この契約書は結べませんっ!
辻野深由
俺は、辞める。
第1話
労働はクソだ、という台詞は金言だ。
とくにこの、契約審査という仕事は、寸分も価値を生み出さない。
売り上げを担う部署の言いなりになって文書を作る。意図や要望から少しでもズレた条件になっていれば罵詈雑言とともに突き返され、その度にひたすらwordに向き合う。営業が伝えてくる不明瞭で言葉足らずな思慮の浅い取引条件を翻訳し、誰でもわかる文章に仕立て、六法や専門書籍を睨みながら不利な取引条件に茶々を入れ、文句を差し込み、不合理だの不条理だの平等ではないだのと不平不満を垂れ流しながら合意はできないとコメントしていく。
そうやって取引先と幾度も文書でやりとりをして、互いに交渉カードを出し尽くしたところを着地点として、社内のあちこちに頭を下げながら稟議を進めて部長や専務や社長の決裁承認をもらい、できた文書に判子を押していく。
そこには、ドラマや小説にあるような緊張感のある駆け引きなど微塵もない。あるのは上下関係と力関係に任せた面白みのない交渉ごっこと、お偉い方々へ頭を下げて回るお役所的仕事と、最初から結果など知れている出来ゲーム。相手がちいさい企業であれば大きく出て不合理な条件を突きつけ、取引規模がでかければなにをどう主張しようが取り付く島もなく泣き寝入りをするしかない。
そうした無為なコミュニケーションをひたすら繰り返す。毎日、毎朝、毎晩。休む暇もなく。まるで商談を成立させるためには必要不可欠な儀式のように。
この2年でどれだけの契約書を作ってきただろうか。最初の3ヶ月で200件を超えたあたりから数えることはとうに辞めた。身のない仕事なのだから、こんな数字に意味はない。営業や相手先と切った張ったのやりとりをすることも半年で諦めた。自分で売り上げを立てない部門が取引条件に口を出す権利はどこにもない。
面白みのないクソみたいな仕事――それが契約審査だ。
「…………っ」
目の前に広がる契約書は、営業が新たに開拓しようとしている取引先の一つから提示されてきたものだ。あまりに横暴で無茶苦茶なことが書かれた契約条件に、俺は無心で修正を加えていく、つもりだった。
『……んなこと、うちみてぇな中小の商社ができるわけねぇだろうがよっ!!』
血の海のように赤文字が広がっていく契約書面を前に心のなかで悪態を吐く。感情を廃さなければ作業効率が下がることは百も承知の上で、それでも堪えきれない。連日ほぼ徹夜のような業務量で疲弊しているのもあるだろうが、それ以上に、反吐が出るような条件に目が眩む。昨今はどいつもこいつもコンプライアンスだのESGだの意識の高い横文字を声高に叫びながら取引先に押しつけてくる。そこに書かれていることは、実体の伴わない綺麗事。たかだか数十人、数百人しかいない会社がこんなことを律儀に守っていたら経営など数ヶ月で立ち行かなくなる。だから守っているフリをしろ、けれどバレたら手前が自分でケツを拭け、というわけである。
まったくもってふざけた話だが、首を縦に振らなければ商談がおじゃんになる。そうなれば営業は黙っていない。ウチのような中小企業はもはや取引先を選り好んでいる余裕もない。だから、虚妄に加担せざるを得ない。できないことをできると嘘を吐くしかない。こんなのは詐欺と同じだ。できるはずもないことをできると宣い、信用を得てビジネスを前に進める。綺麗事で世の中が回らないのと同じように、正直なフリをしなければバカを見る。まともな人間にはどうにもきつい現実だ。
最近はこんな契約条件が百鬼夜行の如く舞いこんできて、まがりなりにも道徳的な俺の精神を貪り喰らっていく。
そんなことを思いながら契約条件を睨んでいるうちに目が痛くなってきた。打鍵する手を止め、デスクの抽斗に常備している点眼薬を挿し、眠気を飛ばそうとするが、まるで効き目がない。
「……珈琲でも入れるか」
立ち上がり、居室を出て休憩室で一息つく。自販機で無糖のブラックコーヒー(HOT)のできあがりを待っていると、見たくもない顔と目が合ってしまった。
「電話が繋がらないからどうしたのかと思ったんだが、出社しているのなら折り返し電話くらいしたらどうなんだ、法秤くん。社会人の常識だろう」
「朝6時から立て続けに会議が4件、そのあとすぐに松川電工との契約の審査をしなきゃならなかったんで。すいません」
寸分も心にない謝罪文句を口にして平謝りをし、俺は出来上がった珈琲を喉奥に流し込む。金額相応に不味いが、これはこれで気付けになる。
山川の目当てはエナジードリンクらしかった。200円もするRedBullを半分ほど一気に飲み干すと、俺の首から垂れ下がる『法秤正義』と書かれた社員証を睨みながら口を開く。
「松川電工の件、今日中に先方へ返事をすると言ってあったよな。午後一番から商談があるから、それまでに修正案を寄越してくれ」
「分かってます。だから午前中までに対応して――」
「昨日中に送ってくれれば良かったものを」
愚痴のような小言に、俺はしかめっ面を浮かべた。
昨日は昨日で急に山川が欧州にある電材メーカーとの販売代理店契約の案件を持ってきて、即日対応を急かしてきたのだ。それも定時後に。居室に掲げたアナログ時計の短針が天辺を過ぎる前になんとか対応を終え、それから今日の午前中が締切になっていた先約の売買契約の審査をし、恵比寿にあるオフィスを出た頃にはすでに山手線の終電も終わっていた。仕方なくタクシーを拾い、仮眠して、日の出前にはまたこのオフィスに舞い戻ってきている始末だ。
毎日がこんな調子で、出社をして誰かと顔を合わせれば手土産とばかりに契約案件の審査依頼を渡され、タスクとして持ち帰ざるを得ない。なんとか期限までに間に合わせても感謝はされない。少しでも思惑通りに動いていない様子を見るや否や、営業はこうして悪意の感情をぶつけてくる。大事なのは客先で、法務の契約審査担当など客先に失礼のないよう書面のチェックをして事務処理対応するためだけに手を動かす小間使いでしかない。
「とにかく急いでくれよ」
残りを一気に飲み干し、お決まりの台詞を吐き捨てるように言って、山川は休憩室を出ていった。
俺も珈琲を飲み干し、壁に掛かったアナログ時計を見やる。すでに4時間以上も稼働しているが、まだ午前の10時だ。どのみち午後は外出の用があるため、どんな形であれ午前中に山川の依頼は片付けなくてはならない。
紙コップをぐしゃりと握りつぶして可燃ごみ用のごみ箱へ放り投げる。
「しょうがねぇ……。やるかぁ……」
可燃ごみの隣に設置された青色のごみ箱からあふれかえるエナジードリンクの残骸を見やりながら、俺は溜息を溢した。
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