大きな事務所であればそこに渉外活動が入ってくる。世界中でビジネスをしている大企業の顧問弁護士集団なのだから当たり前の話だ。

 その傍らで、所属する弁護士は定期的に法令に関するレポートを書いたり、書籍を出版したり、セミナーを開催している。これは自身の能力や知識や活動をアピールすることで存在を認知してもらうため。そして顧客を増やすためだ。いわゆる営業活動のようなものである。

 セミナーの多くは有料で開催されるが、数百人の集客を見込めるテーマを掲げるセミナーは無料で開催されることも多い。今日はそれだ。しかも講師は日下部商事と長年付き合いのある七里ヶ浜弁護士。30代前半という若さでありながら、大手事務所でパートナー弁護士という地位にまで上り詰めている新進気鋭の一人である。独占禁止法という少々ニッチな分野でありながら、セミナーを開催すれば毎回即日で満員御礼になる。


 満員御礼になる理由も、分かる気がする。遠目から見てもはっきりと分かるほどのイケメンだ。目鼻筋の整った綺麗で甘いマスク。理知的さを引き立てる銀縁フレームの眼鏡がその甘さを引き立て、柔らかい低めの声色は魔性にも似た印象を与える。身長も180cmくらいあるだろうか。

 頭脳明晰で若くしてパートナー弁護士になるほど優秀、それに加えてあの外見だ。春日の指示で先生のセミナーを何度か受講しているが、他の弁護士と比べても、どういうわけか受講者に占める女性の割合が多いのは気のせいではないのだろう。


『羨ましい限りだ……』

 人生で盛大に躓いてしまった俺とは正反対。あの若さでパートナー弁護士ときた。トントン拍子の出世コースをムービングウォークで軽やかに駆け抜けているようなもの。あれだけ外見もよければ人生に困ったことなどほとんどないだろう。

 開場早々にやってきた他社の法務関係者が、七里ヶ浜弁護士の前に続々と列を成しては名刺交換をしている。あの朗らかさに落ち着き払った声。営業スマイルは決して崩れない。挨拶だけで済ますのは勿体ない、もうちょっと会話をしていこう、という気持ちになるのも頷ける。制限時間30秒の握手会を眺めているような心地になってくる。


 そんな光景をぼうっと眺めている間に時間がやってきて、セミナーが始まった。


「……――それでは本日のセミナー、講師をさせていただきますPNY総合法律事務所の七里ヶ浜でございます。簡単な自己紹介ですが、2013年に弊事務所に入所しまして、2018年からの1年は公正取引委員会へ出向、その後は米国にある提携事務所へ出向し、NY州の弁護士資格を取得しまして、現在は独占禁止法や下請法、海外の競争法を中心に各取引先様をサポートや渉外活動をさせていただいております。それでは……早速ではありますが、本日のセミナーの概要からご説明をさせていただきます。――……」


 セミナーの内容は独占禁止法で禁止している談合を中心としたカルテル事案の紹介・解説と、最近ホットになりつつある再販売価格の拘束というテーマで話題になった松川電工の事例紹介だ。この法律は、商社といえど無碍にはできない法律の一つだ。その気になればメーカーと結託して市場価格を操作することも可能だし、反対に商流に噛んでいるがゆえに事案に巻き込まれることもある。日頃から営業をサポートする法務は勿論、基礎的な部分は社内研修を通して営業にもレクチャーしなければならない。今日は俺自身のためだけではなく、社内教育向けに準備する教育コンテンツの参考として、内容を持ち帰るつもりで言ってこいとの上司命令だ。


 七里ヶ浜弁護士は慣れた所作でスライドを次々に捲っていく。独占禁止法の考え方の基礎と事例、公正取引委員会による各事例での判断基準と罰則の内容を、要点を押さえながら流麗に紹介しつつ、違反事例を教訓として各社ではどのような従業員教育や違反行為を未然防止するか、という提言へと繋げていった。淀みなく、それでいて受講者の追いかけやすいテンポで話を進め、ときには自身が経験した事案を織り交ぜてユーモラスに溢れた講義は完璧だ。コンテンツもさることながら聞いているこちらを飽きさせないよう配慮がされていて、講習のあり方としても参考になる。自分も、社内の法務教育で営業に講習をするときはこういう姿勢と態度で臨まないとならない。

 あっという間に90分ばかりの講義が終わると、「質問される肩は所属企業と指名を仰ってください」との合図を皮切りに質疑応答が始まり、あちこちから手が上がる。基礎的な内容の再確認から、オブラートに包んではいるが所属している企業で起きた事案に対する見解のヒアリング、松川電工の事例を踏まえた細かい論点への質問などが飛び交う。理路整然でかつ要点を押さえた受け答えも、流石はパートナー弁護士だ。


 そうして質疑応答の時間もあっという間に残り5分を切ったところで、七里ヶ浜弁護士が次で最後にすると言い、俺の後ろで手を上げ続けていた女性を指名した。

「松川電工の法務に所属しています、棗と申します」


 ナツメ、という響きを耳にして、不意に脳裏を過ぎる苦い記憶。

 ――それじゃあね、また明日。後期の試験、遅刻するなよ? 単位だけは落とすなよ?


 今頃、どうしているのだろうか。

 夢幻のような一時の最期に残された柔らかい愛情のようななにかを、俺はまだ忘れられないでいる。もう取り戻せるはずもないのに、消えないように忘れないよう、心の奥底に鍵をかけて封をしたある苦い記憶。その鍵が緩み、内側からふっと溢れて、俺の思考を幸せの終わりが訪れたあの瞬間に飛ばした。

 我に返ると、最後の質疑応答も終わり、セミナーもクロージングに差し掛かっていた。最後に七里ヶ浜先生が軽い会釈をすると疎らな拍手が起きて、弁護士事務所の秘書と思われる方が出入り口で「お帰りはこちらからお願いします」と声を張っている。我先にとぞろぞろ出入り口へ殺到する同業者を見送りながら、俺はゆっくり帰り支度をはじめた。どうせ今日はもう職場に戻らない。来週早々が締め切りになっている仕事はいくつかあるが、それよりは連日の徹夜で凝り固まった疲れをほぐすのが先決だ。そうとなれば久しぶりにスーパー銭湯にでも立ち寄って、はり灸をやるのでもいいな、と考えを巡らして――、


「ねぇ」

「……っ」


 まとまりかけた思考が、吹きかけた香水のように霧散した。

 ふわりと記憶をくすぐる檸檬の香り。人懐っこさが滲む甘い声音。

 身体が勝手に、声の主へと向いていく。存在を認めたくないと叫ぶ心を無視して。

 そうして彼女を認めた瞬間、胸の奥で錆びかけていた錠が壊れた。


「真、純…………?」

「……久しぶりだね、正義くん」


 いるはずのない人が、そこにいた。


 俺の青春と人生を徹底的に破壊していった、かつての恋人が。

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