第2話

 俺が新卒採用枠で入社した日下部商事は、電材や工機、電子部品を扱う専門商社だ。


 商社といえば財閥系をはじめとする総合商社が有名だが、それ以外にもそれなりな数の商社が日本全国に存在している。

 世界に存在するありとあらゆる商材を扱い、産み出し、なければ需要ごと創りだしてしまうのが総合商社だとすれば、多種多様な商材の中から特定種目の商材をメインに扱い、分野こそ狭いがメインとした商材の取扱いにおいては右に出るものがない存在として商流や物流を握るのが専門商社である。双方ともに扱わない商材は人の命くらいだ。

 日下部商事の得意領域は電子部品だが、さらにユニークなのは商材の卸先だ。商材の販売先はいわゆるスタートアップやユニコーン系で、債権回収リスクが高い企業ばかり。だが、不思議なことに債権回収ができなかったケースは両手で数えるほどしかないらしく、そうと知ったときはさすがに舌を巻いた。取引先選定は先代の社長による決裁に一任されていたことを思えば、与信審査だけでは到底カバーしきれない金回りの嗅覚と将来性のある企業を見抜く才があった。まさしく商人に必要な天賦のそれとしか表現のしようがない。


 他人には真似できない感性でもって会社を立ち上げ事業を成長させてきた先代から役職を引き継いだ二代目社長は、実直で堅実な経営手法を駆使するタイプで、そうであるが故にケチで貪欲に過ぎるきらいがある。持ち前のセンスを活かしつつも売上や事業規模は深追いせず、あくまで取引先や商材を重視していた先代とは真逆の経営戦略――つまり、取引先と商材の拡大――を掲げて指揮を振るい、事業と収益の拡大を図ろうとしている。

 経営や財務状況がしっかりした取引先を増やし、ラインナップを拡げることで、取引数そのものと数の暴力により相対的にリスクを減らすことを意識した成長方針だ。ある種当たり前であり堅実な選択肢だが、だからこその二代目。その経営手法も市場とマッチしたのだろう、営業が死に物狂いで顧客と取引先を開拓した結果、新規に取り扱う商材はこの2年で3倍になり、商材を卸す顧客も倍以上に膨れ上がった。


 それは喜ばしい事実だ。事業や売り上げは確実に拡大しつつある。だが、無視できない課題もまた膨れ上がる一方だった。


 あたり前の話として、企業が成長するためには抱える商材や顧客に対応しきれるだけの基盤が不可欠だ。しかし、ケチが災いした結果だろう、企業基盤バックエンドを担う人員は増えず、システムや体制への投資予算は先代から引き継いだ頃の数字から据え置きのまま。営業活動に関わる予算だけは増えていくのに、それを支えるためのあらゆる機能には追加予算の承認が下りていないのが、ここ二年の話である。


 ゆえに、営業から舞いこんでくるあらゆる事項への対応が常に追いつかない。適正人員からはほど遠い過小なメンバーと古びたシステム、事業拡大に適さない仕組みとルールと体制、すべては旧態依然のまま。労働基準法を完全に無視して捌くもなお積み上がるは、営業から投げつけられる数多の業務指示とクレーム。

 営業部隊は顧客に良い顔をするために無茶な要望の悉くを押しつけてくる。いくら管理部門が音を上げても、白旗を振っても、その勢いが止む気配は一向にない。

 なぜなら、彼らの手札にはバックエンドを黙らせるには十分な絶対的な手札があるからだ。



「誰がお前たちの給与を稼いでいるのか分かっているのか」という、悪魔の言葉が。


※※※


 修正案を山川に送りつける頃には、正午まであと30分となっていた。

 休憩から戻ってきて、ノンストップで契約書に赤を入れた。山川の商談相手である松川電工は電機業界のなかでも世界有数の大企業だ。白物家電、黒物家電から航空システム、Wi-Fi基地局、果てには家まで作り上げてしまうメーカーである。だからこそ日下部商事が扱う商材のすべてに売りの見込みが立ち、ひとたび懐に飛び込んでしまえば、スタートアップを束にしても到底たたき出せない桁の商売に繋げることができる。


 俺がレビューしている契約は、これからの日下部商事にとって大動脈となる血管そのもの。

 取引関係の成約は至上命題であり、致命的な事項がない限り、新規取引先として松川電工を認めることは既定路線だ。

「…………まぁ、それでもやらないといけないことはやらせてもらうがな」

 相手は年商十兆円弱の大企業。たかだか年商数十億円の商社が噛みつこうなど烏滸がましいにも程がある。ノミが象に挑むようなもの。結果は見え透いている。

 それでも、大事なのは結果だけではない。すんなり言うことを聞く会社ではないという姿勢を見せておくことも、今後の関係性を維持するうえでは大事なことだ。


 ――そう信じて、騙さなければ、俺は自分で存在意義を立証できなくなる。


「お、いたか法秤」

「春日部長、お疲れさまです」


 経営会議を終えた上司の春日が俺のデスクに資料の束を置いた。


「……これはなんです?」

「仕事だ。今日のセミナーの前に対応しておいてくれ」

「は? 昼と会場までの移動時間抜いたら30分しかないんですが」

「飯をさっさと時間を捻出できるな」

「そういう問題じゃ――」

「飯にありつけるだけ感謝しろ。私はこれから人事部と安全労働衛生管理の会議がある。総務の部長も兼務している俺は昼も喰えん。法秤が出るまでには戻ってこないから。あとはよろしくな」

「よ、よろしくって……あっ……ちょっ…………」


 あとは任せたとばかりに俺の肩を叩いた春日は、引き留める声を無視して居室から出て行ってしまった。


 どさりと積まれた資料は経営会議資料の山、それと今後予定されている営業部門に所属する若手・中堅向けの法務教育資料のゲラだ。どうせいつものように社長や営業からの文句と指摘事項があちこち差し込まれているに違いない。

 経営会議資料は機密性が高い資料のため、会議後は春日が持ち帰ってくる。裁断破棄をするのは俺の仕事。役員付の秘書に任せればいいものを、手間はかけさせたくないだの秘書には機密を共有できないだの理由をつけては俺に処分をさせる。持ち帰ってくるんだから自分でシュレッダーをかければいいものを。


 だが、それ以上に問題なのは教育資料だ。実施期間や教育概要を報告して事足りるはずなのに、教育資料を役員に見せたところで筋違いの意見しか返ってこないのだから意味がない。指摘箇所をさらっと通してみるが、想定通りどれも目線がズレている。まがりなりにも何十年と営業畑を経験してきたベテランなら、こんな資料の内容は当たり前に把握してもらわないと困る初歩的なものだ。だからこそ若手・中堅向けに仕立てたそれを熟年者の視座であれが足りないこれが足りないと手を加えてどうする。


「ゲラチェックは軽めでいいな」


 誤字、脱字、体裁チェックに頭を切り替える。あちこちに書かれた青色のコメントはどれも無視し、機械的に資料を黙読する。

 そうして降って湧いた仕事を片付けたら、昼休みも半分が終わろうとしている。俺はまた目薬を挿し、用済みの経営会議資料をまとめてシュレッダーに放り込む。


「今日は直帰……と」


 今日が締め切りの仕事はすべて片付けた。ほぼ二徹で磨り減らした気力と精神を犠牲にして。だが、これでもう自由の身だ。セミナーなど休憩時間に等しい。それに、今日は金曜日。この心はアフター5を待つまでもなく晴れやかだ。


 窓際に置かれたホワイトボードに『セミナー、外出、直帰』と殴り書きをし、俺は誰にも掴まらないようにと願いながら足早に会社を後にした。

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